「小金井アイドル刺傷事件」と偏向報道の罪悪

(写真:アフロ)

痛ましい事件が起こってしまった。

シンガーシングライターとして芸能活動を続けている大学生の富田真由さん(20)が、職業不詳の男で京都市在住の岩崎友宏容疑者によって数十カ所ナイフによる傷を負った事件だ。

事件から一週間以上経つ今も、その後の彼女の容態に関する報道がないことをみると、未だに意識不明のまま生死をさまよっている状態であると考えられる。

意識を取り戻し、順調に回復されることを心から祈るばかりである。

さて、この事件に関しては様々な反応が社会で溢れているが、特にマスメディアで垂れ流しにされている報道のあり方には首肯できないし、極めて不自然に感じている。特にこの問題を「地下アイドル」と「ヲタ(ファン)」の問題へと還元させるような論調の偏り方は、かなりいびつだ。吉田豪も指摘するように、富田さんは一時的にアイドルユニットへ所属していた経歴はあるものの、本来は女優を目指していたのであり、アイドル的な活動はCD1枚で終了している。

「アイドルでもないしヲタでもない!小金井刺傷事件の報道に感じるモヤモヤ」(「ほぼ週刊吉田豪」)

http://n-knuckles.com/serialization/yoshida/news002249.html

現在彼女が目指しているものを職業とするならば、「シンガーソングライター」となる。つまり、シンガーソングライターとそれにつきまとう「ストーカー」の間の事件、ということになるだろう。容疑者の岩崎も、過去の女優・橋本愛への執着ぶりとそこからの撤退の経緯から類推すると、アイドルヲタと言うより、ピュア(と彼が想定する)な女性芸能人をアイコンとして崇拝することで妄想を逞しくする、自己愛の強い粘着質な人間ということになるだろう。

このことに乗じ、アイドル業界も慌てて対応に追われているようだが、これもなんだかおかしい。@JAM2016を始めとする、アイドル出演のさまざまなイベントにおける握手会の中止もその一つだ。そもそもの報道の偏向が、このような事態を巻き起こしているのであれば、大変残念な現象である。従来からアイドルとファンの間の距離の近さという構造的な問題がくすぶっていて、この事件をきっかけとして過剰に反応してしまっている、というのが実際のところだろうか。

しかし繰り返しになるが、今回の事件はこうしたアイドルとファンの関係性が直接関係したものではない。むしろ、岩崎容疑者の脳内を支配する、女性の処女性に対する異常な執着を可能にするような論理のあり方と、SNSなどを通じた他者と他者との多方向的な邂逅が新たな社会問題の引き金となっているという社会学的な問題がそこに横たわっているはずだ。従って、今回の問題を「地下アイドルとヲタ」の問題へとすり替えるメディアのあり方は偏向報道の最たるもので、問題の本質から目をそらすことにつながっている。ある報道番組ではこの事件に乗じ、上海で起きたSNH48(AKB48の姉妹グループ)に所属するアイドルの全身火傷事件に対する寄付金を呼びかけるという卑劣な行為にも及んでいる。寄付金を報道番組で呼びかけることの是非は置いておいても、富田さんの事件を早急に切り上げ、上海のアイドルの問題へとスライドさせるやり方は、いわゆる惨事便乗型資本主義の典型例として悪質である。SNH48の問題はアイドルとファンの関係性の問題ですらないのだから(本人のミスによる引火ということらしい)。

また各種メディアでは、アイドルとファンの関係性の近さに関し、アイドル側の経済的戦略という側面を強調し、そのあり方を批判するものも多い。そうしないと生き残れない、という部分のみを提示するやり方だ。そこには、距離の近さを売りにする「性の商品化」に対する嫌悪感が蔓延している(もしくはそこに集う「ヲタ」に対する生理的な嫌悪感だろうか)。もちろん、デートクラブを彷彿とさせる行き過ぎた商法は是正されるべきだが、しかし活動に青春を燃やす女性たちのエージェンシー(行為主体性)に触れる報道が皆無なのもおかしい。あまりにも一方的な見方ではないか。

筆者はアイドル研究者ではないのでこの業界のあり方を詳述することはできない。ただ芸能研究者の端くれとして一言いうならば、パフォーマーとオーディエンスとの相互関係による芸能の創造性という側面から考えた時に、現在日本においてみられる(特に)地下アイドルのパフォーマンス空間は世界的にみて極めて特殊な例であり、危険性を伴いながらも強い可能性を秘めている部分でもあると考えている。つまり、オーディエンスの積極的な場の創造が、パフォーマンスの質と形態に深く影響している、いわば相互作用が生み出す新たな芸能のあり方を提示している。また、そうしたパフォーミング空間が生み出す強い共同性が、人間の生きる活力やつながりを生み出しているという意味でも、「無縁」と称される現代日本社会の文脈で考えていかなければならない重要なテーマだ。従って、今回の事件が巻き起こす偏向報道によって過剰に反応し、そのパフォーミングの戦略や特殊性を変質させてしまうことは、あまりにも短絡的であるし、もったいないように思える。むしろ、その場その場における緻密なセキュリティの確保を、個別の対応によって成し遂げていくほうが建設的ではないだろうか。

いずれにしても各種メディアは、この問題の本質を捉えるべく努力をする必要があるし、何よりSNSをはじめとする新たなコミュニケーションツールが生み出す社会的な歪み(もしくは可能性)に対していかなる対応が必要とされていくのか、論調を強めていくことが肝心である。