ナガサキの日、フクシマ の無責任

きのう9日は長崎原爆の日でした。

田上富久長崎市長は平和宣言で、アメリカに対する過度の配慮から核廃絶に関する日本政府の及び腰を批判して「被爆国の原点に返れ」と訴えました。

同感です。当然のことを言わなくなり、言えなくなって来た昨今の風潮に対して、厳しく責任を問う発言だったと思います。

一方、東京電力福島第一原発の空前の大事故に対し、検察当局は誰の責任も問わないという方針を決めました。

告訴告発された東電幹部も政府関係者も、地震・津波は「想定外」だったという理由で全員不起訴というのです。

多数の関連死をもたらし、生業・生活を破壊し、国土という生命と環境の基盤を喪失させた事故に、誰一人責任がないという判断なのです。こんな理不尽はありません。

先の戦争の責任は、国際的には東京裁判で結着させたことになっていますが、国内的には誰も責任を問わず、問われることもありませんでした。

いまでは都合の悪い歴史はなかったことにする声高な主張すら、堂々とまかり通るまでになっています。特にネットに溢れる匿名の品性のない「落書き」には、組織的な臭いさえ感じます。

第二の敗戦という表現があった福島事故に関しても、誰の責任を問われないことにして忘れる。これが許されるなら、もはや世界の珍奇遺産にしたい不思議な国、ニッポンという他はありません。

誰の責任でもないことにしても、「責任」が雲散霧消するわけではないでしょう。とすると、それは日本国民の責任ということになります。

54基の原子炉を豆腐のような大地の上に建設したことも国民一人一人の責任になるわけですが、とうてい納得できない話です。

この延長でいえば、最稼働も、原発輸出も、その結果に何が起ころうが国民の責任になります。

広島の平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と誓いの文言が刻まれています。 この碑文の「過ちを繰り返しませぬから」の主語はだれか。建てた時から議論を呼んできました。Wikipediaをみると詳しい経過がわかります。現在は、主語は「人類」というのが公式見解になっているそうです。

しかし私は、主語は3種類と考えています。かつて、仕事を共にした海外のTV局のプロデューサーを広島に案内した時に、「主語は何?」と尋ねられて考えました。

まずは「アメリカ」で、「原爆を投下した過ち」です。アメリカには非戦闘員の頭上に残虐兵器・原爆を投下した責任があります。

2つ目は戦争を主導した日本の軍部・政府の「原爆を投下させた過ち」です。世界の閉じこもりとなって破局的な戦争に国民を引きずり込み、原爆を投下させることになったのです。軍部・政府にはその責任があります。

3つ目は「現代に生きる私たち」です。「過ち」を繰り返させず未来の世代を守るという責任があります。

長崎市長の「被爆国の原点に返れ」という言葉は、被爆国としての国際社会のおける責任を十分果たしていないということです。

同じ日に「福島事故に責任者はいない」とする報道。

責任を問わずして、未来を描くことはできないのです。