【北アイルランド・ルポ】英EU離脱が遠く聞こえる ー「血の日曜日事件」の犠牲者の遺族が思うことは
先月末、英国はEUから離脱した。英議会があるロンドン・ウェストミンスター付近は離脱実現を祝う人々で賑わったが、「ロンドン」も「離脱」も遠い国の決断であるかのように響く地域がある。ロンドンから飛行機で1時間強の英領北アイルランドだ。
ここには「国家による暴力」への怒り、無念さ、失ったものを忘れない人々がいる。
北アイルランド第2の都市デリー(ロンドンデリー)で、1972年1月30日、公民権運動のデモ行進に参加した市民らに向かって英軍が発砲し、13人が死亡。負傷者の中の1人も数日後に亡くなった。これは「血の日曜日事件」と呼ばれている。
非武装の市民に銃を向け、二桁台の人が死んだ事件。デリー市民ばかりか英国、アイルランド共和国そして国際社会にとっても衝撃的な事件だった。現場で取材中だったテレビ局のカメラは、市民が兵士らに攻撃を受ける様子を世界中に伝えた。
「北アイルランド紛争」(1960年代後半から1998年、プロテスタント系住民とカトリック系住民との対立をきっかけに、それぞれの民兵組織がテロ攻撃や暴力事件を繰り返した紛争。事態鎮静のために入った英軍も抗争に巻き込まれた。約3700人死亡)の初期の大きな事件の1つだった。事件発生の1972年、紛争によって亡くなった人は500人を数えたという(デリー市)。
*北アイルランド紛争で破壊された主都ベルファストの様子を撮影した、BBCの動画(1973年)。破壊のすさまじさが伝わってくる。*
カトリック国がプロテスタント国の支配下に
非武装の自国の市民に、なぜ兵士たちは銃を向けたのか。そもそも、なぜ暴力を伴うほどの対立があったのだろうか。
対立の根にあるものとは(1)併合された歴史の軋み
イングランド王国(927年~1707年)がアイルランド島を支配下に置いたのは12世紀頃になる。
1801年、プロテスタント国の英国(イングランド王国とスコットランド王国が合同してできた「グレートブリテン王国」)は、カトリック国のアイルランドを併合する(「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国」に)。
20世紀に入って、アイルランドは英国から独立するが、北部の6州はプロテスタント系住民が大部分で、英国の一部として残ることに決めた。これが今の北アイルランドである。(英国の現在の正式名は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」。)
北アイルランドではプロテスタント系が大多数、カトリック系が少数という人口構成が長く続いた。警察や政治家など支配層の大部分はプロテスタント住民だった。
対立の根にあるものとは(2)プロテスタント住民とカトリック住民の力関係の変化
2011年(最新)の国勢調査によると、北アイルランドの市民の48・4%がプロテスタント系、45・1%がカトリック系である。現在までにカトリック系の方が多数派になったという見方もある。
北アイルランド紛争の背景には、かつては少数派だったカトリック住民が公民権運動に力をいれて次第に存在感を拡大していく一方で、自分たちの地位が脅かされていくように感じるプロテスタント住民という構図があった。
デリーはカトリック住民が圧倒的に多い場所
カトリック系住民による公民権運動は、1960年代以降、活発化する。その中心となったのが、住民の大多数がカトリックで、プロテスタント系政治家や支配層から様々な差別を受けていたデリーだった(現在、デリーはカトリック住民が67・4%、プロテスタント住民が19・4%、そのほかが13・4%)。
1968年、同市で行われた初の公民権運動のデモは地元警察に鎮圧された。69年にはボグサイド地域での暴動が3日間続いた。
「カトリック住民」対「プロテスタント住民と、中立であるはずの地元警察」という対立構図に、暴動鎮圧のために北アイルランドに派遣された英軍が加わった。
カトリック住民は当初英軍を歓迎したが、次第にプロテスタント側に属する存在として敵視するようになった。
英軍からすれば、カトリック住民は南のアイルランドとの統一を目指すカトリック系民兵組織「アイルランド共和軍(IRA)」のシンパ、あるいは「テロリスト予備軍」だった。いつしか、「カトリック住民」対「プロテスタント住民+英警察及び当局」という対立構造ができてゆく。
1971年、北アイルランド自治政府は、暴動を抑えるために、裁判を経ずに容疑者を拘禁し逮捕状なしに逮捕する荒療治を導入。暴力事件はかえって悪化した。
1万5000人の抗議デモの急転
翌1972年1月18日、自治政府は北アイルランド内での全ての抗議運動やデモを禁止した。
同月30日、公判なしの拘禁に抗議するデモにデリー市民約1万5000人が参加。よく晴れた、冬の日だったという。
平和なデモになるはずだった。
デモ参加者は午後2時45分、高台にあるクレガン地区から出発し、中心部のギルドホール広場に向かう道を歩き出した。しかし、途中でデモ鎮圧のために派遣されていた英陸軍落下傘連隊の兵士らによる銃撃が発生し、市民が次々と命を落とした。
市民らが銃撃を受けて倒れた場所に建つ「フリー・デリー博物館(Museum of Free Derry)」は、真実を求めるために運動をする遺族が集めた資料や、持ち寄った思い出の品などを保管する場所として始まった。
博物館のヘリテージ&プログラム・コーディーネーターのジュリアン・キャンベルさんは、「昔のものを保管しているだけではなく、『生きている』博物館でもある」という。「デリーの人はここに立ち寄って、『こんなのがあったわよ』といって持ってきてくれたりするから」。
博物館がオープンしたのは、2006年。遺族が中心となって、ボランティアで運営されている。
「事件の最初の犠牲者は、私の叔父さんだった」
キャンベルさんが生まれたのは、血の日曜日事件の数年前。父と母の弟、つまりキャンベルさんの叔父にあたる人物もデモ行進に参加していた。「政治的なことを話すような家族ではなかった」。
「叔父はボクシングをやっていた。でも、当局側はカトリックの民兵組織の情報提供者だと言っていた」。
キャベルさんの叔父ジョン・ダディーさん(通称「ジャック」)は、事件の最初の犠牲者だった。
血の日曜日事件で、最も有名なイメージがある。英軍に撃たれた男性を抱える数人を安全な場所に連れて行こうと、白いハンカチーフを手に持って先頭に立つエドワード・デイリー牧師の姿だ。
「みんなに抱えられている人物が、私の叔父なの」。
ジャックさんは当時17歳。待ち構えていた英兵数人から逃げたところを後ろから撃たれた。弾は肩から入って胸を貫いた。
複数の目撃者によると、ジャックさんは走りながら逃げる間に、兵士らに狙いをつけられた。のちの2つの調査で、ジャックさんが非武装だったことが確認されている。
「『平和のための行進』に行ったはずのジャックが射殺されてしまうなんて」。
キャンベルさんの母親は、事件以来、英軍やプロテスタント住民が多い地元警察を怖がるようになったという。
母親は、キャンベルさんにジャックさんのことを多くは語らなかった。「母は家族を守りたかったのだと思う。私たちが憎しみを抱えて生きないように」。
近所におしゃべり付きの女性が住んでいた。キャンベルさんは事件の一部始終を彼女から教えてもらったという。
真相解明までの道 「ごまかし」の最初の調査にデリー市民が激怒
血の日曜日事件は新聞やテレビによって、英国内外で報じられた。
「いったい、これは何なのか。何が起きたのか」。多くの人が知りたがった。特にデリー市民は納得がいかなかった。
事件から2日後、政府は法廷(首席裁判官ウィッジェリー氏が統括し、「ウィッジェリー裁判」と呼ばれる」)を立ち上げた。英兵側はデモ参加者が狙撃手や爆弾犯だったと主張したが、デモ参加者側は自分たちは非武装だったと述べ、意見が真っ向から対立した。
法廷はデリー州の州都コーレインで開かれた。デリーから約50キロ離れた場所である。
調査は12週間で終了し、4月発表の36ページにわたる報告書は、銃撃を行った何人かの兵士については「無謀に近い状態だった」と指摘したものの、犠牲者の方が「武器を発砲し、爆弾を手にしていた」強い疑いがあると結論づけた。数百人にものぼる目撃者の証言とは合致しない結論だった。
「ウィッジェリー裁判は軍隊を無罪放免とし、デモに参加した市民の方が悪い、と言ったのよ」とキャンベルさん。
アイルランド中の市民や事件の遺族らは、報告書を「ごまかし」と呼んだ。「デリーの市民は、とてもじゃないけれど、受け入れられなかった」。
これを機に「何とかしなければ」、と遺族や友人らが動き出す。「血の日曜日事件の正義を求める運動」がようやく立ち上がったのは、1992年だ。
ウィッジェリー首席裁判官に血の日曜日事件の調査を依頼したのは、エドワード・ヒース首相だった。
ヒース首相は任命直前、ウィッジェリー氏に対し、「これは軍事的な戦争ではなく、プロパガンダの戦争だぞ」と警告した(のちにヒース氏はこう発言したことを認めているが、法廷に影響を及ぼしたつもりはない、と述べている)。
「任命した首相が先にこう言っているようでは、デモ参加者側には推定無罪が認められていないこと意味すると思う」、とキャンベルさん。
12年かかった、サビル調査
遺族や市民団体の熱心な運動が圧力となり、1998年、トニー・ブレア首相が独立調査委員会(最高裁判事サビル卿が委員長となったために「サビル調査」と呼ばれている)を設置した。
サビル調査は、終了までに12年かかった。今回、調査会はデリーをベースにした。かかった費用は1億9500万ポンド(現在の為替レートで約277億円)。
「巨額であるのは確かだけれど、遺族がいつもいうのは『真実を語るのはただでできる』」。
5000ページにのぼったサビル報告書は、あの日、英軍に撃たれて亡くなったデモ参加者、あるいは負傷した市民の中で、「死あるいは重傷を引き起こす脅威をもたらした人、あるいは軍隊からの攻撃を受けるに値する行動をとった人は一人もいなかった」、と述べた。市民らは英軍から逃げる途中であったか、攻撃を受けて瀕死の人を助けようとしていたのだ、と。また、兵士らが嘘をついていたことも指摘した。
血の日曜日事件は、「遺族や負傷を受けた人々にとって悲劇であり、北アイルランドの人々にとっては破滅的事件だった」(サビル報告書)。
キャメロン首相の謝罪
2010年6月15日、デービッド・キャメロン首相は議会でサビル報告書を発表し、その模様はデリーのギルドホール広場に設置された大きなスクリーンで生中継された。
キャメロン首相はこれまでの政府の対応を謝罪し、1972年に発生した事件は「正当化できない」と述べた。
当時、遺族の広報役として動いていたキャンベルさん。サビル調査の結果を知った時、「肩の荷が下りたようだった」。
遺族だけではなく、「デリーの市民にとっても重要な判定だった、無実であることを、これで証明できた」。
「無実であることは、わかっていたのに」
遺族からすれば、最初から「こちらが何も悪いことをしていないことはわかっていた」。
サビル調査が終わるまでは、「遺族は潜在的テロリストであるかのように扱われてきた」とキャンベルさん。「IRAかと思われた」。
北から南のアイルランドに家族が休暇で出かける時、警察や兵士に車を停止され、中を捜索された。「警察に脅されることは日常茶飯事だった。他の遺族もそうだった」。
キャンベルさんには、公民権運動のデモに頻繁に参加していた叔母がいた。兵士の姿を自宅周辺で見かけた時は、気をつけるようにと叔母は言っていた。「武器をこっそりと入れておく場合があったから」。
ある時、叔母が自宅の2階に上がっていくと、2人の兵士が震えるようにして立っていたことがあった。一人の兵士のズボンのあたりから銃の一部が見えた。叔母は精一杯声を張り上げて、こう叫んだ。「銃を仕掛けようとしてる!」兵士たちは慌てて逃げ出したという。
「こんな汚いことをするなんて、ね」。
キャンベルさんは、英国の軍隊は国民が誇れるようなものではないと思っている。「全員がそうだとは言わないけれど」。
軍隊や諜報機関についての不信感が強いキャンベルさんに、「北アイルランドの市民として、もう英国の一部でありたくない」と思うことはないのか、と聞いてみた。
「そんな風には思っていないが、英政府の行動を恥ずかしく思っている」。
英国のEU離脱について、聞いてみた。
離脱など眼中にないという感じのキャンベルさんだったが、「北アイルランドはイングランド地方のお荷物だと思われている」という。
そして、こう言った。
「誰もここ北アイルランドの声に耳を傾けない。誰も。今も、そして過去もずっとそうだった。誰も耳を傾けないのよ」。
EU離脱は2016年の国民投票で決まったが、北アイルランドの有権者は残留を選んだ。しかし、英国の一部であるために、北アイルランドもEUから離脱する以外に選択肢はなかった。
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参考
「血の日曜日事件」(フリー・デリー博物館)
デリー市の公開資料
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