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3・11 新型コロナで漂流するクルーズ船で「祈りと希望」を奏でた日本人ピアニスト

木村正人在英国際ジャーナリスト
入港を拒否され、さまようクルーズ船「ブレーマー」(平井元喜さん提供)

旗国からも入港を拒否される

[ロンドン発]西カリブ海・中米クルーズ14泊の旅に出かけた英フレッド・オルセン・クルーズラインのクルーズ船「ブレーマー」で乗員乗客5人の新型コロナウイルス感染が確認されたため、バルバドスに続いて旗国のバハマでも入港を拒否され、立ち往生しています。

ニューヨークのカーネギー・ホールで演奏する平井さん(2011年、本人提供)
ニューヨークのカーネギー・ホールで演奏する平井さん(2011年、本人提供)

ロンドンを拠点に世界的に活躍するピアニスト、平井元喜(ひらい・もとき)さん(47)も船上演奏会のためドミニカ共和国経由でセント・マーチン島からブレーマー号に乗り込みました。乗客682人はイギリス人がほとんどで、乗員は381人。日本人は平井さん1人です。

ブレーマー号は今、バハマ北岸沖46キロメートル。「最大で10日間かけてカリブ海から大西洋を横断して英イングランド南部のサウサンプトン港に戻るしかないかもしれませんね」

「何人部屋から出られなくなっているか分かりません。長旅になるのでみんなの気持ちが沈むのを避けるため、もう一度ピアノリサイタルを開けないか考えています」

「みんなに演奏会場に集まってもらうのが無理になったので無人のホールで演奏して船内テレビで中継してもらい、元気付けることができればと思っています」

平井さんは船内電話で話してくれました。2月27日にロンドンからカリブ海に飛んだ平井さんは当初、ドミニカ共和国ですぐに乗船するはずでしたが、船にはインフルエンザ様の症状が見られる人が5~6人もいたため入港を拒否され、3日間待たされた後、急遽セント・マーチン島に変更になったそうです。

「私はゲスト・アーティストという乗員と乗客の間の立場。『ダイヤモンド・プリンセス』の顛末(てんまつ)を知っていたので覚悟しました。しかしロンドンの空港で船内に風邪やインフルエンザ様の症状の人がいると知らされていたら参加していなかったでしょうね」

乗員乗客は下船できず

まずブレーマー号の出来事を見ておきましょう。

ブレーマー号の風景(平井さん提供)
ブレーマー号の風景(平井さん提供)

2月25日~3月1日、ブレーマー号はカリブ海のセント・マーチン島フィリップスバーグに停泊

3月2日未明、平井さんら乗客約600人が乗船

3月4日、ジャマイカ・キングストン着

3月6日、コスタリカ・プエルト・リモン着

3月7日、パナマ・コロン着

3月8日、すでに下船してイギリスへ帰国していた乗客2人の感染を確認。コロンビア・カルタヘナ着

3月9日、ビュッフェ制限。消毒と清掃を強化。インフルエンザ様の症状で医療センターを訪れた5人の隔離を始める

3月10日、キュラソー島ウィレムスタットに入港するも乗員乗客とも上陸を認められず。隔離は6人に。予備検査の結果、一部陽性反応。オランダの実験室で本検査へ。船は予定通りバルバドスに向かう

3月11日、乗客1人と乗員4人の感染を確認。もう1人の乗客は判別がつかず、別の乗客1人は陰性

3月12日、旅程を変更。この日バルバドスでクルーズは終わる予定だったが、入港が危ぶまれるため行き先を旗国のバハマに変更

・乗客はどのテーブルに座るのも自由に。乗員乗客間の距離をできるだけ取り、気分が悪くなったら自室に戻り医療センターに電話するよう指示される。Wi-Fi、電話、ドリンクも無料に

船内の様子(平井さん提供)
船内の様子(平井さん提供)

3月13日、物資と医薬品の補給が認められたバハマに向かう

・英政府の「70歳以上または持病のある人はクルーズの旅に出かけないように」という勧告を受け、フレッド・オルセン・クルーズ・ラインズは自発的に5月22日までクルーズの出港を見合わせる

・新型コロナウイルスの流行で乗客や乗員の安全を保証することが次第に難しくなっていると表明。将来クルーズに参加するなら今回のクルーズ代金の125%に相当するバウチャーを提供する方針を示す

3月14日、バハマ沖に到着するも乗員乗客の上陸は拒否される。食料や燃料、医薬品やその他の物資を補給。応援の医師と看護師が乗船

東北の思いを込めてピアノを演奏

「すでにイギリスに帰国した乗客2人が感染していたと3月8日に知らされた時、覚悟は確信に変わりました。3日と5日の演奏会が終わり、東日本大震災があった11日に3回目の演奏会を開くことになりました。その日は私の誕生日。ずっと被災地を励ます活動を続けてきたので東北への思いも込めて弾きました」

平井さんの演目はモーツァルトのソナタ、リスト、ショパンの乙女の願い、ベートーベン、グラナドスと、そして震災直後に作曲し、被災地の宮城県七ヶ浜町などで弾いたことがある自作の『Grace and Hope~祈り、そして希望~』(2011)。

『Grace and Hope』は近年、平和への祈りの歌として演奏されています。

「3月10日は祖父母や父から聞かされていた東京大空襲の日。乗客のほとんどが当時、日本と戦ったイギリスの人なので心の平和と、乗員乗客が無事帰ることができますようにという願いを込めました。乗客から見れば私は乗員の側の人間なので“何か知っている”と思っています。だからこそ不安を感じさせないように常に明るくポジティブに振る舞うよう努めています」

「お前のおかげで日本人のことを初めて好きになったぞ」

平井さんは11日のフェイスブックにこう投稿しています。「中には90歳を超えるカップルもいらっしゃいます。みな驚くほど落ち着いていて和やかなムードですが、正式な発表があってからは不安を隠せないお年寄りも中にはいます」

「今まさに免疫力を高める“笑顔”、そして言葉や会話を使わずに、心と心をつなぐ“音楽”の力がモノを言う時であり、こういう時に誕生日を迎えるのはやはり宿命であり、これが私の使命なんだと思います」。そして演奏会終了後に話しかけてきたイギリス人の男性とのささやかな和解についても綴っています。

ブレーマー号の乗客。笑顔が免疫力を高める(平井さん提供)
ブレーマー号の乗客。笑顔が免疫力を高める(平井さん提供)

「70歳過ぎのがっちりした強面のイギリス人男性が、真面目な顔で強く僕の手を握ったまま話し始めました。自分の父親は戦時中、日本軍の捕虜になり酷い扱いを受け、痩せてガリガリになって英国に戻ってきた。だから日本人への憎しみは強烈で、数年前に死ぬまで日本人を怨んでいた」

「自分はそれをずっと聞いて育ったから、その遺伝子を完全に受け継いでいる。妻の勧めを前回は断ったけど、今回は友人にも誘われたから断れなくて嫌々聴きに来た。でも、お前の演奏を聴いて妻の言うことがよく分かったし、お前のおかげで日本人のことを初めて好きになったぞ」

この老人は最後に平井さんにウインクして微笑んでくれました。また89歳の英国人男性は「13歳の時、ドイツ軍の戦闘機が家の屋根のすぐ上を飛んで行った。手を振ると操縦士も応えてくれたが、その後すぐに撃墜された」と思い出話を聞かせてくれました。

ドイツ人戦闘機乗りの話をしてくれた英国人男性(真ん中が平井さん、本人提供)
ドイツ人戦闘機乗りの話をしてくれた英国人男性(真ん中が平井さん、本人提供)

ブレーマー号の行き先はまだ決まっていませんが、平井さんはこう話します。

「自分は弱い人間なので弱音や愚痴(ぐち)を言うと崩れてしまいそうなので、そんな時に笑顔で話しかけてくれる人がいると、自分も自然に笑顔になる。相手の顔が鏡に映った自分の顔のように見えるんです。だからこそ、自分はいつも強くいないといけない。この船のコミュニティーを守らないといけないから、音楽の力と笑顔でそれを守りたいと思うんです」

新型コロナウイルスに対してどう振る舞うのか、私たち一人ひとりが問われる状況がもうすぐそこまで迫ってきています。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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