(小学校)新学期到来:「名前つけ地獄」からの解放を!

(写真:アフロ)

新学期が始まる。

ということは、「名前つけ地獄」の季節である。

計算カード
計算カード

写真を見ていただきたい。

この「計算カード」の答えの面(裏面)の、一枚一枚の全てに「記名しなさい」という指示が小学校から出ている。

その数は250枚を超えている。

名前つけ地獄の実態

今年の3月、幼稚園から小学校に入学したときの悪夢がよぎる。

体操服や帽子、筆箱、給食袋の類なら、まだ理解できないことはない。

しかし、鉛筆の一本一本、絵の具の一個一個、カラーペン、おはじきの一つ一つなどと、指示は続く。

絵の具やカラーペンは、持ち手とキャップにそれぞれ記名しなければならない。

大量のシールを印刷して貼り付け、アイロンをかけ、スタンプまで用意して、連日徹夜で頑張った日々。。。

現在、朝の6時を越えようとしている。しかし、各種の名前つけは終わらない。

計算カードそのものにも腹が立ってくる。

ICT教育の推進が叫ばれるなか、学校ではこのようなカードを購入させ、「毎回色ごとにカードの順番を混ぜてください」などと指示する。

これがアプリなら、ランダム出題や、子供の進行状況に合わせて個別のレベルアップも可能だし、何にせよ「名前つけ地獄」から解放される。

なぜ小さなもの、集合的に管理すべきものの細部にいたるまで、記名が必要なんだろう。

おはじきは袋に入っているし、カラーペンや絵の具は箱に入っているし、計算カードは束になっている。箱や束にはそれぞれ記名する欄がある。

近代と所有と管理?

物をなくしてしまうのはよくないから、という声が聞こえる。

しかし、この250枚を超えるカードのなかの「1+3」が一枚なくなってしまったということが、鉛筆の一本や、おはじきが一つなくなったという事実が、子供の日々の生活に与える影響ってなんだろう?

近代的な個人主義的感性を、「個人所有」の文脈から教えつける、という声が聞こえる。

自分のものは、自分で管理しろ、という話だ。

それが社会に生きていくために必要というのなら仕方がない。

しかし、あまりに過剰ではないか?

おはじきの一個や鉛筆の一本をなくしてしまったら、「私の〇〇はどこ!?」と大騒ぎをし始める、そんな子供に育って欲しいのか。

物をなくし、それがいかに重要なものだったのか、欠けてはならないものだったのかを実感する。それも教育だろう。

なくなったり、忘れてしまったりした際に、友達にそっと貸してもらったら、人間の温もりを感じるだろう。

「私のものを〇〇が取った!」と言って喧嘩をし、話し合いながら解決に向かう。そんな対話を学んでいくのも、大切ではないか。

「つながり」の世界で

社会の趨勢は、「個」を分断し、無縁化させていく方向から、「つながり」「絆」の大合唱に見られるように、関係論的世界観へと変化しつつある。

経済界ですら、自身のエゴイスティックな利益追及というモデルではなく、シェア・エコノミーの重要性を認知する方向へと向かっている。

オンラインでのSNS、グループウェア、サイバー・コミュニティにおける協働が、社会において決定的な重要性を持つことは社会学の言を俟たない。

そのような世界では、「利己」のみに固執し続ける人間は淘汰されていくだろう。

そう考えると、過剰な自己所有意識の植え付けは、社会にとってマイナスに働く可能性すらある。

学校文化の歪み

いわゆる「学校文化」と呼ばれるものには、社会の常識から大きくずれているものが多い。

そして、その多くが「管理」「監視」のしやすさから生み出されたものだろう。

その典型例が、「名前つけ地獄」である。

モノを通じた多様なコミュニケーションは、クラス運営に「支障」をきたすのだろう。

教員たちをそこまで追い込んだ学校教育というシステムを見直す時期にきている。

現状では仕方がない、という意見も出るだろう。

しかし、「全てに記名しなさい」というプリントに書かれた1行が、どれだけの苦痛を多くの保護者に与えているのか、考えを巡らせて欲しい。

過剰な名前つけ、やめませんか?