「日本代表のセカンドキャリア」本屋としての地域貢献、元シンクロ代表二村知子の経営する「隆祥館書店」

大阪・隆祥館書店にて。元日本代表の二村知子とありし日の父、善明(撮・本野克佳) 

オシムが信頼されるのは「公正さ」があるから

W杯が開幕する度に思い出すのが、名監督ボラ・ミルティノビッチの言葉である。かつてカタールで行ったインタビューで、国家代表を指揮する上で重要なのは「選手のスキル、戦術以上に選手のセレクトだ。映画で言えばキャスティングだな。それができなければ、戦術以前の問題になってしまう」と語っていた。メキシコ、コスタリカ、ナイジェリア、アメリカ、中国とそれぞれ全く背景の異なる国の代表を率いて5大会連続でW杯出場(さらに中国以外はすべてグループリーグ突破)を決めた名将は、代表選手選考に最も神経をすり減らすというのだ。特に国策で代表強化を図ってオファーを出してきた国は、それだけ政治とサッカーとの距離が近く、ことあるごとに協会や省庁からの介入が行われる。現場の考えを無視して「〇〇を代表に入れろ」という声が頻繁に指揮官に向けて、矢のように発せられるのだ。

拙著、『オシムの言葉』にも書いたが、多民族国家、ユーゴスラビアの最後の代表監督だったオシムもまたこの介入と闘っていた。国際試合の前に選手を招集しようとすると、クロアチア、セルビア、スロベニア、マケドニア、ボスニア、モンテネグロ、コソボ、各共和国の政治家が必ず「わが民族の選手を使え」と民族バランスを保つように圧力をかけてきた。しかし、オシムはひるまなかった。評価基準はあくまでもサッカー、それゆえに「その選手がすばらしければ私はコソボのアルバニア人で11人揃えてみせる」と、ユーゴで最も被差別の地位にあったアルバニア人の名を出してまで、一切の忖度をしないことを宣言した。激しい紛争の後で、現在でも全民族から、信用され、慕われるのはこの姿勢である。

元シンクロ監督の井村雅代もまた「公正」だった

そして最近、「オシムさんと井村先生は似ているんです」と教えてくれたのが、シンクロナイズドスイミングの日本代表として、その黎明期に活躍した二村知子である。環太平洋パンパシフィック大会において連続世界3位に入賞した二村が、井村先生と呼ぶのは、言うまでもなく日本、中国でシンクロの指導者として両国に五輪でメダルをもたらした井村雅代である。中国政府から請われて、シンクロの中国代表監督として北京(チーム種目銅)、ロンドン(チーム種目銀、デュエット銅)と二大会続けてオリンピックで指揮を執った井村もまた、代表選手の選考については、地域主義の強い中国の北京、上海、四川、南京、広州、湖南など各省から来ているコーチから受けるプレッシャーがすさまじかったという。

ロンドン五輪前には、5つの省から来た選手で10人が構成されており、ひとりを外さなくてはならなくなった。すると広東省からは3人選出されていたために実力差を度外視して、「広東省から一人外して欲しい。省のバランスを考えてこの選手を使って欲しい」と一方的に水泳連盟の副会長から厳命される。井村監督はそこで「この選手を使ったら、演技は壊れます。もし4位でいいのなら、誰でも使って下さい。そして私でなく中国のコーチを使って下さい」と要求をきっぱりとはねのけた。聞けば、この監督の専権事項である選手選考に対するアメとムチで、強面の脅しと賄賂などの誘いもあったという。あの官僚的な中国体育総局の上層部を前に一歩も引かなかった。そしてとうとう押し切り、この判断が正しかったことをチームで銀メダルという結果で証明したのである。公正に選手を見て、妥協せずに鍛え上げる。そして信念が一切、ぶれない。タンカの切り方もまたオシムに似ていると感心してしまった。

書店に受け継がれる「公正」さ

世界3位になったパンパシフィック名古屋大会にて。前列右から2人目が二村。
世界3位になったパンパシフィック名古屋大会にて。前列右から2人目が二村。

二村もまたシンクロが、五輪種目になる以前、13歳で井村門下に入り、徹底的に鍛えられた。日本代表合宿ともなれば、朝6時からまずはアップとして個人メドレー。バタフライ、クロール、バック、ブレストを8本。続いて50mを往復する潜水。これが朝食前である。午前中には水深25mの飛び込み用のプールで腰に10kgの重みをつけて腕を上げて立ち泳ぎを4本。それからようやく音楽合わせなどの演技練習が入り、ランチの後もまた過酷な練習が延々と続き、一日8時間以上は水の中にいた。長さもさることながら、シンクロの練習は、体内に貯めた酸素を何度も何度もギリギリまで吐き出す過酷なものである。どれだけカロリーを摂っても体重は増えない。二村の髪は塩素で茶色になり、更には疲労から白髪が増えてマダラになった。

引退してからも二村は、水中で息が苦しくなってチームで自分一人だけ水面に顔を上げてしまう夢を見てガバっと飛び起きてしまうことがある。トレーニングは苦しく辛く、体力もメンタルも際限なく追い込まれた。ある日、井村に「できません。もう私は限界です」と伝えたら、「あなたの限界は私が決める」と即答で返された。

「うちの母はめちゃくちゃ厳しくて日本で一番怖いと思っていたんですが、井村先生はもっと怖かった。練習では泣いてましたね。でも先生のことは大好きでした。その真剣さに惹かれたんです」厳しさは指導をする上で正面から、向き合ってくれた証であった。女子サッカーを例に出すまでもなく、今ではメジャーになった競技も正式種目になる以前、援助もほとんど無い環境下における先人の努力が無ければ、後の隆盛も無い。その意味で二村は1970年代のシンクロ界で礎としてキャリアを刻んだ草分けとも言えよう。

二村は、現在大阪の谷町で知る人ぞ知る隆祥館という小さな書店を経営している。引退後、しばし御礼奉公としてシンクロを指導した後に、セカンドキャリアとして選んだ仕事は、父親の善明が始めた実家の本屋を継ぐことであった。隆祥館は店舗面積がたった13坪しかない。それでいて都市部の大型書店と堂々と渡り合っているのは、ひとえに二村の存在である。

小さな間口から店内に一歩入ると、右手の棚には「今、読まなければ」と思わせられる時代を映す骨太のノンフィクション作品が並び、書籍の目利きであることがいきなり印象付けられる。仕入れだけではない。二村は店を愛好してくれる1000人ほどの読者の顔と名前、そして嗜好をほとんど把握しており、新刊が入る度にどんな多忙でも自らが必ず読み込んで店内であるいは電話で案内するのだ。「〇〇さんは、この本は、ぜったい気に入ると思います」

どの本を薦めれば、お客さんに喜んでもらえるか、積極的な営業を進める一方で、どんなに売れていてもいわゆるフェイクニュースを元にした差別煽動本、ヘイト本の類は一切置いていない。自らが販売するモノに責任を持って、本と読者の幸福な出会いを考えるその背景には、2015年2月に78歳で亡くなった父親、善明の生き方があった。父はどんなに経営が厳しく費用対効果が悪くても、地域の勤め人のために24時まで店を開けていた。鳥インフルエンザが流行して学校が休校になったときは、外出できなくなった子どものために絵本を一冊から届けていた。働く背中が自然と書店のあるべき姿を教えてくれていた。

善明は書店ニュースという文書にこう書いていた「従来から書店は地域の文化の発信地の役割を果たすべきだと言われてきました。子供たちに読書を広め、その読書力に貢献し、遠くまでゆくことのできないお年寄りの読書の力添え、作家と読者への橋渡し、そしてその心の出版をただ売れればいいという商業主義の餌食にすることなく、出版を文化として作家を支え、読者が出版を育てるこの仲介者が書店と考えております」

書店業界のハンディに直取引を訴えて堂々と勝負を

二村は店に来た常連客たちが、父が亡くなったことを知り、号泣する姿を何度も見ている。「私はあのおっちゃんと本の話をするのが、好きやったんです」

本を一冊売った場合、書店の利益は約2割しかない。薄利の上、ネット書店やコンビニの参入により、リアル書店はこの20年で約1万件減少している。それでも父は本が人生をも変えてしまう文化的価値のある商品であることを信じ、それを販売することを誇りに思っていた。その意志の継続として、元日本代表はたった13坪の店ながら、顧客の一人ひとりと本を通じて繋がることで、地域にとってかけがえのない本屋を目指している。

アスリート故に恩師の井村監督よろしくフェアな競争は望むところではあるが、本の流通の仕組みは極めて不平等である。かつては、本を取次ぎに返品した際、大型チェーン店は翌日にすべて電子決済で返金されるのに、一般の書店は20日以降の返品分は翌月とされて、資金繰りが厳しくなっていた。これを解決したのも善明であった。2009年に「大手書店と扱いが違うのは不当だ」として公正取引委員会に直訴し、長い闘いの末に6年後に是正されたのである。それは組合書店が感謝した大きな進化であった。

他方、仕入れについては相変わらず理不尽な問題が続いている。まず利益率が大手書店と街の本屋では異なる。街の書店は低く抑えられているのである。またどんなに売っても小さな書店には取次ぎが本を入れてくれないという「ランク配本」という現象がある。かつて「動物占い」が爆発的に売れたとき、大手書店では平積みになっているにもかかわらず、取次ぎは隆祥館にはほとんど入荷してくれなかった。

二村は、幼い頃の夢を叶えるためにNASAに渡った小野雅裕の「宇宙を目指して海を渡る」の内容に惚れ込み、2014年に同書を売りまくった。結果、「宇宙を…」を売ったのは一番がAmazonで二番目が隆祥館だった。13坪の書店が、リアル書店では最も多く販売したのである。ところが、それだけの実績があるにもかかわらず、小野の二作目の「宇宙に命はあるのか」の配本はたったの一冊だった。同様にサントリーを育んだ二人の人物の友情を描いたノンフィクション「佐治敬三と開高健 最強のふたり」(北康利著)も日本で一番売ったにも関わらず、文庫になったときに取次ぎから入荷されたのは、何とゼロだった。結果を出しても評価がされない。心が折れても無理のない仕打ちである。同じ条件の元でライバルたちと戦ってきたアスリートゆえにその口惜しさは、推して知ることができる。せめて平等なルールの中での競争ができないものか。

しかし、苦境での限界を自分で決めてしまわないことを井村から、座して待つのではなく闘うことを父から、それぞれ学んだ二村は、挫けない。ときに小さな書店が泣かされていることを自身のツイッターで告発し、ときに取次ぎを通さずに版元に直談判して部数を確保していく。

書店業界のハンディをものともせずに、堂々と勝負に持ち込む。

「水の中で呼吸ができなくなる苦しさに比べたら、まだまだ頑張れます」本屋の仕事は社会貢献と信じる二村は、作家と読者を繋ぐ集いも行う。筆者も6月24日にト-クライブで隆祥館に足を運ぶ。オシムと井村について語り合うのが、楽しみでもある。