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所要時間は24時間越えも! 昭和時代「長距離列車」にはどんなものがあったのか?

小林拓矢フリーライター
各地で旧型客車を使用する長距離普通列車が走っていた(写真:イメージマート)

 古い時刻表というのは復刻を繰り返してきた。これらを読むことで、過去の鉄道に思いをはせることが可能になる。

 JTBパブリッシングでは、最近『時刻表復刻版』をムックで刊行している。以前も同様の企画が試みられたが、箱入りの高価なものが販売された。最近のものでは、比較的安価で過去のエポックメーキングなダイヤ改正のものを刊行している。

 過去の時刻表を見ると、いまからは考えられないような長距離・長時間の列車が運行されている。それらの列車を紹介しながら、いまどれだけ鉄道の速達化が進んだのか考えてみたい。

24時間クロスシートに座る長距離急行

 1964(昭和39)年10月号の時刻表は、東海道新幹線が開業した際の時刻表である。これには、同新幹線とその接続列車が掲載されている。

 東京を新幹線で朝出ても、その日のうちに特急や急行を乗り継いでたどりつけるのは熊本や大分までとなっており、西鹿児島(現在の鹿児島中央)や長崎、佐世保までその日のうちに到達することは不可能だった。

 必然的に長距離列車は夜行が中心となっていく。その中でも長時間走行でいまとなっては考えられないものは、東京から鹿児島本線経由で鹿児島(当時は鹿児島も優等列車の発着駅だった)に向かう急行「霧島」や、日豊本線経由で西鹿児島へ向かう急行「高千穂」である。どちらも所要時間が24時間を越えるのだ。「霧島」は東京発11時00分、鹿児島着は翌13時35分、所要時間26時間35分となっている。「高千穂」は東京14時35分発、西鹿児島翌19時53分着、所要時間29時間18分となっている。どちらも客車列車であり、2等座席車・1等座席車・2等寝台車・食堂車が連結され、「高千穂」は区間によっては1等寝台車も連結している。2等座席車は自由席だった。

「霧島」「高千穂」に使用されていた客車は旧型客車で、4人向かい合わせの固定クロスシートである。新幹線と新大阪発の夜行急行を組み合わせれば午前中に東京に出て翌朝西鹿児島に着くことは可能だったものの、安さを求めてこうした急行列車を使用する人は多かった。

 また西鹿児島には寝台特急「はやぶさ」が運行されていた。東京19時00分発、西鹿児島1翌7時30分と、所要時間は22時間30分で、寝台車と1等座席車、食堂車が連結されていた。当然ながらこういった列車は高嶺の花だった。

「高千穂」「霧島」では、長時間座席に座り続け、大きな駅での長い停車時間を利用して駅弁を買ったり、顔を洗ったりしてなんとかしのいでいた。急行列車とはいえ、食堂車はちょっと値段が高い。

 混雑している時期には、クロスシートでじっと座りながら、東京と鹿児島・西鹿児島を行き来していたのが当時の多くの鉄道利用者だった。

 いまとなっては、新幹線「のぞみ」と「みずほ」「さくら」を乗り継げば、その日のうちにかんたんに到着できる。しかも快適なリクライニングシートだ。むかしは過酷だった、ということを感じてしまう。

朝から晩まで乗り通しの昼行特急

 大阪から青森まで、ぶっ通しで走る特急が1961(昭和36)年10月から運行された。特急「白鳥」である。1964年10月号の時刻表では、朝8時15分大阪発、深夜23時47分青森着というダイヤだった。15時間37分かかった。当然ながら当時は新津から新潟に寄ることはなく、一路青森をめざした。途中駅での停車時間も比較的短めだった。なお、食堂車は連結されていた。

 この列車が過酷だったのは、朝から晩まで乗り通すだけではなく、その後青森から青函連絡船を介して北海道へ連絡することだった。0時15分青森発、4時35分函館着の1便に乗り、特急「おおぞら」で9時25分に札幌に着く。なおこの列車を使うと釧路には15時25分にたどりつく。

「白鳥」は長時間の乗車もさることながら、その後の青函連絡船では睡眠時間も少なくゆったりとしていられないという状況となり、なかなか大変だったと考えられる。

 1972(昭和47)年の運行区間全区間電化で「白鳥」は電車化、大阪発車時刻は10時18分にまで繰り下がっている。1978(昭和53)年10月の時刻表では青森着は23時50分。ただ、青函連絡船への連絡と特急「おおぞら」への接続は変わらなかった。青函連絡船廃止後は急行「はまなす」への連絡となる。

「白鳥」などからの乗り継ぎを受けていた青函連絡船
「白鳥」などからの乗り継ぎを受けていた青函連絡船写真:イメージマート

函館から稚内まで直通の気動車急行

 北海道には長距離の気動車特急が多い。札幌から釧路・網走・稚内と各方面に運行されている。その中で、稚内までの列車は本数が少ないこともあってか、最果てまで行くという印象を与えてくれる。

 かつての北海道の鉄道輸送は、札幌が中心ではなかった。函館が中心となり、青函連絡船を受けて各方面に向かう列車が運行されていた。釧路・網走へは特急が運行されていたが、函館発稚内行きの特急はついにできなかった。札幌発稚内行の特急でさえ、2000(平成12)年3月ダイヤ改正でようやく登場したほどだった。

 1964年10月には、「宗谷」がそれまでの多層建て列車から単独運転の急行となり、運行区間も函館から倶知安経由、札幌、稚内という列車になった。10時57分に函館を出て、16時05分に札幌着、22時43分に稚内に着く。11時間46分の長旅である。

 気動車急行なので、食堂車はついていない。しかもこの列車は、主要駅での停車時間も5分以内と短い。駅弁を買うのがやっとである。

 1981(昭和56)年10月に札幌~稚内と区間短縮されるまでこのスタイルの運行が続いた。

 これらの急行列車のほかにも、時刻表の復刻版を読むと長距離の普通列車や急行列車などが多く掲載されている。普通列車が高頻度・短距離運行となり、急行列車は臨時以外ではなくなった現在から考えると、まったく異なったダイヤが過去には組まれていた。朝から晩まで走り続ける普通列車は、ある地域での通勤列車や、別の地域での帰宅列車などを組み合わせて一本にしたものであるものの、非効率性ゆえにそういったダイヤはつくられなくなった。

 現在では日本で最長距離を走る列車は東京~博多間の「のぞみ」であるものの、所要時間は5時間を切っている。

 時刻表の復刻版を読みながら、この数十年で鉄道は大きく変わったことを考える。旅情は失われたかもしれないが、便利さはおそろしく増していると見てもいいのではないだろうか。

大井川鐡道で保存されている旧型客車。中はこのようになっている
大井川鐡道で保存されている旧型客車。中はこのようになっている写真:イメージマート

フリーライター

1979年山梨県甲府市生まれ。早稲田大学教育学部社会科社会科学専修卒。鉄道関連では「東洋経済オンライン」「マイナビニュース」などに執筆。単著に『関東の私鉄沿線格差』(KAWADE夢新書)、『JR中央本線 知らなかった凄い話』(KAWADE夢文庫)、『早大を出た僕が入った3つの企業は、すべてブラックでした』(講談社)。共著に『関西の鉄道 関東の鉄道 勝ちはどっち?』(新田浩之氏との共著、KAWADE夢文庫)、首都圏鉄道路線研究会『沿線格差』『駅格差』(SB新書)など。鉄道以外では時事社会メディア関連を執筆。ニュース時事能力検定1級。

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