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コロナなんかに負けない 資本金4千円のビジネス哲学 ロンドンに大阪風お好み焼きを広げる「おかん」

木村正人在英国際ジャーナリスト
「大阪のお好み焼きを欧州中に広めたい」と夢を語る玄子さん(本人提供)

「お持ち帰りや出前サービスを考えないといけない」

[ロンドン発]イギリスが3月23日以降、続けてきた都市封鎖(ロックダウン)の解除に向け動き出しました。30ポンド(約4000円)を元手に大阪風お好み焼き店「おかん」をロンドンで4店も展開するようになったプリーストマン玄(もと)子さん(45)におうかがいしました。

10日夕、ボリス・ジョンソン英首相が国民向けにTVメッセージで段階的な出口戦略を発表しました。

(1)リモートワークで自宅勤務できない建設業や製造業の労働者はバス・地下鉄など公共交通機関を避け職場復帰

(2)13日から屋外での運動を1日1回に限定せず無制限に拡大

(3)早ければ6月1日に店や小学校を再開

(4)7月1日以降、レストラン、カフェ、公共スペースを再開

「こんなに早く解除の道筋が示されるとは思っていませんでした。うちの店は広さがないので安全距離を保ちながら座って食べてもらうことができません。テイクアウト(お持ち帰り)やデリバリー(出前)のサービスを考えないといけません」と玄子さん。

5月におかん1号店の10周年記念をしようと考えていた矢先に新型コロナウイルスのパンデミックに見舞われました。玄子さんには15歳と13歳の息子がいます。1号店のあるブリクストンで13歳の男の子が新型コロナウイルスに感染して亡くなりました。

「それまではどこか他人事のように感じていましたが、急にすごい恐怖感に襲われました」

イギリスでは都市封鎖に伴い、休業で従業員給与の8割を政府が肩代わり。小売事業者が申請すれば1週間以内にビジネスレート(商業用資産に対する固定資産税)に応じて1社当たり1万~2万5000ポンド(133万~330万円)の助成金が給付されます。

「助成金の給付がなかったら閉めるかどうか判断がつかなかったでしょう」と玄子さんは振り返ります。

300万円貯めてイギリスに語学留学

玄子さんがイギリスに語学留学したのは1998年9月、22歳の時でした。大阪市立の工芸高校とデザイン教育研究所を卒業後、NTTの電報受付業務をしながらパン屋、馬券のオペレーターなどのバイトを掛け持ちし、300万円を貯めました。

「21歳の時、ライオンズクラブの支援で3カ月間、オーストラリアにホームステイしたことがあるんです。旅行するのと暮らしてみるのとでは大違い。だから日本とは違うカルチャーのイギリスで1年間、英会話学校に行こうと決心しました」

スーツケース1つとリュックサック。移民規制が厳しい今と違って、当時は英会話学校の入学許可書と銀行の残高証明さえあればロンドン・ヒースロー空港で学生ビザを自分のパスポートに発行してもらえました。1ポンド=230円(今は130円)台の時代でした。

空港で会った日本人女性に滞在先のクラッパムノースへの行き方を尋ねると「もう暗くなるし、危ないわよ」と注意されました。ロンドンでもテムズ川の南側は危ないと言われていたからです。1890年開業の地下鉄ノーザンラインは車両や駅の床は全て木でできていました。

「南に行くとアフリカ系・カリブ海系の人が多くなり、猥雑な大阪の下町と同じように住んでみると人が気さくに話しかけてくれました。英会話学校でできたスペイン人やイタリア人の友だちをフラットに呼んで手作りの日本風料理をふるまうとみんな喜んで食べてくれました」

当時は学生ビザでも週20時間まで働くことができました。1日3時間、英会話学校で勉強して日本食レストランでアルバイト。次に貴金属の買い付けをして日本に輸出している日本人女性を手伝うようになりました。電話で取引相手の名前を聞き取れず、苦労しました。

学生ビザが切れるたび、英会話学校の入学許可書を取って出国しては入国し、空港でビザを更新。月130ポンドのシェアハウスに引っ越し。日本語を流暢に話す英国人女性が退去した後の部屋に入りました。この女性の弟が玄子さんと恋に落ちて夫になるセスさんです。

結婚式。中央が玄子さん、その左がセスさん(本人提供)
結婚式。中央が玄子さん、その左がセスさん(本人提供)

毎週金曜日の夜、近所の教会の下がジャズクラブとして公開されていました。当時は日本食と言っても寿司と天ぷらしか知らない人が多く、なすのおひたしやきんぴらを作って持っていくとみんな美味しそうに食べてくれたのです。「私にとって日本食は言葉と同じです」と玄子さん。

「あんたはじゃりン子チエや」

次はイーストエンドのブリックレーンの日曜市で「日本食を売りたい」と掛け合ってみたのです。狂牛病(BSE)の後遺症でベジタリアンブーム。オーガニックで美味しい匂いがする食べ物をと考え、玄米入りの焼きおにぎりと味噌汁を売ることにしました。

ブリックレーンの日曜市でお好み焼きをつくる玄子さん(本人提供)
ブリックレーンの日曜市でお好み焼きをつくる玄子さん(本人提供)

テーブルもなく、近くにあった古い机に布をかけて焼きおにぎりを並べました。元手は30ポンド。最初は30~50個のおにぎりを用意しましたが、ピーク時には3升を5回も炊いて握りました。メニューに照焼チキン、野菜コロッケ、お好み焼きを追加しました。

「大阪では子供の頃、“あんたはじゃりン子チエや。将来、焼き鳥屋にお嫁に行くな”と言われて育ちました。大都会のロンドンにはオポチュニティーが転がっています」

玄子さんは妊娠して中東陶磁器研究者のセスさんと結婚。学生ビザを卒業して永住者になりました。1年間、産休・育休を取ったあとブリックレーン・マーケットに復帰。

お好み焼きを1日最高300枚売り、マーケットで一、二を争う店子になりました。その頃から「大阪のお好み焼きを欧州中に広めたい」という夢を抱くようになりました。

息子2人を自宅出産し「根性が座った」という玄子さん(本人提供)
息子2人を自宅出産し「根性が座った」という玄子さん(本人提供)

セスさんの協力で子供2人を自宅出産し「根性が座って何も怖くなくなった」という玄子さん。久しぶりにセスさんと2人きりで映画館に出掛けました。商店街ブリクストン・ビレッジで評判のイタリア料理店を訪れ、アットホームな雰囲気に衝撃を受けました。

ブリクストン・ビレッジに開店した「おかん」1号店(本人提供)
ブリクストン・ビレッジに開店した「おかん」1号店(本人提供)

「昔ながらの雰囲気を残した商店街でお店をやりたい」。2010年5月、ブリクストン・ビレッジに開店した「おかん」1号店のお客さんは1日20~30人から始まり、300人にまで増えました。この10年で「おかん」はラーメン店も含めて4店にまで急成長を遂げました。

ブリックレーンの日曜市の店はその後、お好み焼きと焼きおにぎりの2本のみのメニューに絞って通算15年、2017年に幕を閉じました。

おかんのビジネス哲学とは

おかんのビジネス哲学をうかがってみました。

(1)廃棄ゼロ

「キャベツの芯やネギの根っこも無駄にしません。余り物はスタッフ用の食事にします。スタッフがみんな私に“これ捨てて良いですか”と一々聞いてくるほどでした」

(2)おかんのこだわり

「自分の子供に自信を持って出せるものしか出しません。おかんの味です。日曜市時代の屋号は“こいのぼり”でしたが、店を出した時、覚えてもらえやすい“おかん”に変えました」

玄子さんは若いスタッフのおかんのような存在だ(前列右から2人目、本人提供)
玄子さんは若いスタッフのおかんのような存在だ(前列右から2人目、本人提供)

「おかんは大阪のスラング(俗語)で下町のブリクストンにぴったり。若いスタッフにとって私はおかんのような存在。作りたいと言う子にだけ料理の仕方を教えています」

(3)行列のできる店

「お好みを焼くのには時間がかかります。お客さんを少し待たせた方が、人が人を呼ぶようになります。日曜市をやっている時、並ばせるのも手やなと気づきました」

(4)キャッシュフロー経営に徹する

「現金商売で、これまで赤字になったことは一度もありません」

(5)キッチンは舞台

「お好み焼き屋はキッチンが舞台です。スタッフの数を絞るとバタバタして活気が出てきます」

(6)最高のビジネスモデル

「ニューヨークでラーメン店を経営するコンサルタントの方に“リスクなしの無借金経営。お客さんに並ばせて数をこなし、喜んで帰ってもらえる。ビジネスとして最高のものを作りだしている”と褒められたことがあります」

ロンドンのおかんは「コロナなんかには絶対に負けません」と決意を新たにしています。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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