トルコのクルド人とは -母語使用が厳しく制限

映像作家ドアン氏(中央)と仲間たち

 トルコからのクルド民族の分離独立を求める反体制組織クルド労働者党(PKK)の指導者アブドラ・オジャラン氏(終身刑で服役中)が、21日、トルコ政府との停戦案を発表した。

 4万人以上の犠牲者を出し、30年近く続いてきた闘争が、これで終結につながるのだろうかー?かつて訪れたトルコ南東部に住むクルド人市民の顔が思い浮かんだ。

 BBCのジェームズ・レイノルズ記者の報道によれば、両者の今回の和平交渉には実現への期待感が大きいという。

 「トルコの国会では現在、新たな憲法制定への議論が続いている。エルドアン首相、オジャラン氏ともに、国家の新たな基礎作りに参加したいという思いがある」。

 オジャラン氏は収容先のトルコ北西部マルマラ海のイムラル島の刑務所から停戦案の声明を出し、トルコ領からの戦闘員撤退を呼びかけた。PKKに近い政党の関係者が、クルド人の新年集会で、トルコ語とクルド語で声明を読み上げた。BBCによると、テレビでもこの声明が紹介された。

 PKK側は民族の言語であるクルド語での教育や「民主的自治」を望んでいる。

 トルコの少数民族クルド人たちは母語の使用を厳しく制限されてきた。一体、現地ではどのようなことになっているのか、日本からは状況が想像しにくいのではないかと思う。

 2006年、トルコ南東部ディヤルバクルで見た様子を、筆者のブログ・アーカイブから補足・掲載したい。

***

―「行かない方がいい」場所 

 チグリス川に臨むトルコ南東部の都市ディヤルバクルは、つい最近まで、観光ガイドブックが「行かない方がいい」、「行くなら十分に注意するように」と表記していた場所だ。

 クルド人はトルコ全体では人口の約20%を占めるが、南東部では過半数となる。トルコからの分離独立を求めるPKKが活動拠点としてきたのがディヤルバクルで、治安部隊との間での武装衝突が頻繁に発生してきた。

 PKKの指導者オジャラン氏は1999年に逮捕され、PKKは停戦宣言(2004年に破棄)を出した。これに呼応して政府は2002年に非常事態宣言を解除したが、その後、停戦交渉は難航し、トルコの中心都市イスタンブールやトルコ南東部、イラク北東部を中心に戦闘は激化していった。

 空港に迎えに来てくれた、クルド文化センターの映画作家ゼイネル・ドアン氏は、「妹の家があいているので、そこに泊まって欲しい」と勧める。既にホテルを予約してあるからと言っても、「キャンセルすればいい」と言う。丁寧に断っても繰り返すので、何故かと聞くと、「安全じゃないから・・・」。

 あまりの用心深さに、これは女性が一人で旅をしているためなのか、あるいはこの地方特有の歓待方法なのか一瞬戸惑ったが、反政府運動に関わりのない市民、外国人旅行者でも決して例外とはされず、何らかの事件に巻き込まれる可能性を考慮してのドアン氏の発言だった。

 全世界で約3000万人いるとされるクルド人は独自の文化と言語を持つ民族。トルコ(約1500万人)、イラク(400万人)、シリア(100万人)、イラン(700万人)にまたがって住む。

 1923年建国のトルコ共和国は、トルコ国家としての単一のアイデンティティーを作ることを重要視し、非トルコ人の国民の同化策を進めた。1920年代から30年代にかけて起きたクルド人の反乱はトルコ軍によって鎮圧されたが、同化に意を唱えるクルド人、反乱に関係したと見られる村人たちは処刑されたり、住んでいた村から強制移動させられた。

 トルコ憲法によれば、「トルコの国民はトルコ人」。公式言語はトルコ語のみが認められ、クルド語教育や放送などは厳しく制限を受けた。1980年代の軍政時代にはさらに文化的状況は厳しくなり、クルド語の教育、放送、出版が禁止された。

 トルコが加入を望む欧州連合(EU)の民主化要求にならい、近年は教育や放送条件が緩和されたが、自由にクルド語が教えられ、テレビやラジオで聞けるかというとそうではない。

 クルド語の教育、メディアに関わる人たちを訪ねてみた。

―クルド語は外国語扱い

 マザハル・アクタシュさんは、長年教師として勤務してきた中学校を退職し、仲間と共にクルド語の調査研究をする団体「クルディ・デル」を立ち上げた。「クルド語の学習が許可されたのは、ほんの2,3年前」という。

 「クルド語は、英語やドイツ語のように外国語の1つとしてなら学校で学べるけれども、母語としては教育課程に入っていない」

 「クルド人がたくさんいる場所でも、公的な場所でクルド語を使ってはいけなかった。誰かがクルド語を話したら、政府にこれを通報しなければならなかった」。 

 アクタシュさんが10代だった1960年代後半、クルド語の自由な使用を求めて、10万人近くが政府に署名と嘆願書を送ったという。「関係者は牢獄に連れて行かれた」。

 「図書館には基本的にクルド語の本はなかったが、もしあったとしても、「クルド語はトルコ語の一部だ」と書かれていて、『いつかはトルコ語に吸収される』という文脈だった。政府の息がかかった人が書いたのかもしれないね」と笑う。書店にはたまにクルド語の本が出ることもあったが、政府側が「反政府的意図がある」として没収したという。

 「一ヶ月ほど前に友人がバスに乗っていた。バスの運転手がクルド音楽をバスの中でかけた。乗客の中にはトルコ人がいて、バス停の近くにいた兵士にこれを報告した。乗客全員と運転手が警察署に連れて行かれ、運転手は罰金を払った」。

 しかし、クルド人が圧倒的多数派のディヤルバクルでは、兵士もクルド人ではないか、何故反クルド的態度をとるのかと聞くと、アクタシュさんは「確かにクルド人が多いが、トルコ共和国の兵士として訓練を受ければ、精神はトルコ人と同じになるんだ」。

 1980年代の軍政時代、トルコ語の公的場所での使用や放送は全面的に禁止されていた。アクタシュさんは子供たちの教育をどうしていたのだろうか?

 「全部禁止しようとしても、家の中の家族の会話までは禁止できない。学校では教えられていないので、親は子供にクルド語を話すことでクルド語を教えていった」。

 自分がクルド人で生徒たちもクルド人という状況で、教師として、学校では全てトルコ語で教えることを余儀なくされていたという。クルド語が自由に使えない事態は「頭に来る。自分の言葉が話せないのはつらい。悲しい。泣くしかない。自分の言葉を話したいし、教えたい」。

 クルド人でもクルド語を話したくないという人もいるという。「クルド語を話したがために父が牢獄に連れて行かれた、という人もいる。こういう人は話したがらない」。

 「クルディ・デル」は有志からの募金で運営されている。クルド語を成人向けに教えるコースも提供し、様々な方言があるクルド語を統一するための辞書作りにも取り組んでいるという。

 現政権の改革路線のおかげで、「今では(街中で)クルド語を話しても良くなった。テレビやラジオの放送もある。私はこれは成功だと思っている」。

―不当な扱いの撤廃めざすクルド語市民メディア 

 M・エミン・イルディリム氏は、クルド語の新聞「アザディヤ・ウエラット」の編集長だ。編集長になってからは2年ほど。 

 この新聞は元々、「ウエラット」という週に1回発行された新聞で、1992年に創刊されたが、1年後には「政府の圧力」で閉鎖された。政府側は「PKKのプロパガンダとなっている」と主張した。1994年からは現在の名前で再出発。2005年8月からは日刊となり、ディヤルバクル近辺では最初のクルド語の日刊紙だ。販売部数は約1200部。

 「他の新聞との違いは、ライターとオーナーが一般市民であり、市民のためのメディアであること」とイルディリム氏。自分自身も大学院生で、電子工学を勉強している。これからもジャーナリズムを続けたいという。「クルド文化や言語は禁止されるべきではない。非常に重要だし、この新聞には大きな使命があると思う。(クルド語の教授は学校では教育課程の中に入っていないので)、新聞を通じて、クルドの文化、民話、言葉そのものを教えるという役目も担う」。

 「アザディヤ・ウエラット」紙には20人の記者がいるが、顔ぶれは頻繁に変わる。「プロパガンダ紙になっている、として政府が様々な圧力をかける」からだ。「常に政府側からは不平不満が出る。罰金を払わされる」。書かなくなる記者もいるという。

 政府側は何が不満なのか?

 「PKKのオジャラン指導者の写真を大きく載せたり、政府批判をすると問題になる」。

 「私はPKK支持でも政府支持でもない。しかし、オジャラン氏を『指導者』と書いただけで『プロパガンダ』と言われてしまう。トルコでは言いたいことが言えないのだ。罰金を払わなくてはいけなくなる」。

 本当にPKKの機関紙ではないのかと、PKKとの関係を聞くと、イルディリム氏はどう言おうかと一瞬迷っているような様子を見せたが、思い切ったようにこう述べた。

 「この地域ではPKKに息子を出した人が必ず周囲にいるのが普通だ。この点から、支持するのは自然だ。PKKに関係しているという疑いで多くの人が投獄されてきたことも指摘しておきたい。重要なのは、(クルド人の分離・独立を求める)オジャラン氏を支持する署名が300万集まったことだ」。

 イルディリム氏自身、何故この新聞に関わっているのだろう?「クルド人に対する不当な扱いが起きている。私の心がこうした状況に何かを感じる。私は人々のために役に立ちたい」。

  緊張した面持ちで話をしてきたイルディリム氏に、編集室の様子を見せてもらった。

 午後8時頃になっていたが、数台のコンピューターが置かれ、書きかけの原稿、資料、辞書などが散在していた。既に他のスタッフは帰宅した様子だったが、女性が一人だけ残っていた。イルディリム氏と共にカメラに向かってもらいながら、「イルディリム氏は、厳しい上司ですか?」と聞いてみた。二人ともが笑い出す。「上司ではないんですよ」と女性。「ここには誰も上司はいないんです。みんなが平等だから」とイルディリム氏。やっと顔がほころんだ。(つづく)