大迫害時代の到来:映画『FAKE』からみる佐村河内守の選択

(写真:Motoo Naka/アフロ)

『FAKE』の企ては失敗に終わったか?

ドキュメンタリー作家であり映画監督、森達也氏の新作『FAKE』が封切られて1ヶ月が経つ。2014年にゴーストライター問題で日本中を騒がせた、佐村河内守氏を追いかけたドキュメンタリーだ。

映画『FAKE』公式ウェブサイト

http://www.fakemovie.jp/

言わずもがな、森達也氏はオウム真理教の信者たちの生の声に肉薄した『A』や『A2』で名を馳せた敏腕監督。当時大学院生だった私は、これらの作品を鑑賞し、世間一般に流布している「どうしようもなく危険」で「異質」であり、「対話の通じない」人びとというオウム信者イメージと、自らの生を精一杯豊かなものにするために教団に入っていった、極めて純粋な信者たちの姿のギャップに大いにショックを受けたことを覚えている。彼らに対して親近感すら描いてしまう状況。それはドキュメンタリーの意図かどうかはわからないが、全く「異質」なものとされるものに対しても、「つながる」という可能性を提示したという意味で、貴重な作品だと当時は感心したものだ。

従って、今回の作品『FAKE』にも、同様の期待をしたわけである。あれほど世間に「ペテン師」扱いを受け、稀代の詐欺師とされた佐村河内氏を、森監督はどのように料理するのか。

しかしながら、その期待はことごとく裏切られた。全くつながることができない。佐村河内氏は全編を通して、自らの主張(特に難聴で耳が不自由であるという事実と報道される虚偽の差異)をひたすら繰り返すだけ。あまりにも意固地だ。そこには、人間臭さ、つまり等身大で生身の人間としての生々しさは描き出されなかった。

もしかしたら、このことは佐村河内氏と森監督の関係性が深化しなかったことに起因するのかもしれない。仮にそうだとするならば、ドキュメンタリー作品としては失敗といわざるをえない。この辺りのことはノンフィクション作家である神山典士氏が詳細に記述しているので参照されたい。

「残酷なるかな、森達也」

http://blogos.com/article/178313/

マスメディアの抱える闇

ところで、ここでは作品の全体評は脇に置いておいて、本作品で強調されていた「マスメディアのもつ暴力性」に焦点を当てたいと考えている。

作品中に、次から次へと雑誌の取材やTV番組のプロデューサーたちが現れる。皆がそれぞれ「あなたの生の声を提示し、真実を伝えたい」と口をそろえる。しかし、実際に提示される内容は、すべて既存の「ペテン師=佐村河内」という枠組みを超えるものではなく、さらにそれを増長させ、時には無神経な嘲りの対象としてのみ扱う。(真偽のほどは置いておいて)彼の訴える感音性難聴という事実はひた隠しにされ、「聞こえないというのは嘘だ」という部分のみが反復されていく。一方で、そうした報道の中心にいる記者や、「騙された」という物語を武器としてマスメディアで大活躍する新垣隆氏は、話を聞きたいという森監督から逃げ回る。そのあたりの描写は、マスメディアの持つ闇をえぐるようで、なかなか見応えがある。

佐村河内問題とはなんだったのか

もう一度この事件を省みたい。いわゆる「ゴーストライター問題」だ。しかし、私の知り合いの現代音楽の作曲家たちは、佐村河内氏の発想や世界観そのものを否定する人はあまりいない。むしろ、新垣氏が現代音楽家としては凡人であり、佐村河内というイメージと物語の天才と出会うことで、珠玉の作品を創出することが可能となったと考えるのが正しい、という。佐村河内氏は、溢れるイメージを作品にすることができない。一方で新垣氏は、音の技術、構成力を持っているが、イメージに乏しい。この二人がタッグを組んだことによって、数々の名作が生まれた。現代音楽の世界では、そう解釈している人が少なからずいるようだ(もちろん部分的な意見として聞いてほしい)。

では、なぜ共作という形で世に問わなかったのか。この辺りの本質的な問題の謎に迫るようなことは、映画『FAKE』では一切なされない。真相は闇のままだ。結果として、被爆二世であること、聴覚障害を持った人物として「現代のベートーベン」という物語だけが一人歩きしていった。彼が一躍時の人となったきっかけは、2013年のNHKスペシャルであることには間違いない。だが、彼とNHKの関係は、実は長い。1994年のドラマの音楽担当からだから、NHKスペシャルまで20年近くの蓄積があったのだ。

NHKをはじめとし、各種メディアが物語を増殖させ、音楽業界と社会がそれに輪をかけて消費の波を作り、ブームを形成した。本人たち(佐村河内氏と新垣氏の両人)は、その状況に恐れを抱きながらも、のっかった。そして、ある意味「自己イメージ」を強固に形成していった。稀代の名作を生み出すパートナーとして。

個人(自己イメージの増大)→マスメディア(物語の過剰な流布)→消費社会(物語の消費)→個人(さらなる自己イメージの増大)→・・・という、消費の三つ巴的な循環が、すごい勢いで回り始めた。言ってみれば、この三つのアクターの共犯関係がムーヴメントを作った。しかし、この物語を循環させるための真正性(オーセンティシティ)を保持する個人に、ほころびが生じた。「作曲」という概念に亀裂が生じた。

三つ巴の共犯関係
三つ巴の共犯関係

物語消費のリスク

佐村河内氏に責任がないかといえば、ないわけがない。糾弾されてしかるべきだと思う。しかし、先述の通り、この問題は個人・メディア・社会の共犯関係によって生み出された。「消費者が悪いなんて、なんてことを言うんだ、悪いのは嘘をついた佐村河内だろう」という人がいるかもしれない。もちろんそうだ。しかし、メディアの戦略に乗り、無批判的に物語を消費し、作品そのものの持つ魅力を自らの審美眼で捉えようとしてこなかったという部分があるのなら、消費者にも責任があるといえよう。もし仮に作品の素晴らしさを感受し、純粋に心を動かされたのならば、その作品の「来歴」や「物語」はどうでもいいものになるだろう。ケチがついても、作品は作品だ。ポール・マッカートニーだって楽譜が読めないし、偉大な作曲家であるアーヴィング・バーリン(ホワイト・クリスマスで有名)なんて、ピアノすら引くことができない。しかし、珠玉の作品は残り続ける。ポストモダン批評でも、作者と作品は分けて考えることが強調されている。なぜなら、世に出された「作品」、つまりテクストは、どのような形であれ全て「誤読」されるものであり、作家性は批評の対象とはならないという論理だ。物語を消費するということは、それなりのリスクが伴うのである。物語はあくまでも「物語り」であり、「物語る」多様な主体の恣意性や操作性が否応なく含みこまれるからだ。

生み出され続けるスケープゴート

その後、三つのアクターによる共犯関係は、メディアと社会がタッグを組んで、佐村河内氏一人をスケープゴート(贖罪のための山羊)として罪を押し付け、徹底的に非難するという構図に変わっていった。マスメディアは、特定の個人をバッシングし続けることで、また嘲笑の対象とし続けることで、さらに売り上げ部数を上げ、視聴率を稼いだ。自ら招いた禍(わざわい)を利用して、さらなる消費を生み出す。まさに、マッチポンプだ。これに、社会も乗った。さらなる消費に動いた。自らの潔白性、正当性を強固に感じるためには、間違った他者を非難し、排除することが最も近道だからだ。

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自らの社会の秩序を徹底させるために、特定のスケープゴートに対して強烈な迫害の力を振るう社会。そんな力が溢れる時代を、「大迫害時代」と呼ぶ。私は、現代の日本がそのような時代を迎えたのではないかと、強く危惧する。佐村河内氏の問題だけではない。STAP細胞で世間を騒がせた小保方さん、「号泣」記者会見で話題となった野々村元県議、薬物関連ではASKA、清原氏や高知氏、不倫問題ではベッキーさんや乙武氏などなど、迫害のターゲットとなった人々は枚挙にいとまがない。彼らへの断罪は、マスメディアの領域をはるかに超え、個人によるSNSを利用しながらの言葉の暴力へと空間を拡大していく。当人の謝罪は聞き入れられず、徹底的に憎しみを吐き出し終わるまで、収束することはない。佐村河内氏もこのような世界におけるターゲットに選出された。

大迫害時代の到来

大迫害時代の典型は、16~17世紀のヨーロッパに現れた。特定の人々がWitch(和訳では「魔女」となるが、女性には限定されない)と認定され、彼らをスケープゴートとした拷問や処刑が繰り返されていった。この間、数万人と呼ばれる人々が、民衆のはけ口となって殺されていった。現代では、この状況が中世から近世に至る大きな時代的な転換において、社会不安にかられた人々の「秩序」への異常な欲求と「無知」からくる感情の暴発から生み出されていった結果として理解されている。

現代日本の状況にも通じるものがないだろうか。我々はその都度Witchを見つけ出し、感情をむき出しにすることで安易に「不安」から逃れようとしていないだろうか。迫害を続ける我々は、それほど「潔白」で「正しい」存在なのだろうか。

このような状況の中、迫害された人々は、世間の怒りが収まるまで謝り続けなければならない。確かに、彼らの過ちは許し難いものなのかもしれない。しかし、我々は彼らを断罪し、口汚く罵り続ける権利を有しているかどうか、もう一度自問してみる必要はあるだろう。なぜなら、我々だって、いつ迫害と排除の対象となるかわからないからだ。完璧な人間などいない。人間は常に不完全なものとしてある。カーペンターズも歌い続けたように、世界はいつだって「不完全imperfect」なのだ。

大迫害時代を生き抜く

もし本気で、正面からこの迫害の嵐を身に受けたら、私だったら自死という道を選んでしまうかもしれない。それだけ追い詰められてしまうように思う。STAP細胞で迫害を受けた笹井センター長のように。佐村河内氏は、正面から受け取ることをやめた。自身の感音性難聴からくる困難を理解しないマスメディアと世間に対して怒り、その部分にのみ固執することで問題の本質を逸らし、なんとか生き続けた。そんな様にも感じられるのである。それだけが生きるための道だった、とも。それが正しいとは言わない。でも、それくらい追い詰められてしまったのかもしれない。

作品のタイトルでもあるFAKE(まやかし、偽造、インチキ)は、佐村河内氏の作品群でもあり、メディアによって増殖された物語でもあり、世間の消費のあり方であり、そして熱狂的な迫害の方法でもあるだろう。その都度ターゲットをまつりあげ、迫害し続ける世界は、健全ではないと感じる。自分だけがFAKEではないなんて、誰が言い切れるだろう?いつどこで自分がFAKEの烙印を押され、迫害されるのかに恐れおののき続ける世界なんて、なんと居心地が悪いことか。他者を非難し迫害することでしか自らの「潔白性」を感じることができないなんて、なんだかとてもイビツだ。他者の間違いを、自らの間違いとして受容できるような社会。そんな夢のような世界が訪れる日は来るのだろうか。映画を見終わって、そんな妄想に浸ってしまった。