独ライプティヒのメディア会議報告 ―「殺すぞ」、「帰れ」と言われ続けた毎日を語るジャーナリスト
(新聞通信調査会発行の「メディア展望」11月号に掲載された、筆者原稿に補足しました。)
ジャーナリストがその言論を阻害され、身の危険さえ脅かされることがある。そんな状況は独裁者が統治する国で発生するばかりか、筆者が住む欧州でも起こりうる。そんなことを実感した会議が、10月5日、独東部ザクセン州の都市ライプティヒで開催された。
主催は「プレスとメディアの自由のための欧州センター」(The European Centre for Press and Media Freedom=ECPMF、本部ライプティヒ)である。ECPMFは2015年、「報道の自由における欧州憲章」の欧州全域での適用を目指して発足した。
今回の会議は「危険にさらされるジャーナリストを守る」をテーマとし、学者、ジャーナリスト、人権擁護団体、弁護士など100人がライプティヒ・スクール・オブ・メディアに集まった。
ちなみに、旧東ドイツの一部だったライプティヒでは1980年代末以降、「月曜デモ」と呼ばれる反体制運動が発生した。この地での平和な住民デモが、ベルリンの壁崩壊(1989年11月)につながってゆく。
ECPMFのマネジング・ディレクター、ルッツ・キンケル氏は、会議のテーマが「危険にさらされるジャーナリストを守る」であることに憤りを感じるという。過去数年間のテーマが同じであっても不思議ではなく、同様のテーマで今後数年間も会議が開かれることが予想されるほど、ジャーナリストが危険な状態に置かれているからだ。
政治家からの影響も見逃せないという。トランプ米大統領はメディアを「市民の敵」と表現した。これが批判的な声をつぶそうとする動きに加担する役目を果たす。トランプ氏のような思考がグローバルに広がっており、「ジャーナリストは攻撃の対象になっている」。
スウェーデンは「人種差別の国」
会議の最初のセッション「ジャーナリストへの現在の脅威」で、大きな注目を集めたのがスウェーデンでフリーのテレビ・ジャーナリストとして働くアレクサンドラ・パスカリドウ氏の例だった。
パスカリドウ氏が6歳の時、一家はギリシャからスウェーデンに移住した。当時から郵便受けに人種差別的なメッセージを入れられる嫌がらせを受けたが、25歳でテレビ局のジャーナリストになると嫌がらせは悪化した。トークショーの司会者となったパスカリドウ氏に対し、「お前を殺すぞ」などの脅し文句が入った手紙がテレビ局に届くようになった。ナチスを思わせる極右組織からも脅しを受けた。警察に支援を求めたが、「相手の名前が分からない。無名だから、何もできない」と言われてしまった。
最終的にパスカリドウ氏は仕事を失った。「問題を起こしたのは私ではなく、ナチス組織の方だった。でも罰されたのは私だった」。パスカリドウ氏は喉を詰まらせた。
今はフリーランスのジャーナリスト、放送プロデューサー、人権擁護運動家でもあるパスカリドウ氏が今回声を挙げたのは「自分がいかに可哀そうかを話すためではない。同様の被害にあっているジャーナリストがたくさんいることを知ってほしいと思った」。彼女の力強いメッセージが入った動画が紹介された。
「殺すぞ」、「レイプするぞ」と言われ続けた毎日・・・。彼女の動画「民主主義への戦い」の迫力に、会場にいた人は鳥肌が立つ思いをしたに違いない。私もそんな一人だった。
会場から「トークショーの司会者になった時に、なぜ脅し文句が届いたのか。きっかけはあったのか」と言う質問が出た。パスカリドウ氏は「レイプ被害にあった人に、レイプされるような言動をしていたのではないかと聞くようなものだ」とした後、「特別なことをしていたのではない」と答えた。移民の女性であることで攻撃の対象になったのである。
筆者はセッション終了後にパスカリドウ氏に再度この点を確かめてみた。
「移民の女性司会者に差別的な脅し文句を送る人がスウェーデンにいるとは驚きだ。実態はどうなのか」と聞くと、パスカリドウ氏は「スウェーデンは人種差別の国だと思う」と答えた。
生存の瀬戸際にある難民をリポートする
同じセッションに出ていたウィル・ヴァシロポウロス氏はAFP通信社のテレビ記者だ。難民が大量にやってきたギリシャ領レスボス島での報道で、ローリー・ペック賞を受賞している。この賞は自らの命を危険にさらして報道性の価値が高い映像を生み出したジャーナリストに与えられる。
ヴァシロポウロス氏はゴムボートに乗ってレスボス島に上陸する難民の姿や難民キャンプの様子を取材・撮影した。
会場の大画面に流れた迫力ある映像に圧倒される参加者に対し、ヴァシロポウロス氏はこう言った。「どれほど優れた映像も、現実の凄さを映し出すことはできない」。当時の様子を思い出したのか、涙声になった。「現実はもっと凄惨だ。カメラを向けることに困惑するほどだ」。
ゴムボートが海岸にたどり着いたときに、メディア関係者以外に誰もいないことがあったという。そこで息絶え絶えに波打ち際に横たわる難民たちを安全な場所にまで引き上げる役目をジャーナリストたちが行った。複数のジャーナリストが人を運ぶ姿を撮った写真が映し出される。「この時、後方には7人の難民の遺体があった」。
報道を通して、ジャーナリストたちは「良心の呵責に苦しむことになった」という。「手助けができなかったことに対する恥や罪悪感がある」。人が危険にさらされる様子を報道するとき、ジャーナリストはその人を助けるのかあるいはカメラを構え続けるかのジレンマにいつも直面するという。
息も絶え絶えにたどり着く難民たちの様子の動画には、どんな人も衝撃を覚えずにはいられないだろう。
兄を殺されて
セッションからもう一人の例を紹介したい。
45年前、イタリア・シシリー島生まれのアルベルト・スパムピナート氏は22歳の学生だった。3歳年上の兄ジョバンニ氏は25歳のジャーナリスト。兄が勤めていたのが「ローラ(L’Ora)」という新聞だ。1958年、ローラ紙はシシリー島のマフィアの内部構成を暴露する記事を掲載。「これ以前にもこれ以降にもマフィア組織をこれほど深く報道した記事はない」(スパムピナート氏)。
組織を運営する幹部の顔と名前を掲載したことで、同紙はマフィアの攻撃対象となった。印刷工場に爆弾をしかけられ、報道記者に脅しが来た。それでもローラ紙は報道を続行。その後、この記事に関わった記者3人がマフィアの手によって殺害された。一人は1960年、2人目が1970年、そしてスパムピナート氏の兄が銃殺されたのは1972年だ。
実行犯は捕まったが、「マフィアが手を下したと言い切るのは非常に難しい」とスパムピナート氏自身が述べる。
現在、「多くのジャーナリストが自己検閲をしている。シシリー島だけではない。イタリア国内でそうなっている」。
兄に何があったのかを知りたいと思ったスパムピナート氏は自分自身がジャーナリストになった。情報を集めて兄に起きたことを一冊の本にした。現在までに、イタリアの暴力事件についての情報を収集し、政治勢力や暴力組織によって脅されるジャーナリストを支援するウェブサイト「オッシジェノ(Ossigeno)」を立ち上げている。
午後のセッションではウィーン大学のキャサリン・ザリカキス教授がまとめた調査報告書「欧州のジャーナリストへの攻撃」が紹介された。対象期間は2000年から16年。
報告書によると、1000件を超える攻撃が発生しており、16年は最悪の年となった。攻撃の実態のほとんどは警察による逮捕だ。攻撃を受けて亡くなったジャーナリストは322人。最も死亡者が多かったのがロシア(155人)で、これにウクライナ(27人)、トルコ(19人)が続いた。
結論として
ージャーナリズムの人的コストはこれまでにないほど高くなっている、
ージャーナリストの働く環境が大きく変化しており、攻撃、暴力、脅し、死が珍しくなくなっている、
ー欧州はジャーナリストにとって比較的安全で民主的な場所であるとは必ずしも言えなくなった。
報告書はここからダウンロードできる。