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どうして佐賀からウィンブルドンテニスへの道が切り開かれたのか!? 

神仁司ITWA国際テニスライター協会メンバー、フォトジャーナリスト
(写真/神 仁司)
右から、緒方貴之氏、神谷勝則コーチ、オールイングランドローンテニス&クロッケークラブのヘッドコーチであるダン・ブロックサム氏とマーク・ヒルトンコーチ(写真/神 仁司)
右から、緒方貴之氏、神谷勝則コーチ、オールイングランドローンテニス&クロッケークラブのヘッドコーチであるダン・ブロックサム氏とマーク・ヒルトンコーチ(写真/神 仁司)

 4月27日に、グラスコート佐賀テニスクラブ(佐賀県)で行われていた「Road to Wimbledon 2019(日本予選)」というジュニア大会(14歳以下)が終了した。

 男子で、優勝の高橋凛羽(神奈川県)と準優勝の福原聡馬(佐賀県)、女子で、優勝の西村佳世(兵庫県)と準優勝の永澤亜桜香(奈良県)、計4名が、8月11~17日に、ウィンブルドンの会場であるオールイングランドローンテニス&クロッケークラブ(以下AELTC)で開催される本大会「Road to Wimbledon 2019 FINALS」への出場権を獲得した。

 2回目の「Road to Wimbledon(以下RtW)」が開催された場所となったグラスコート佐賀テニスクラブは、緒方勝徳氏が、“テニスの聖地”といわれるウィンブルドンにあこがれを抱いたのをきっかけにして、1975年に日本で初めてかつ唯一のグラス(天然芝)コートを有するテニスクラブを設立して、当初はウィンブルドン九州テニスクラブとして愛好者から親しまれた。その後2008年2月に改称して現在に至っている。

 それでは、どうして佐賀からウィンブルドンへの道が切り開かれたのか――。

 話は5年前に遡る。

 東京での仕事に区切りをつけて佐賀に戻った緒方貴之氏(グラスコート佐賀テニスクラブジェネラルマネジャー・大会ディレクター)は、祖父・勝徳氏がつくったテニスクラブの原点とは何か、あらためて理解を深めるために、まず2014年8月にイギリス・ウィンブルドンを訪れることから始めた。そして、ウィンブルドン関連のことを勉強するうちに、あることが目に留まった。

「まず、ウィンブルドンを知るべきだと考え、ウィンブルドンのホームページを読み、インターネットで検索したウィンブルドン関連記事を全部読みました。その中で、ウィンブルドンで14歳以下の大会を開催していることを発見しました。2014年にインドでも始まったことを知り、これは、ひょっとしたらアジア方面に興味をもっているのではないか、と」

 ウィンブルドンでは、2002年から世界におけるグラステニスの普及のため、「Road to Wimbledon」を展開して、ジュニア選手と選手養成コーチの育成につなげようとしていた。

 当時テニスクラブの名称問題のこともあって、ウィンブルドンの人と交流があった緒方氏はすぐに問い合わせてみた。

「日本で開催できないか聞いてみたい、と尋ねたら、担当の人を紹介してもらえたんです」

 2015年8月に、緒方氏はウィンブルドンへ飛んでポール氏(故人)を訪ね、佐賀では2005年から、ウィンブルドンを目指す子供たちのための全国ジュニアプログラム”グラスホパー in 佐賀”(夢はウィンブルドンへ)を開催していることを説明し、子供たちがウィンブルドンへあこがれを抱いていることをアピールしたが、極東の日本に対するウィンブルドンサイドの反応は決して芳しいものではなかった。

「日本はいずれやろうと思っている。ただし……」

 さらに、ポール氏が続けたウィンブルドンでの日本への格付けが緒方氏を落胆させた。

「ショックだったんですけど、テニスが発展していくであろう順番で行くと、中国、ベトナム、シンガポール、インドネシア、タイ、マレーシア、フィリピン、そして、日本。人口が減っている日本は8番目だった。くれぐれも僕をせかさないでくれと言われた」

 緒方氏はあきらめなかった。しつこくならない程度、2カ月おきぐらいにメールを送って、ウィンブルドンとのやりとりが続いた。

「国際大会を開催したことはあるか?」

 グラスコート佐賀では、男子国別対抗戦・デビスカップも、プロ選手が参加する国際大会も開催実績があった。

「ジュニアの国際大会を開催したことはあるか?」

 こちらは当時実績がなかったので、まず緒方氏は、ATF(アジア国際テニス連盟)と接触して交渉に入った。開催するための資金が必要だったため、ウィンブルドン関連の大会を招致するために実績を積ませてほしいと佐賀市に相談し、助成金を得ることに成功した。

 そして、2016年から11月に、アジア唯一となるグラスコートのジュニア選手権・アジアジュニアグラスコートテニスチャンピオンシップ(14歳以下、ATF管轄)の開催にこぎつけた。

 2016年8月に、再びウィンブルドンを訪れた緒方氏は、ウィンブルドンから「コマーシャルパートナーを探してほしい」と言われ、簡単にコマーシャルパートナーが見つからなかったため、地域密着型の大会にするという企画書を送って粘った。

 変化が起こったのは、2017年8月にウィンブルドンを訪れた時だ。

「来年やらないか」

 ウィンブルドンからの思いもよらない良い返事、突然訪れた好機に対する緒方氏の見立ては冷静だった。

「たぶん日本より上位ランク付けされていたアジアのどこかの国との調整が失敗したんだと思う。よくわかんないけど毎年来ていた日本人がいたけど、任せてみるか、という感じ。運もあったと思います。嬉しかったですけど、すぐに決めないといけなかった」

 日本とイギリスには時差があるが、その場ですぐに支配人に電話して、予算も含めて15分でやると決めた。現場での即断が功を奏した。

「持ち帰りにしていたら、たぶん流れていたと思います。前から日本テニス協会の川廷尚弘さんに相談をしていたので、帰国してから承認をもらいました」

 決断を下す時に、緒方氏の脳裏にあったのは、もし祖父だったら、同じ決断をしていただろうという思いだ。長年グラスコート佐賀で培ってきた実績と信用、そしてクラブのスタッフ同士の信頼。それらすべてが大事なパズルのピースのようなものであって、一つでも欠けていたら、ウィンブルドンサイドを説得できなかったはずだ。

 さらに、RtW日本開催実現へのカギとなったのが、AELTCのヘッドコーチであるダン・ブロックサム氏の存在だった。 

 緒方氏は、2015年8月の交渉時にブロックサム氏との交流を深め、だめもとである提案をしてみた。

「試しに一度グラスホパーを見に来てくれないか、来週なんだけど」

 信じられないことにブロックサム氏は快諾して来日し、彼のフットワークの軽さに緒方氏は驚きを隠せなかった。

 初めて佐賀を訪れてグラスホパーを視察したブロックサム氏は、グラスコート佐賀に子供たちが集まって、コーチたちと一生懸命テニスに打ち込んでいる姿に好印象を抱いた。しかも日本人の時間管理がものすごくしっかりしていて、イギリス人からしても厳正だと感じるほどだった。子どもたちはきちんと挨拶するし、コーチをリスペクトして礼儀正しい。

 さらに、佐賀に対しては、清潔で雰囲気が良くて安全な町であることを認識したのだった。

「ダンの援護射撃があったんだと思います」

 こうして2018年4月に、記念すべき第1回のRtW(日本予選)が実現し、佐賀で開催される運びになったのだった。

情熱をもって、佐賀からウィンブルドンへの道を切り開いたグラスコート佐賀テニスクラブジェネラルマネジャーの緒方貴之氏(写真/神 仁司)
情熱をもって、佐賀からウィンブルドンへの道を切り開いたグラスコート佐賀テニスクラブジェネラルマネジャーの緒方貴之氏(写真/神 仁司)

 グラスコート佐賀でのRtW(日本予選)の実現は、緒方氏のテニスへの情熱抜きには語れない。近年では、このようなあふれるばかりの情熱を抱く日本テニス関係者や、世界的な選手を育てたいという大きな夢を抱く日本人コーチがめっきり少なくなった。そんな中、緒方氏が、元来テニスはワールドスポーツであるという特性をよく理解し、テニスをする子供たちに未来を託すという理念をウィンブルドンと共有しながら、2回のRtW(日本予選)を成功させたことに拍手を送りたい。

 また、日本テニス協会でもなく、地方のテニス協会でもなく、グラスコート佐賀といういち民間テニスクラブが、ウィンブルドンへの道を開拓したことの意味はとてつもなく大きい。

 グラスコート佐賀の姉妹クラブは、クーヨンテニスクラブ(オーストラリア・メルボルン)で、1987年までオーストラリアンオープンを開催していた場所だ。オーストラリアンオープンは、ウィンブルドン同様、テニスの4大メジャーであるグランドスラム大会の一つ。

 グラスコート佐賀のように、国際交流が盛んなテニスクラブが日本にもっと増えるといい。テニスをする子供たちに未来を託す理念と世界のテニスで活躍する日本の子供たちを増やしていく夢が、全国の他のテニスクラブやテニススクールにも波及して、佐賀以外でも他の方法によって世界への道が開けるといい。

 錦織圭や大坂なおみが、世界のトップレベルで活躍している今こそが、子供たちを育成するには絶好のチャンスなのではないだろうか。もしかしたら佐賀でプレーした子供たちの中から、世界で活躍するような“未来の錦織”や“未来の大坂”が出現するかもしれない。

 だからこそグラスコート佐賀には、RtW(日本予選)を来年以降も継続していってもらいたいし、子供たちに佐賀からウィンブルドンへ切り開かれた道を示しながら、引き続き大きなテニスの夢を与えていってもらいたい。

ITWA国際テニスライター協会メンバー、フォトジャーナリスト

1969年2月15日生まれ。東京都出身。明治大学商学部卒業。キヤノン販売(現キヤノンMJ)勤務後、テニス専門誌記者を経てフリーランスに。グランドスラムをはじめ、数々のテニス国際大会を取材。錦織圭や伊達公子や松岡修造ら、多数のテニス選手へのインタビュー取材をした。切れ味鋭い記事を執筆すると同時に、写真も撮影する。ラジオでは、スポーツコメンテーターも務める。ITWA国際テニスライター協会メンバー、国際テニスの殿堂の審査員。著書、「錦織圭 15-0」(実業之日本社)や「STEP~森田あゆみ、トップへの階段~」(出版芸術社)。盛田正明氏との共著、「人の力を活かすリーダーシップ」(ワン・パブリッシング)

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