笹川良一氏ほど、評価が分かれる人はいないだろう。A級戦犯、ファシスト巨万の富を握る競艇界のボス、戦後最大のフィクサー、右翼のドンといった強い負のイメージが有る一方で、日本の戦後復興で大きな貢献をした社会奉仕活動家としての正のイメージもある。私たちの年代には高見山関が太鼓を打ちながら「戸締り用心、火の用心、一日一善」というCMや「世界は一家、人類は皆兄弟」といったスローガンが印象に残っている。

 一体、笹川良一氏は何をしたのか、何をしなかったのか。何をしようとしたのか。戦後、70余年、笹川良一氏が他界してから20余年が経った今、「あの戦争」と日本の復興を考えるために、笹川良一氏の実像を探ることは意味があるだろう。

 笹川良一氏の実弟・笹川春二氏を祖父に持つ笹川能孝氏に話を聞いた。笹川能孝氏は、最近、『笹川流』と題した本を出版している。能孝氏は良一氏とは冠婚葬祭など親戚一同が会するときに顔を合わせるくらいだったという。しかし、望むと望まないとに関わらず、能孝氏は笹川良一氏の正と負の両方の目に見えない「遺産」を受け継いできた。彼も笹川良一という「日本の首領(ドン)」の実像を探ろうとしている一人なのだろう。

 正と負のイメージの乖離があまりに大きく、実像を正確に掴むことはほとんど不可能だ。しかし、現在、流布されているイメージとは相当に違った笹川良一氏の姿があるように思える。さらに研究していく必要があるのだろうが、ここでは能孝氏へのインタビューをもとに私の理解したところを書いてみよう。

1. 日独伊三国同盟・開戦への反対

 笹川良一氏のイメージはA級戦犯であり、先頭に立って戦争を進めたと思われている。良一氏は山本五十六長官と「同士」であり、ともに日独伊三国同盟に強く反対していたという。二人共に、極めて現実的な見解を持っていた。つまり、ドイツ、イタリアとより強固な軍事同盟を締結すれば、アメリカ、イギリスは強く反発することと、日本はアメリカに戦って勝てないという見解を持っていた。「開戦したとして、戦えるのはせいぜい一年半。長期戦に耐えうる力は日本にはない」という冷静な分析をしていたのだ。そうした姿勢は「逃げ腰」に映る。山本長官や良一氏は、暴力右翼による襲撃や脅迫状など、命の危険にさらされることにもなったという。山本長官は、日米の力の差を一番理解し、日米開戦にも最後まで反対の立場を貫いた。しかし、山本長官や笹川良一氏が戦争を止めることができるわけではなかった。大きな時代の流れに、彼らも飲み込まれていったのだ。

 笹川良一氏は、昭和17年の第21回衆議院議員総選挙に立候補し、衆議院議員に当選している。日本が戦争に突き進んでいた時代だ。東条英機内閣の下、ほとんどの政党が大政翼賛会に合流し、候補者もほとんどが、翼賛会推薦であった。良一氏は推薦を受けずに、東条内閣の政策や考え方を真っ向から批判する立場で名乗りを上げたのだ。戦争の暴走を少しでも食い止めようとしたのだ。イメージとは全く違う良一氏の姿がある。

 能孝氏は、むしろ戦争を止める活動をした良一氏のイメージが大きく曲げられているのではないかという。「A級戦犯」というレッテルと実像との間にはかなりの乖離があることは確かなようだ。戦争の勃発を個人の責任に押し付けることによって、本当の戦争の原因がぼやかされてしまっているのかもしれない。なぜ日本は無謀ともいえた戦争に向かったのか。これまでのステレオタイプの発想をこえて、分析していく必要がある。

2. 自らを戦犯として

 ではなぜ、笹川良一氏が戦犯として戦後に処せられるのか。これには終戦間際の良一氏の動きに関係があるのだろう。良一氏は敗戦が濃厚になった昭和20年の年明けから、次の3人に頻繁に会っていたという。

 1人は政治の裏側で活躍した「影の実力者」といわれた矢次一夫氏である。2人目は、昭和天皇御自ら終戦を発表した玉音放送、その「終戦の詔書」を最後に加筆、完成させたという安岡正篤氏である。3人目は昭和20年9月2日に、日本政府の全権として、ミズーリ号の上にて降伏文書に署名した、敗戦処理の代表のような人物、重光葵外相である。

 良一氏がどのような話を彼らとしたのかは記録に残っていない。能孝氏は、良一氏は混乱を最小限にして戦争を終わらせること、そして天皇陛下をお守りすることの二つのために奔走したのではないかと推察する。確かにこうした人が、日本が敗北し、その後にアメリカにしっかりと交渉するという作業をしていなければ、日本は混乱のままさらに大きな戦争被害を受け、敗戦後は分断統治も含めて悲惨な状況が待っていたかもしれない。

 日本が敗北してからは、良一氏は天皇陛下を守ることを最大の使命として行動する。GHQ最高司令官として、ダグラス・マッカーサー氏が着任して、戦争犯罪者を逮捕することを命じた。その戦争犯罪人の中には東条元首相なども含まれており、極東軍事裁判にかけられることが決まっていた。

 当然、問題となるのは昭和天皇の処遇であった。ソ連やイギリスには天皇陛下の戦争責任を強く問う声があった。昭和天皇の戦争での言動がどうであったかは別の次元で、天皇は形式上は戦争を行う組織のトップに位置する。戦争犯罪者となれば、死刑は免れることはできない。

 良一氏は、戦争は戦わざるを得ない状況に追い込まれていった末の自衛戦争であったことや天皇陛下に戦争責任はないことを講演しつづけたという。戦勝国の意のままになることは、国のためを思い、命を落とした多くの同胞の死を「犬死に」させるに等しいと考えたようだ。

 戦争に立ち向かったのと同じように、今度は戦勝国アメリカに楯突いたのである。戦勝国アメリカの言いなりにはならないという良一氏の言動は、アメリカを怒らせ、良一氏自身がA級戦犯となるのであった。

 良一氏は、身を捨ててでも天皇陛下を守る、という気持ちであったようで、巣鴨拘置所への出頭を命じる封書を受け取った時には、「合格した」とつぶやいたという。良一氏は死を覚悟していたようだが、結局、処刑は免れ、生きて釈放された。

 能孝氏は、戦後、日本人は戦勝国アメリカのいいなりになり、骨抜きにされたのではないかと嘆いている。良一氏は、アメリカに楯突くことなく、自分の身を守ることだけをしていたらA級戦犯の汚名を受けることはなかったのかもしれない。しかしそれは「笹川流」の生き方ではなかったのだろう。能孝氏はこうした良一氏の生き方を誇りに思うという。

 ちなみに、A級戦犯という表現のしかたは誤解を生む。実際には、A項「平和に対する罪」、B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」となっており、ABCはレベルの問題ではなく、犯罪の種類の問題だ。良一氏が「A級戦犯」と書かれたので、最大の戦争犯罪者というイメージになった。良一氏は影響力のある人物だっただけに、戦争責任がなかったとは言えないだろう。しかし、実像とA級戦犯とされたイメージとはかなり異なることは確かだ。

3.ギャンブルの帝王のイメージ

 笹川良一氏の戦後のイメージの一つは、モーターボート競艇から巨万の富を操るギャンブルの帝王だ。確かにモーターボートを含めてギャンブル依存症に苦しむ人はいるので、目的がどうでもすべて肯定できるわけではない。ただ、良一氏についているイメージはここでも修正されていいだろう。

 競馬は戦前から、競輪は戦後の昭和23年から行われている。どちらも「公営ギャンブル」、復興のための資金源として、その役目を果たしていた。良一氏は、新しい公営ギャンブルとしてモーターボート競走に目をつけた。良一氏は不動産売買や株などで資金を増やしていたが、日本の復興を支えるためには資金が足りなかった。そこで、モーターボート競艇の収益で、復興資金を作ろうとしたのである。

 敗戦の日本に資金は底をついていた。困窮している人を助けるにも資金が必要であり、そのためのモータボート競艇を制度化させたのである。ギャンブルについての異論がある中で、評価は分かれるだろう。ただ良一氏が行ってきた社会貢献活動は、やはり特筆すべきものがある。

 ハンセン病患者への支援はその一つだ。偏見で苦しんでいたハンセン病患者の慰問に飛び回る良一氏の姿があった。それは日本国内だけにとどまらず、ネパール、タイ、フィリピン、インド、パラグアイ……と世界各国のハンセン病施設に及んだ。それは地道な作業であり、ギャンブル王のイメージとは相当に離れたものだ。

 良一氏の金儲けのためのギャンブルの仕組みを作ったというイメージがある。能孝氏は、それであれば、家族や親族にお金を残しただろうという。実際には巨額の借金が残され、資産は換金できにくいものがほとんどであったという。良一氏は「世界は一家、人類は皆兄弟」というスローガンは本気でそう思っていたのではないかという。家族・親族だけが一家ではなく、人類すべてが一家である。だから、お金は困っている人々に使い、家族・親族に残さなかったのだろう、と能孝氏は語る。

 笹川良一氏が日本の怪物であったことは間違いない。その怪物が何をしたのか、何をしようとしたのか。まだまだ実像は掴めない。これは日本が70余年前に行った戦争、そして戦後の歴史を考える上でも重要だ。再び戦争を起こさず、アジアの平和を守るために何をする必要があるのか。東アジア情勢がキナくさくなる中で、さらに調べ、考察をくわえていきたいものだ。笹川能孝氏の話を聴きながら、日本の今後のあり方を考えさせられた。