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金正恩氏のメディア戦略が「みじめに大失敗」している

高英起デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト
金正恩氏

韓国で活躍していた脱北者タレントのイム・ジヒョンさんが、突如として北朝鮮に戻り、対外向けプロパガンダサイト「わが民族同士」の動画に出演したことが波紋を広げている。彼女は韓国での暮らしについて「地獄だった」と語り、北朝鮮の対外宣伝に加担する形になってしまっていたからだ。

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正恩氏の「ヘンな写真」

ところが、北朝鮮の国内向けメディアは彼女のことについて沈黙を守っている。

現在の北朝鮮において、こうしたメディア戦略はおそらく金正恩党委員長の直接の管轄下にある。どうしてそのように言えるかというと、そうでもない限り、北朝鮮のメディアが金正恩氏のヘンな写真をホイホイ公開することなどできないからだ。

(参考記事:金正恩氏が自分の“ヘンな写真”をせっせと公開するのはナゼなのか

しかし、北朝鮮の国内向けメディアが、帰国した脱北者にまったく触れないのは異例である。なぜか。その理由を、米政府系のラジオ・フリー・アジア(RFA)が報じている。

咸鏡北道(ハムギョンブクト)の情報筋がRFAに語ったところによると、インターネットにほとんどアクセスできない北朝鮮国民はわが民族同士の動画を見ることはできないものの、イムさんの件については中国を通じて北朝鮮国内でも情報が広がりつつあるという。しかし、北朝鮮の国内向けメディアは彼女の件に一切、触れていない。

北朝鮮当局は従来、脱北者が帰国したら朝鮮中央テレビに出演させ、韓国社会の批判や北朝鮮体制の賛美をさせるというのがお約束だったが、どういうわけなのか。

別の情報筋によると、朝鮮中央テレビが北朝鮮に戻った脱北者を出演させなくなったのは、宣伝効果よりも、韓国社会へのあこがれを煽る逆効果をもたらしたからだという。

一例を挙げると、脱北後に北朝鮮に戻ったパク・チョンスクさんは、テレビに出演して韓国を批判したが、彼女の姿を見た視聴者はむしろ「韓流ドラマだけの架空の話ではなく、本当に韓国は豊かなんだ」と思わせてしまったという。

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金正恩氏は自分では果敢なメディア戦略に打って出ているつもりなのかも知れないが、国民の目線を知らない彼がいくら張り切ったところで、みじめな失敗は避けられないのかもしれない。

また、テレビに出演させるには、それなりの厚遇をする必要があるが、それが地元住民の不満を引き起こすこともある。

2013年に両江道(リャンガンド)から脱北し、北朝鮮に戻った家族がその例だ。彼らには新しい家が与えられ、元いた職場に復帰した。ところが、地元住民からは「脱北したのに処罰されずに厚遇を受けるだったら、脱北もせずにこの地で頑張っていた我々は一体何なんだ」と不満の声が上がったという。

韓国統一省によると、脱北後に北朝鮮に戻った再入北者はわかっているだけで225人にのぼるが、北朝鮮に残してきた家族を連れ出すために、一時的に戻る人も少なくない。

キム・グァンホさんは脱北して2009年8月に韓国にたどり着いた。共に脱北した女性と結婚し、娘も生まれた。しかし、2012年11月に北朝鮮に戻った。それなりの厚遇を受け、テレビに出演し韓国社会を批判したが、2013年6月に妻の弟と妹を連れて再び脱北した。

中国公安当局に逮捕されたが、夫婦と娘は韓国国籍であることを理由に北朝鮮には強制送還されず、第3国を経て韓国に帰国した。しかし、北朝鮮国籍だった妻の弟と妹は強制送還され、消息不明となっている。

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ようやく韓国に戻ったキムさんだが、朝鮮中央テレビに出て韓国を批判したこと、保衛省での取り調べで韓国での暮らしなどについて話したことが国家保安法違反に問われ、懲役3年6ヶ月の実刑判決を受けてしまった。北朝鮮に残してきた家族を連れ出すことは、これほどリスキーなことなのだ。

キムさんの数奇な運命は北朝鮮でもかなり知られているようだが、テレビにまで出演した再入北者に再び脱北されるのは、北朝鮮当局にとって非常に都合が悪いようだ。イムさんをテレビに出演させないのは、当局が彼女のことを、再脱北予備軍と見ているからかもしれない。

デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト

北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。関西大学経済学部卒業。98年から99年まで中国吉林省延辺大学に留学し、北朝鮮難民「脱北者」の現状や、北朝鮮内部情報を発信するが、北朝鮮当局の逆鱗に触れ、二度の指名手配を受ける。雑誌、週刊誌への執筆、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』(新潮社)『金正恩核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』(宝島社)『北朝鮮ポップスの世界』(共著)(花伝社)など。YouTube「高英起チャンネル」でも独自情報を発信中。

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