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NFLアパレルを愛用した観山寿一がチームを選んだ理由を勝手に考察~俺の家のNFLとプロレスの話~

三尾圭スポーツフォトジャーナリスト
TBSテレビで放映されたドラマ『俺の家の話』(公式サイトより)

 最終回で多くの伏線を回収して、視聴者から感動の声を集めた『俺の家の話』。

 脚本家の宮藤官九郎がまたしても「クドカンらしさ」を存分に発揮した作品だった。

 数々の伏線が回収されたが、最後まで触れられなかったのが、主人公の観山寿一が愛用したNFLチームのアパレル。あまりの着用頻度の高さに、何か意味があるのでは?とNFLファンは期待しながら見守ったが、その理由は最後まで明かされなかった。

 このドラマに関して、プロレス的側面や能の分野から考察された記事は多いが、NFLから考究した記事にはお目にかかっていないので、勝手にこじつけながら考証してみたい。

 『俺の家の話』を最後に表舞台から去ることを表明していた長瀬智也は、最後の作品となるこのドラマに向けて並々ならぬ思いで臨んだ。

 プロレスラーの観山寿一を演じた長瀬は、役作りのために毎日6食を食べて、12キロほど体重を増やしただけでなく、プロレスのシーンを代役を使わずに演じるために、プロレスのトレーニングにも週6で励んだ。

 ドラマのチーフプロデューサーを務めた磯山晶氏によると、長瀬は宮藤が書いた脚本をさらに面白くする努力を最大限にしてきたという。

 プロレスのコスチュームも長瀬主体で考え、細かいディテールまで熟考したそうだ。

 NFLのアパレルを着用したのもその一つで、長瀬は寿一のイメージを頭の中で描きながら、専属スタイリストと何度も打ち合わせを重ねながら決めていったそうだ。

 寿一がNFLに出合ったのは、アメリカでの武者修行時代だと思われる。数多くのチームの服を愛用していることから特定の1チームのファンではなく、NFL全体が好きなカジュアルなファンだと推測できる。

 ドラマ内で寿一が着用したNFLアパレルは6チーム。NFLには全部で32チームあるが、気になるのはなぜその6チームを選んだのかだ。

 本当の理由はロゴやチームカラーなどが寿一のイメージに適したからなのだろうが、ここではもっと深い部分まで踏み込んで、寿一とそのチームの関係性を探り出してみた。

ラスベガス・レイダース

レイダースのスタジャンを愛用する観山寿一(『俺の家の話』公式サイトより)
レイダースのスタジャンを愛用する観山寿一(『俺の家の話』公式サイトより)

 最も着用率が高かったのがレイダースで、シルバーのスタジャンや黒のトレーナーを着ている姿はドラマ内で何度も確認できた。

 ロゴが格好良く、黒と銀の色使いもオシャレなレイダースはNFLアパレルの中では日本で最も人気が高いチームで、NFLに全く興味がない人たちもファッション性の高さから好んで着用している。

 レイダースは侵略者や盗賊を意味するチーム名で、さくらを山賊抱っこする寿一に相応しいチーム。

 2020年シーズンから本拠地をラスベガスに移したレイダースだが、寿一が着用しているのはオークランド時代のもの。

 ここでは、着用頻度が最も高かったシルバーのスタジャンに注目したい。

 このスタジャン、右袖に2つ、左袖に1つのエンブレムが付いているが、これはレイダースがスーパーボウル優勝を果たしたときのもの。レイダースは第11、15、18回とスーパーボウルを3度制覇している。

 右袖に付いているのが第11回スーパーボウル優勝のエンブレム。そう第11回大会だ。寿一が11回大会のエンブレムが付いたスタジャンを愛用するのは自然な流れともいえる。

 この第11回スーパーボウルは、1976年シーズンの王者を決める試合だったが、1976年といえば、寿一が幼少時代から憧れていたブルーザー・ブロディが『誕生』した年でもある。

 1946年生まれのフランク・グーディッシュ(ブロディの本名)がプロレスラーとしてデビューしたのは1973年だが、1976年にWWWF(現在のWWE)に登場したときに初めてブルーザー・ブロディというリングネームを使っている。

 左袖に付いているエンブレムは第18回スーパーボウルのもの。こちらは1983年シーズンの王者を決める戦いだったが、1983年はスタン・ハンセンとの『超獣コンビ』で全日本プロレスの世界最強タッグで優勝した年でもある。

 また、ブロディにプロレスラーとしての心構えを教え込んだ師匠であるキング・イヤウケアは、プロレスラーに転向する前にレイダースのトレーニング・キャンプに参加した経験も持つ。

サンフランシスコ・49ナーズ

49ナーズのトレーナーを着用する観山寿一(公式サイトより)
49ナーズのトレーナーを着用する観山寿一(公式サイトより)

 レイダースの次に着用回数が多かったのが赤と金がチームカラーの49ナーズで、トレーナーとスタジャンを着ている。

 『俺の家の話』では父親と息子の関係性が大きなテーマとして扱われていたが、寿一には2人の父親がいた。能の師匠で実の父親でもある観山寿三郎と、プロレス界の父親的存在の長州力だ。

 ここ最近、長州はプライベートで49ナーズのサンバイザーを被ることが多く、寿一が49ナーズの服を着るのは長州へのリスペクト心からかもしれない。

 49ナーズはスーパーボウルを5度制覇しているが、2度目の王者となった第19回大会が行われたのは1985年1月。この1985年という年は、寿一にとって大きな意味を持つ年である。ブロディが全日本プロレスから新日本プロレスに移籍したのが85年であり、この年にブロディはアントニオ猪木とシングルマッチで7度戦っている。父親の膝の上に座りながら一緒にテレビ観戦した猪木対ブロディの初対決は85年4月に行われた。

 49ナーズの選手といえばジョー・モンタナが有名だが、そのモンタナよりも10年ほど前には、ジョン・ブロディというクオーターバックが活躍していた。ジョン・ブロディの綴りはBRODIEでブルーザー・ブロディのBRODYとは微妙に違うが、49ナーズ一筋で17年間プレーして、1970年にはMVPに選ばれ、49ナーズの永久欠番にもなった名選手だった。

デンバー・ブロンコス

ブロンコスのトレーナーを着る観山寿一(公式サイトより)
ブロンコスのトレーナーを着る観山寿一(公式サイトより)

 オレンジ色のブロンコスのトレーナー(もしくは長袖Tシャツ)を着ている理由は、『馬』にあるのではと推測できる。

 能の「囃子」は笛、小鼓、大鼓、太鼓の4つの楽器によって演奏されるが、小鼓と大鼓は2枚の馬皮を『さくら』の木をくりぬいた胴に張って作られる。

 また、『能とは何か -能芸術の表現の本質-』の著者で、世阿弥が記した『風姿花伝』を現代語に訳した日本文化史家は川瀬一馬。

 ブロディに関するものでは、ウエスト・テキサス州立大学アメフト部の先輩で、全日本プロレス時代には何度も戦ったテリー・ファンクのニックネームは『テキサス・ブロンコ』だった。

 プロレス界には友人が少なかった孤高のレスラーだったブロディだが、テリーとは大学時代から馬が合ったようで仲が良かったようだ。

 また、最終回のドラマ最後の追悼興行のシーンで長州力が寿一に言い放った「またぐなよ」は、長州が大仁田厚に対して言った名台詞だが、大仁田の師匠的存在がテリーである。

ピッツバーグ・スティーラーズ

スティーラーズのTシャツを着る観山寿一(番組からのキャプチャ)
スティーラーズのTシャツを着る観山寿一(番組からのキャプチャ)

 鉄鋼の街、ピッツバーグに本拠地を置くスティーラーズは『鉄』のチームだが、プロレス界で『鉄』といえば、誰もが『鉄の爪』フリッツ・フォン・エリックを思い出す。

 ブロディにはプロレス界の父親的存在が2人いた。1人はレイダースの欄で紹介したイヤウケアで、もう1人はプロレス界にスカウトしてくれたエリックだ。

 エリックがブロディの父親的存在だとすると、寿一にとっては祖父的存在に当たるともいえる。プロレス界では、『鉄の爪一族』フォン・エリック家は『呪われた一族』としても知られている。長男のジャックは幼少期に事故死、三男のデビッドは全日本プロレス参戦中に25歳の若さで内臓疾患で亡くなり、四男ケリー、五男マイク、六男クリスの3人は自死している。幼くして亡くなったジャック以外の5人の男たちは皆がプロレスラーになったが、若くして命を落としている。

 ブロディもプエルトリコのプロレス会場で刺殺されており、寿一の事故もフォン・エリック家の呪いだったという説は否定できない。

 ちなみにスティーラーズはNFL最多タイとなる6度のスーパーボウル制覇を成し遂げている名門チームで、日本でも寿三郎と同年代の古参NFLファンにはスティーラーズファンは多い。

 6度のスーパーボウル優勝には、第『13』回大会も含まれている。

ミネソタ・バイキングス

バイキングスのTシャツを着る観山寿一(番組からのキャプチャ)
バイキングスのTシャツを着る観山寿一(番組からのキャプチャ)

 バイキングスはレイダースと同類の『海賊・盗賊系』のチームで、総合格闘技のUFC、世界最大のプロレス団体のWWE、猪木や長州も腰に巻いたIWGPのヘビー王者に輝いたブロック・レスナーがトレーニング・キャンプに参加したチームでもある。

 2016年に完成したUSバンク・スタジアムを本拠地にするが、1982年から2013年まではメトロドームが本拠地だった。メトロドームは、プロレスのビッグマッチでも使われる東京ドームのモデルとなったドーム球場だが、東京ドーム同様にプロレスでも使用されたこともある。

 メトロドームで開催されたプロレスの大会として有名なのが、1986年4月20日にAWAが主催した『レッスルロック86』。23,000人を集めたこの大会で、ブロディは自身のコピー・レスラーとしても知られたザ・バーバリアンと組んで、バーン・ガニアの息子であるグレッグ・ガニアとジミー・スヌーカー組と金網マッチで対戦している。

 この大会には当時、アメリカ遠征中だったジャイアント馬場と二代目タイガーマスクも出場しており、二代目タイガーマスクはAWA世界ライトヘビー級王者だったバック・ズモフと対戦。ノンタイトル戦だったのでベルトの移動はなかったが、三沢タイガーはズモフに勝利している。

 二代目タイガーマスクの正体である三沢光晴は、寿一と同じく試合中のバックドロップで命を落とした天才レスラーだった。

アトランタ・ファルコンズ

ファルコンズのパンツを履いた観山寿一(番組からのキャプチャ)
ファルコンズのパンツを履いた観山寿一(番組からのキャプチャ)

 こちらは分かり難いが、右腰の部分にファルコンズのロゴが付いているパンツ。

 プロレスファンならば、ファルコンズと聞けば真っ先に『超人類』ビル・ゴールドバーグが思い浮かぶだろう。2003年に東京ドームで開催されたレッスル-1では、武藤敬司とゴールドバーグがタッグを組んだこともある。ドラマにも実名で出演した武藤は、グレート・カブキとともに寿一が尊敬するレスラーで、グレート・ムタにあやかって息子、秀生が生まれたときには『紅蓮人』と名付けようとしたほどだ。

 だが、寿一がファルコンズ・グッズを身に着けた本当の理由は、ファルコンを日本語に訳すと隼になるからだと思われる。

 日本のプロレス史に残る伝説の覆面レスラーのハヤブサは、スーパー世阿弥マシンが参考にした選手。ハヤブサも試合中の不慮の事故で頚椎を損傷してリングを去った天才レスラー。事故の後は車椅子での生活を余儀なくされた。

ワシントン・フットボールチーム

 最後に1つ気になるのが、なぜ寿一はワシントン・レッドスキンズのアパレルを着なかったのか?という疑問だ。

 レッドスキンズはブロディがプロレス転向前にトレーニング・キャンプに参加したNFLのチームで、昭和のプロレスファンの多くがブロディがプレーしたNFLチームとして認識している。

 憧れのブロディがプレーしたと信じているチームの服を着ないのは不思議だが、気配りのできる寿一は、世間の目を気にしてレッドスキンズのグッズを身につけるのをあえて避けたのだろう。

 レッドスキンズはアメリカ先住民からの抗議を受けて、2020年シーズン前にチーム名とチームロゴを変更することを発表。2020年シーズン開幕までに新しいチーム名もロゴも決まらずに、『ワシントン・フットボールチーム』という仮名でシーズンを戦った。

 そんな事情を考慮して、寿一はレッドスキンズの服を着るのを自粛したと考えられる。

スポーツフォトジャーナリスト

東京都港区六本木出身。写真家と記者の二刀流として、オリンピック、NFLスーパーボウル、NFLプロボウル、NBAファイナル、NBAオールスター、MLBワールドシリーズ、MLBオールスター、NHLスタンリーカップ・ファイナル、NHLオールスター、WBC決勝戦、UFC、ストライクフォース、WWEレッスルマニア、全米オープンゴルフ、全米競泳などを取材。全米中を飛び回り、MLBは全30球団本拠地制覇、NBAは29球団、NFLも24球団の本拠地を訪れた。Sportsshooter、全米野球写真家協会、全米バスケットボール記者協会、全米スポーツメディア協会会員、米国大手写真通信社契約フォトグラファー。

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