山本有三の処女作 「穴」:弱者にそそぐまなざし

長三「為さん、昨日黒え痰の中に赤えものが交って出やがった。どうも俺は助からねえかもしれない」

為吉「お前は気が小さいからいけねえ。そればっかりで人間一疋さう死んでたまるもんけえ。お前は俺より十歳も若えんだ」

長三「むかし俺の親父の時代にゃ、抗夫の寿命は二十七止め、三十は長命だといったもんだ。それから見れば俺ァ余程長生きしているんさ。だけど俺はまだ死にたかねえよ」

為吉「下らねえこと考へるなよ」

山本有三作の芝居「穴」の一節です。

足尾銅山を舞台に山本有三が芝居の台本を書いていることを知って、さっそく図書館で全集(新潮社、昭和五十二年版)を借り出して読みました。

何と有三の処女作、タイトルはそのままずばりの「穴」。

有三が一高の学生だった明治43年(1910年)に足尾銅山を訪れ、見聞をもとに書き下ろした作品です。

登場人物は7人、場所は「某鉱山の坑内」。ト書きに「夜よりも暗し」とあるので上演の時の舞台はさぞや暗い設定だったことでしょう。

全集の編集後記に、舞台は見るよりも「せりふだけで聞かせる芝居で、ラジオドラマの先駆といってよい新趣向」と評しています。

学生の作品が雑誌「歌舞伎」の付録として活字になり、同時に牛込高等演芸館で初演されたのですから、才能もさることながら文学者としての幸運なスタートでした。

「穴」は短い一幕ものです。全集でもわずかに16ページに収まっています。

真っ暗な舞台での坑夫や他の作業員それに坑夫希望の男、合わせて6人の交わす会話で構成しています。

芝居の出来はいささか散文的で決して傑作ではありませんが、会話で取り上げている話の内容には興味があります。明治時代の坑内の様子がよくわかります。

芝居は、長三と為吉という二人の坑夫の会話で始まります。

カンテラの灯のともりを気にしている長三は胸を病んでいます。

銅鉱石を掘るときの粉じんを吸い込むことから生じる職業病、「珪肺病」が慢性化しているのです。

「珪肺病」を坑夫たちは「よろけ」と呼んでいました。肺気腫のため息苦しくなりよろける症状が出ることから「よろけ」でした。

「職業病」ならば安全対策を講じない会社に責任がありますが、うすうすは粉塵のせいと感じても会社の経営責任を追及する意識はまだなく、労働者の権利の主張がない時代でした。

むしろ「よろけ」が出てようやく一人前の坑夫になったと周りから認められたと言います。

肺気腫が重症化したところに肺結核に感染すると、それはもう死病でした。「三十歳が長命」とあるのはその意味です。

「よろけ」が職業病と認められ本格的な安全対策、健康管理が行われるようになったのは、労働組合の運動と世論の後押しが生まれた第二次大戦後でした。「珪肺病」は石炭や各種鉱石の採掘をしていた日本国に、かつては広く蔓延していたのです。

次には昇降機(ケージといいました。籠の意味でしょうね。坑内と上がり下りする時に利用するエレベーターのこと)の事故が話題に上ります。

為吉「一昨日ってば、ひでえ事だったなう」

長三「あれ(ケージ)に乗ってた者は一人残らず粉微塵だというじゃないか」

為吉「どれが誰の体だか見分けがつかねえ程メチャメチャになつちゃったんだ。俺ァ輔さんの骨を拾いに行ったんだが、分からなくって弱っちゃったよ」

この会話を手始めに坑内の過酷な労働環境と登場する坑夫たちの人生が語られてゆきます。

鉱車(トロッコ)を押す鉄助は一生懸命稼いでいるものの「鉄公が坑内(シキ)で鉱(カネ)を掘ってる間に上じゃ誰かが嬶を掘ってるのよ」という坑夫同士の噂話のタネになっています。

地下七百尺(230m)の地熱と空気不足から真っ裸でのみを振るう若者安太の無軌道なその日暮らし人生も刺激的です。

ベテラン坑夫秀次郎に案内されてきた坑夫志望の山一の「主人の金銭を遣い込んだのですから、世間には出られないんです」という言い分を笑い、自嘲することから坑夫たちの「地獄」の事情がわかります。

山一に向かって「よろけ」を病むベテラン坑夫の為吉が忠告します。

為吉「其細え体じゃ直ぐ青ん蔵になって黒え痰を吐かなきゃならねえ。悪いことは言はねえから里へ帰りなせえ」

山一「とても坑夫にはなれますまいか」

為吉「・・・坑(シキ)の中に這入るのは夜中に水甕に落ち込む鼠のやうなもんだ。匍出ようたって出られるもんじゃねえ。ただ闇の中であっぷ、あっぷして死んぢまう許りだ」

やがて忠平という坑夫が登場します。火薬箱を携帯しています。火薬箱の中には固い岩石を砕く発破のためのダイナマイト(クスリ、と言っていたようです)が入っているはずです。会話からそのダイナマイトも自費で購入して使用することが明らかになってきます。

採掘量による出来高払い坑夫には、ダイナマイトは高額すぎて採算割れ。そこで値上げを交渉してもすげなく拒否されるという悩みを語り、やがてストライキをするしかないという話になります。

忠平「見張りの奴等俺達を狆ころか豚でも追回はすやうに、大きな面してものを言いやがるから、癪にさわらア。第一俺たちはかうやって真暗え処にはひって汗水たらして稼いでいるのに、彼奴等ァ坑外(オカ)で何にもしないで遊んでゐるんだ。それで給料はってえと俺達たァ比較(クラベ)ものにならねえ程取ってるじゃねえか。働かねえものは為てえ三昧なことをして、働く者は其日の食にも困るって法が全体世の中にありますけえ」・・・「どうしても分からなけりやストライキをやっつけちまふってさ」

坑夫たちのストライキのイメージは暴力的で、一揆や暴動に近いものでした。かつては見張りを坑内の深い竪坑に突き落としたこともあったといいます。

為吉「しかし、こんなこたァ、今の俺にゃ出来ねえ。やるんなら若えてあひでやりねえ」

忠平「うん、じゃ威勢よく俺達でやっつけべえ」

為吉「前に言っとくがの、忠さん、ストライキが旨くゆくと思ふと違ふぜ」

忠平「有難う。なァにまかり間違えば佐渡へでも何処へでもふっ飛んぢまはァね。此鉱山(ヤマ)ばかりが鉱山じゃねえ」

坑外に出る時間が来ます。そこでまた昇降機(ケージ)墜落事故の話に戻ります。

坑外に出る身支度をしながら、ケージの点検を怠ったことに事故の原因があり、鉱山では人の命があまりにも安いという現実が背景にあることが明らかにされます。

舞台は為吉の次のような台詞で幕になります。

為吉「土の底も息づかひが苦しいが、抗外(オカ)へ帰っても(「よろけ」のために)飯場ぢゃいい顔されねえし、ああ、何処へ行ったら息がつけるんだか」

東京三鷹市に山本有三記念館があります。

玄関前に代表作の題名になっている「路傍の石」が置かれています。路傍の石というと道端の小石を想像しますが、飾られている「路傍の石」は立派な岩石で、その落差に思わず笑ってしまいます。

「路傍に石」に見られるように、有三は逆境の中にあってもめげることなく懸命に生きる人々の姿を描きました。「穴」にはその先駆け的な片鱗があるように思います。

軍国主義政府と軍部が日本を牛耳っていた時代には、有三の思想は危険視され、朝日新聞に連載中だった「路傍の石」は中断されました。

一時逮捕されたこともあります。

敗戦後は、国の主役は国家ではなく個人であることを基本とする現在の平和憲法を誰でも理解できるようにということで、憲法の口語化運動にも熱心に取り組みました。

昭和22年(1947年)に第1回参議院議員選挙に山本有三は「全国区」から立候補し、見事9位で当選しました。参議院で一期6年間、リベラルな立場を代表する緑風会に所属して政治家としても活躍しました。1965年には作家として文化勲章を受章しています。

少なくとも個人より国家が大事、数が整い「ねじれ」がなくなりゃ何でもできるというような、時代錯誤の暴走政治オタクではなかったようですね。