[ロンドン発]米中枢同時テロ(9・11)から20年がたった。それに先立つ米軍のアフガニスタン撤退で首都カブールは瞬く間にイスラム原理主義武装勢力タリバンの手に落ちた。アフガン民主化は夢と消えた。大混乱の中で日本は「平和憲法」に縛られ、報復される恐れのある現地職員を置き去りにしてしまった。1990年の初当選以来、日本の防衛・安全保障に深く関わってきた中谷元(げん)元防衛相(63)に書面インタビューに答えてもらった。

――カブール陥落とアフガン撤退で何が起きたのでしょう

中谷氏:8月15日にタリバンがカブールを掌握し、17日には大使館員は全員、外国の軍用機で出国しました。アフガン情勢が切迫している事態に、大使館の司令塔たる岡田隆大使が、現地に不在であり、国外退去の陣頭指揮をとるべき責任者がおらず、対応が後手に回るのも無理からぬことでありました。自衛隊の輸送機を派遣し、27日に邦人1人を移送しましたが、日本政府は「今回のオペレーションの最大の目的は邦人保護だという意味でよかった」とコメントしていますが、とんでもないことであり、恥ずかしい限りです。

真っ先に脱出した日本大使の役割とは何なのかと疑問を持ちました。救援では26日夜、日本大使館のスタッフや家族約500人がカブール市内の集合場所から空港に25台のバスで移動中に近くで自爆テロが発生し、空港にたどり着くことができず、アフガン国内に取り残されていました。

長年、日本大使館に勤めていた警備員は「自分たちの命は危険にさらされている。カナダやイギリスなどの大使館は現地職員や警備員を一緒に国外退避させているが、日本大使館は自分の責任で国外退避することは決められないと言って紹介状だけを残して立ち去ったままだ」と打ち明け、国外退去できるよう訴える嘆願書を出しています。

どの国も自国に協力してくれた通訳や職員とその家族の退避も邦人や大使館員と同様に大切にしています。今回、大使館員全員は外国機で退去したのに、大使館や国際協力機構(JICA)が雇用する現地職員、日本への国費留学生らを出国させることができませんでした。

オペレーションは邦人だけではなく、現地職員や通訳、JICA、NGO(非政府組織)、武装解除・地雷処理の業務で雇用していたアフガンの人たちの出国支援も必要です。日本のために働いてくれた人々の命を守ってあげることも重要な任務です。

英国大使は英軍の撤収完了とともにアフガンを離れる最後の便で帰国。英国大使はタリバンがカブールを掌握して以降、避難しようとする人たちの出国手続きをカブール空港で続け、8月14日以降、1万5000人以上をアフガニスタンから退避させました。米軍も8万2千人のアフガン難民を輸送し、司令官は最後の 軍用機で退避しました。

韓国はカタールに避難した大使館員が再び戻って対応し、バスを確保し、米軍人に同乗してもらい、検問を通過し、現地職員やその家族ら400人を軍用機で退避させました。タリバン兵に警護されてバス4台をタラップまで直接、乗り付けました。

出国にはタリバンの許可と意志疎通が必要で、そのためには大使と駐在武官の特別ビザや通行証の発行手続きが必要であり、大使館員がカブール空港に残って自衛隊輸送機の調整や出国を支援すべきでした。大使館は日頃から情報収集に努め、危機が起きたら迅速に判断できるよう大使館の警備、自衛隊派遣による安全確保の備えを高めておくことが重要です。

中谷元・元防衛相
中谷元・元防衛相写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ

――自衛隊機の派遣決定についてはどう思われますか

中谷氏:政府の情勢分析と自衛隊機の派遣決定が遅すぎました。私は8月16日の自民党外交部会や超党派の人権外交議連で大使館が退避したあとの残留者救出のための自衛隊機派遣を求めました。23日に派遣決定され、24日に先遣隊派遣、26日にカブールに到着したわけで、カブール陥落から自衛隊機の派遣決定まで8日間もかかりました。

その理由は救援機を出す手順が、まず民間機活用や外国軍に頼り、自衛隊派遣を避けようとする長年の習癖が対応の遅れを招いたからです。国家として事態を認識する際、自衛隊機使用について首相官邸、関係省庁の意思疎通がどうであったのか、リスクがあるため自衛隊機の派遣決定を避けるという忖度(そんたく)がなかったのかどうか。

安全だから自衛隊を出すのではなくて、危険な中でも救出する人がいるから自衛隊を派遣するという当たり前の考え方がされなくて、法律の運用上、慎重な議論と検討があったから判断が遅れたのではないでしょうか。災害派遣でも起こってから鳩首会議をしていれば派遣が遅れてしまいます。

緊急事態では初動の派遣は自衛隊に判断を委ね、早めに部隊に命令を出して予防、準備行為を指示し、近隣国の空港で待機させるぐらいのオペレーションの早期開始の決断が必要です。派遣の根拠となった自衛隊法の規定は安全な輸送を条件としていますが、緊急事態だからこそ自衛隊の派遣が必要になるという現実と矛盾しています。

空路は陸上輸送より戦闘に巻き込まれるリスクは小さいものの、ヘリ派遣や陸路も含めてどのような活動が憲法上可能なのかより精緻に議論すべきです。

――現行の法的な枠組みに限界があるのでしょうか

中谷氏:自衛隊の在外邦人輸送は、防衛省が外務省から依頼されてから動くというのは「待ちの姿勢亅です。 確かに自衛隊法にはそう明記されていますが、自衛隊は軍事組織であり、米軍と調整して、オペレーションにおける必要性を意見具申しているのでしょうか。派遣部隊の行動、即応性、各国との連携においては、早めに予防、準備行為をした方がいい。

大使館の退去によって取り残された現地職員とその家族はタリバンや過激派組織「イスラム国」(IS)の報復によって命の危険にさらされており、他国への出国を急いでいました。自衛隊法84条の4(在外邦人等の輸送)には外国人の輸送が定められています。

大使館に集合した避難民を救援するには(1)カブール空港への移動(2)出国手続き(3)自衛隊C-130輸送機による周辺空港へのピストン輸送(4)日本への輸送(5)難民認定や第3国への出国調整などの課題があります。空港までの移動では外国人を警護する法律がなく、チャーターした民間バスもタリバン側の検問所の通過や警備員との交渉がありました。

空港周辺は押し寄せてきた人々や整理に当たる米兵に対するISのテロが起こり、阿鼻叫喚の大混乱に陥っていました。自衛隊法第84条の4は、「防衛大臣は、外務大臣から外国における災害、騒乱その他の緊急事態に際して生命又は身体の保護を要する邦人の輸送の依頼があつた場合において、輸送を安全に実施することができると認めるときは、当該邦人の輸送を行うことができる」とありますが、「国外の国民が危険だから自衛隊を派遣するのに、安全でないと輸送はできない」というのは矛盾しており、自衛隊の運用の判断をむつかしくしています。

また、陸上での活動は、現地政府が崩壊しており、タリバン側の理解を得られるか見通しがないことから、自衛官が市中に退避希望者を迎えに行き、警護して連れてくることはできず、米軍が安全をコントロールできる空港内でのみ活動することとなりました。カブールの空港には国外脱出を希望する各国の関係者や現地民で大混乱を極めており、邦人らが自力で空港にたどり着けるか目処は立っていない状況でしたが、自衛隊法84条の3で「在外邦人の保護・救出」では、自衛隊の派遣先で戦闘行為がないことや相手国政府の同意が条件となっており、政府も崩壊し、現実に治安が極度に悪化している情勢からすると、現行法制で保護活動を行う政治決断をすることは無理があり、航空機による輸送のみで、空港外での避難民の救出や警護、輸送は想定されませんでした。国際協力支援活動の規定もありましたが、今回は使われなかったようです。

自衛隊機は周辺国の拠点空港からカブール空港に向かいましたが、カブール空港に輸送対象者が来ないことにはピストン輸送も始まらないのです。他国の避難民は早期にタリバンが制圧した市街地を通り抜け、安全かつ適時にカブール空港に来ることができました。多国籍軍に参加していたから連携と情報共有があったのです。

米軍は8月31日までにカブール空港からの撤退を要求されていましたが、ここに米軍が展開しているからこそ、自衛隊機によるピストン輸送が可能となるのです。米軍が撤収したら自衛隊機活用の退避作戦は不可能になり、現地職員や通訳、留学生の退避にも影響してくるでしょう。空路以外で国外退去でき、日本に迎え入れる態勢を作っておく必要があります。

――日本でのアフガン難民の受け入れはどうなっていますか

中谷氏:国連や先進7カ国(G7)では民主化に協力してくれたアフガンの人たちの救援で国際協力をしていくことになりましたが、コロナ禍の入国であるため、隔離措置もとられます。その間に難民条約に基づき対応することになりますが、各国と連携して第3国に出国する場合も含め、状況に応じた丁寧な対応が求められています。

日本では在日アフガン人から本国の家族を日本に呼び寄せることはできないかという要望が寄せられています。現在、日本で在留資格を得ているアフガン出身の庇護希望者がいるものの、難民としては認定されず、人道配慮による在留が認められないケースもあります。アフガンで迫害や重大な危害を受ける恐れがあるアフガン出身在留者らを本国に送還しないようにしなければなりません。

難民認定手続きの審査を待たずにアフガン出身者であることが確認でき次第、緊急措置として迅速に安定的な在留資格を付与すること、緊急措置として迅速に安定的な在留資格への変更を認めること、家族の呼び寄せを希望する場合、在留資格認定証明書の許可要件の緩和や大使館での迅速な査証の発給への配慮が必要です。アメリカ入国ビザ発給のため中継地として在日米軍基地が使われる場合も最大限支援すべきです。

いずれにせよ今後の退避作戦の鍵はアフガン国内の輸送者の空港までの移動、カブール空港での人物確認と多国間の調整や情報収集の分析と活用です。自衛隊輸送部隊の安全確保ができる限り、大胆に、迅速に、安全に支援ができるよう法律の整備をしておくべきです。

――政府に求めることはありますか

中谷氏:第一に、大使館、JICA、NGO の現地職員(退職者を含む)、留学経験者に対し、家族も含めて緊急退避させる措置を継続することです。

第二に、本人の意思と身元保証のみで「命のビザ」を発給する措置(米政府の特別ビザと同じ)を早急に講じること。パキスタンを中心とする周辺国政府に対し、日本の「命のビザ」保持者の陸路・空路での受け入れが可能となるよう早急に調整すること。

第三に、アメリカ・北大西洋条約機構(NATO) 諸国と緊密に連携し、救出を待つアフガン人とその家族の安全確保と出国支援について人道的観点から粘り強くタリバンと交渉を続けること。

第四に、「命のビザ」保持者とその家族が日本に定着するために、在日米軍基地の利用も視野に入れ、コロナ対策を講じた最初の受け入れ態勢や当面の住居と医療費を含む生活保障、職業訓練、語学訓練など生活維持に必要な支援を行うことです。

日本としては、アフガンの安定が国際社会の平和と安定にとって極めて重要であると認識しており、今後は各国と緊密に連携し、国際機関などの人道支援要員の安全確保が不可欠です。タリバンはテロ組織との関係を断ち切らなければなりません。そのためには周辺諸国を含む国際社会が一致してタリバンに対応することが重要です。

現地に残る邦人、大使館やJICAの現地職員などの安全確保や出国支援のため引き続き全力で対応し、自衛隊機が撤収したあとも現地情勢を見極めつつ、外交というステージでわが国として真心のこもった支援を推進していかねばなりません。アフガン退避オペレーションで外務省と大使館の任務と実行の点での厳格な評価が必要です。

――20年前の同時テロの時は防衛庁長官でした

中谷氏:脅威が国家からの侵略でなく、テロリストによる攻撃になりました。どの国も一国だけ自国を守れない時代になったのです。日本が初めて海外の戦争に自衛隊を送ったきっかけが2001年9月11日に起こった米中枢同時テロでした。その3日前、防衛庁長官として田中真紀子外相とともに訪米していました。

サンフランシスコのオペラハウスで行われた講和条約(サンフランシスコ平和条約)署名50周年の記念式典に出席していたのです。50年前、吉田茂首相は「この講和条約は和解と信頼の文書である」と、国際社会における日本の独立と主権を回復し、アメリカが日本の安全を保障する日米安全保障条約に署名しました。

その後、日米安保条約がアジアの平和と繁栄の基盤となり、日米両国の政治経済の発展の基軸となって世界で最も重要な二国間関係を維持することができました。東アジアの安全保障と経済発展に成功したのは密接な日米関係があったからです。この日米安保条約を維持し、結束を強化、日米両国を発展させていくことを確認しました。

その3日後、ニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャックされた旅客機が2機連続で激突しビルが崩壊しました。ワシントンでも米国防総省に旅客機が突っ込むなど4回のテロ攻撃で日本人24人を含む2977人が死亡、2万5千人以上が負傷しました。

その時、私はジャカルタの日本大使館で竹内行夫大使と東ティモールに国連平和維持活動(PKO)部隊を派遣することでインドネシアのメガワティ・スカルノプトリ大統領(当時)との会談の事前打ち合わせをしていました。竹内大使からニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が激突したらしいとの第一報を聞き、直ちにJAL最終便で帰国することにしました。

インドネシア大使館の公使をしていた鶴岡公二氏(のちに駐英大使)が空港まで送ってくれましたが、車中で「犯人は国際テロ組織のアルカイダだ」と断言しました。その日の夜11時発の便で帰国できましたが、その間、政府からの情報が入ってこなくなりました。JALの機長が頻繁にテレックスでの情報を知らせてくれ、大変助かりました。

首相の外遊は政府専用機で行っていますが、防衛相や外相の海外出張にも政府専用機や自衛隊機が必要だと思いました。早朝6時に成田空港に到着、自衛隊のヘリで移動し、国会議事堂の臨時ヘリポートに着陸しました。まだ官邸にはヘリポートがなく、史上初めて国会に自衛隊機が着陸し、官邸での安全保障会議に間に合いました。

――小泉純一郎首相(当時)からどんな指示があったのでしょう

中谷氏:小泉首相から「第一にテロリズムとの闘いを日本自らの安全確保の問題と認識して主体的に取り組むこと。第二にアメリカを強く支持し、アメリカをはじめとする世界の国々と一致結束して対応すること。第三に日本の断固たる決意を内外に明示する措置を講じ、これを迅速かつ総合的に展開していくこと」という基本方針が示されました。

テロに対抗する米軍への医療、輸送・補給の支援での自衛隊の海外派遣と日本国内の米軍施設・区域及び日本の重要施設の警備、直ちに情報収集のための自衛隊艦艇を派遣する6項目の当面の措置が政府決定されました。その後、私は防衛庁に戻り、防衛庁長官として記者会見に臨みました。第一声で「テロと戦う」と宣言しました。

在日米軍基地や国内の重要施設を自衛隊が守れるようにすべきだと主張し、平時でも自衛隊が米軍基地を守ることができる警護出動を自衛隊法の規定に入れるべきであり、米軍施設や首相官邸、国会、皇居周辺、原発施設などの警護には平時から大規模テロ防止の目的で自衛隊が警護することが望ましいのではないかと発言しました。

この時、自民党の大物たちは慎重姿勢を示しました。宮沢喜一元首相が「一度やったら一生やめられなくなる」、橋本龍太郎元首相は「宮中も自衛隊が警備するのか」、河野洋平元官房長官は「かんぬきを外すのはダメだ」、野中広務元官房長官は「恐ろしいことだ。国会議事堂や官邸に自衛隊が銃を持って日本国民を前にして立つことがあっていいのか」と反対しました。

要するに自衛隊に国会周辺を警備させるのは怖いということであり、機関銃を持った自衛隊が国会内になだれ込み、クーデターが起きるという「軍部の暴走」を危惧していました。まず警察が警護し、警察力で警護できない場合は「治安出動」により自衛隊が警護することになっていました。しかし日本国内の米軍施設や自衛隊施設が破壊される恐れがある場合などに首相の命令により自衛隊が出動できるよう自衛隊法を改正しました。

――当時、横須賀基地から米空母キティホークが出港する時、自衛艦が随伴しました

中谷氏:神奈川県の横須賀基地から米海軍空母キティホークが出港する際、防衛庁は官邸に海上保安庁と調整し、米空母への護衛活動計画を出していました。他国の艦艇を護衛する法律がないため通常の警戒監視活動として自衛艦が随伴しました。事前に官邸に連絡し、官房長官の秘書官に伝わっていましたが、福田康夫官房長官は記者会見で「私は知らなかったが、あまり大げさに護衛するな」と述べました。

オペレーションに政治家が口出しをすべきではありません。テロの危険にさらされているアメリカの艦艇を日本の領海内で海上保安庁とともに自衛艦が警護することを現場で決めました。テロとの戦いではテロ対策特別措置法をつくって自衛艦がインド洋で米軍などの艦船に給油しました。貿易大国の日本は世界中の国々から守ってもらわなければならない立場にあり、支援するのは当然でした。

対米支援では、憲法9条で国際紛争を解決する手段として武力の行使ができないため、対応措置の実施は武力による威嚇または武力の行使に当たるものであってはならないとし、活動地域は非戦闘地域と認められる公海(排他的経済水域を含む)とその上空、外国の領域(当該国の同意がある場合に限る)としました。

非戦闘地域で後方支援ができるようテロ対策特別措置法を定め、自衛隊の輸送・補給等の協力支援活動、戦闘参加者の捜索救助活動、被災民救援活動の実施要項を防衛庁長官が定め、首相の承認を経て、命令を発出することにしました。協力支援活動では、テロ対策活動をしている軍隊に物品・役務・便宜を提供し、戦闘行為によって遭難した戦闘参加者の捜索・救助を実施できます。

――イージス艦の派遣が結局、見送られた経緯は

中谷氏:テロ対策特別措置法に基づいて定めた基本計画について最大で隊員1500人、艦船6隻、航空機8機とすることを決めました。当初、計画決定時に派遣するかどうか決めるはずだったイージス艦はアフガンの戦況が急進展し、タリバン政権が崩壊したことや自民党内で慎重論が根強いことから派遣を見送りました。

防衛庁や外務省は当初、広範囲のレーダー探索能力があるイージス艦の派遣を積極的に検討し、「補給活動を行う場合の自衛隊の船舶航行の安全性や活動海域が戦闘区域かどうかを調べるにはわが国独自で情報収集し、分析する機能が必要だ」として、高性能レーダーを保有し、指揮連絡ができる機能性と居住性の良い最新式のイージス艦の派遣するのは当然と考えていました。

しかし、自民党総務会で野中氏は「防衛庁長官がイージス艦を出すような発言をするのは誤りだ。現地の戦闘が終局に向かっている時になし崩しに進めるのは注意しなければならない」と批判し、山中貞則氏も「日本は戦争中の行為の反省に基づいて50年間腰を据えてやってきた。防衛庁はイージス艦を出すなどと調子に乗ってはいけない」とクギを刺しました。

山崎拓幹事長、古賀誠、加藤紘一元幹事長らが協議し、「イージス艦は飛んでくるミサイルを探知して撃ち落すもので、今はそういう局面ではない」とイージス艦派遣に慎重な対応を求められました。政府・与党内では、米艦船と情報を共有する高度のシステムがあり「活用すれば武力行使と一体化する」との議論や「補給・輸送目的の円滑な実施だけなら必要ない」などと、異論が相次ぎました。

ジェームズ・ケリー米国務次官補(東アジア・太平洋担当)はワシントン市内で記者会見し、日本政府がイージス艦のインド洋派遣を見送ったことについて「イージス艦はアメリカを支援する他の多くの国が提供できない機能であり、派遣は有益だったかもしれない。残念だ」と表明しました。しかし日本の対応について「湾岸戦争の当初と比べ明らかな違いがある。全体として非常に喜んでいる」と述べました。

この派遣は日本外交の存在感と影響力、日米同盟の実効性を示すため、人的貢献をアピールできる最高のカードとなりました。自衛隊にとっても冷戦後の新たな役割となり、外務省と防衛庁・自衛隊の指向のベクトルが重なったもので、日米同盟の信頼関係とその実効性が強化されました。6年の活動を通じて海上自衛隊の補給技術は極めて信頼性の高いものであることが確認されました。

――アフガン支援は復興支援と治安の回復が「車の両輪」でした。タリバン政権復活でどうなるのでしょう

中谷氏:アフガン復興で2人の名前を忘れてはいけません。

一人は国連難民高等弁務官やアフガン支援政府特別代表を務めた緒方貞子さん。東京でのアフガン復興支援会議の共同議長を務め、JICA理事長時代も含めアフガン支援に強い意欲を示しました。もう一人はNGO「ペシャワール会」の中村哲医師で「百の診療所より一本の用水路」という信念でペシャワール会を立ち上げ、大規模な灌漑施設を建設し、農業の収入安定のため、ひたすら農業基盤整備に努めました。

麻薬密売はタリバンの収入源であり、ケシの栽培をする人員が少なくなればタリバン兵を養えないことになります。日本の農業支援はタリバンの収入源を枯渇させると恨まれ、中村医師は暗殺されました。それでもペシャワール会は現在も現地スタッフが活動を続けています。

アフガンの復興発展のために、多くの人々が凶弾に倒れ、殺害されました。また、多くのアフガン人がリスクを顧みず、国連や国際活動に協力支援してくれました。多くのNGOは地道な支援を続け、対立する各派の橋渡しをしてくれました。現在、そのような方々が命を奪われる恐怖の中、国外に退避したいと日本政府の救援を待っているのです。

中谷元・元防衛相の略歴

1957年、高知市生まれ。防衛大学校を経て陸上自衛隊でレンジャー教官など。90年総選挙で初当選。防衛庁長官、自民党安全保障調査会長、防衛相兼安全保障法制担当大臣などを歴任。衆議院安全保障委員会、憲法審査会委員。自民党憲法改正推進本部 本部長特別補佐。

(つづく)