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新型肺炎「日本は感染症と公衆衛生のリテラシーを高めよう」免疫学の大家がPCR論争に苦言

木村正人在英国際ジャーナリスト
新型コロナウイルスで公演中止や休校の動きが広がっている(写真:アフロ)

[ロンドン発]風邪を引いたら自宅で療養するのが当たり前、かかりつけ医(GP)に行っても抗生物質なんて絶対に処方してくれない公衆衛生の故国イギリスから日本の新型コロナウイルスを巡るドタバタぶりを見ていると驚かされます。

英首相官邸筋に「新型コロナウイルス対策を教えて」「ロンドンに東京五輪を代替開催する準備はあるの」「イタリア便はどうするの」と尋ねても「科学や医学に従って計画を実行に移すだけで政治や官僚がうんぬんする余地はない」という答えが返ってきます。

一方、日本では新型コロナウイルスを検出できる唯一の検査法であるPCR検査を巡って不毛な論争が起きています。そこで免疫学の第一人者である大阪大学免疫学フロンティア研究センターの宮坂昌之招へい教授にテレビ電話でお話を伺いました。

宮坂昌之氏(本人提供)
宮坂昌之氏(本人提供)

――日本国内の感染状況を把握するためPCR検査をもっと拡大しろと声高に主張する人がいます

「インフルエンザには迅速診断キットがある。ウイルスを増幅する必要もなく5分か10分で答えが出る。一方、PCR検査は何時間もかかり、その割に偽陽性も偽陰性も出る」

「なぜ手間がかかるかというと、コロナウイルスの場合は喉(のど)のぬぐい液、痰(たん)からRNA(リボ核酸)を抽出しなければならない。日本ではこれをロボットでできるところは少ない」

「ぬぐい液や痰から抽出したRNAを増幅して何度も何度もサイクルを回した上で陽性シグナルを探す。陽性シグナルがあってもそれがウイルスの遺伝子かどうかは塩基配列まで見ないと最終確認までつかない。そしてこの手技にはある程度の熟練が必要」

「それに、感染材料が入ってくるので部屋も機器も全部コロナウイルス専用にしか使えなくなる。また、やろうと思っても人材の問題がある。感染材料が入ってくるわけだから感染に関する手技を十分に出来る人が必要。でも実際はそれは少ない」

「国立感染症研究所(感染研)はそういう仕事をある程度は行うが、基本はウイルスや微生物の研究所であってアメリカのCDC(疾病予防管理センター)のような機能はほんの一部。検査機関としては十分なキャパシティー(処理能力)がない」

――PCR検査はどんな問題を抱えているのでしょう

「別のコロナウイルスの感染が原因のSARS(重症急性呼吸器症候群)や中東呼吸器症候群(MERS)の時にも散々、問題になったが、PCR検査の感度が不十分。陰性だと思ったら実は陽性だった、陽性だと思ったら陰性だったということがかなりあった」

「陽性と出ればほぼ陽性という確率が高いが、陰性と出た時には本当に陽性ではないという証明にはならないという大きな問題がある。それはなぜかというと喉や痰の中にウイルスが見つからないが、他の体のどこかに隠れている場合が常にあるからだ」

「新型コロナウイルスの感染細胞の主なものは肺の中の2型上皮細胞という非常に奥の方にある、しかもそんなに数がたくさんある細胞ではない。そこにウイルスがたくさんいても必ずしも喉にいるとは限らない」

「ただ、不思議なのは感染細胞の主なものは2型上皮細胞であることが分かっているにもかかわらず、人にうつすという感染性がこのウイルスは非常に高い。だから喉のどこかにはウイルスがいるとは思うのだが」

「喉の上皮細胞をとってもウイルスのレセプター(受容体、ACE2)を発現する細胞が非常に少ない。どうして喉にウイルスがいられるのかあまりよく分かっていない。主なウイルスの貯蔵庫は肺の中。しかし現場でのサンプル採取の場合、実際は主に喉のぬぐい液しかとれない」

「鼻からサンプルをとる方法もあるが、とったらくしゃみをされて医者に感染リスクが生じる。気道下部の細胞も病院ならカテーテルを入れてとることができるが、手技的に大変で、しかも看護師も医者も汚染される可能性がある」

「ということで、実際は喉のぬぐい液しか簡単にとれない。痰が出るケースは比較的少ない。新型コロナウイルスの感染の場合には空咳が出て、痰は必ずしも出ない。痰が出るのは30%か40%ぐらい。サンプルを喉のぬぐい液に頼らざるを得ないので、PCR検査が陽性になる確率がどうしても下がってしまう」

――日本のテレビではクリニックの院長が出演してPCR検査を自由にできるようにして欲しいと話しています

「PCR検査は手間がかかる、お金がかかる。さらに検査を受けるとしたら開業医や病院で受けなければならない。そこに感染者が集まったら、クルーズ船『ダイヤモンド・プリンセス』で起こったようなことが今度は開業医や病院の待合室で起きる」

「テレビでもクリニックの院長が出てきて自分のところでは感染しそうな患者とそうでない患者の導線を分けて別々の部屋で検査をしていると説明している。そんなことはどこでもできるわけではない」

「開業医のところに患者がPCR検査をしてほしいと来たらどうなるのか。クリニック全体が汚染される可能性がある。日本は感染症リテラシーを育てていく必要がある」

――PCR検査にはお金がかかるとのことですが

「開業医や病院がこの検査を自由に発注するようになると一つ1万円ぐらいかかる。インフルエンザの場合、年間多い時には患者が2000万人ぐらい出る。PCR検査をやったら年間1億検体を超える。1億検体×1万円=1兆円。医者は儲かるからどんどん検査を出す」

「コロナ疑いと書けばいくらでも出せる。医者はイエス、ノーが言えるから是非やりたい。患者もイエスかノーか言ってもらった方が家で単に休みなさいと言われるより心理的には楽になる」

「私も、もっと件数をできた方が良いと思う。重症の患者でも今までは湖北省由来でないとか、いっぱい縛りがあったために検査をしてもらえないケースがいくつもあった。厚労省がそういう設定をしたからだ」

「開業医がフルに検査にかけたら、えらいことになるぞという思慮が一つ。そして日本は皆さん心配症。イギリスでは風邪なら来るなというのは日本では通用しない」

「日本でPCR検査が開業医や病院でできるとなったらおじいちゃん、おばあちゃんはじめ一家でやってくることになりかねない。証明書をもらいにね。でもこの検査で証明書なんか出せるわけがない。不確定性が高い検査なんだから、その時に陰性でもウイルス陰性にはならない」

「日本には隔離する病棟が1000とか2000のオーダーしかない。総合的な判断で厚労省はPCR検査を限っているという方策をとったという可能性も一部にはあると思う」

――PCR検査のキャパシティーについて日本の1日3800件というのをどう評価しますか

「やむを得ないと思う。マイクロプレート1個96検体しかできない。PCR検査の機器が10台あれば960検体できるが、それを動かす人、ロボットが必要になる。しかも感染性検体を扱う技術をもった人でないといけない」

「コロナウイルス用に使ったら他の検査には使えないので感染研でそんなことをしたら他の検査ができなくなってしまう。民間会社で検査をやりますと手を上げるところがどれだけあるだろうか。自分が感染するかもしれないわけだから」

「感染性のあるサンプルでRNAを抽出するという一つ余計な作業が加わると普通の研究室なら1日100件できて精一杯。それが感染研で数百、民間会社を合わせて1日3800件という数が出てきたのだろう。ただし、頑張ればそれを1万件にすることはできなくないと思う」

「しかし民間会社をどうやって説得するのか。民間会社もお金が来ると分かっていなければやらない。今度、保険適用の対象にすると言ったのは民間会社のためであろう。そうしないと絶対にやってくれない」

「PCR検査は誰もができるわけではない。トレーニングをしないといけない。偽陰性や偽陽性を出したら社会的な影響が出る。品質保証ができる場所でないとこの検査はできない。都道府県の衛生研究所に頼んだら技術的な問題だけでなく、感染の恐れがあるので誰でも引き受けてくれるというわけではないだろう」

「間違ったらいけないし、感染するかもしれない。日本政府はなぜ3800件しかできないかをもっと分かりやすく説明したら良いのではないかと思うが、厚労省も言えないことがあると思う。一方、それが日本の感染者数を少なく見せるための謀略であるということを言う人がいるようだが、そんなわけがない。現状ではもろもろのことが飽和状態というのが悲しい現実だ」

「もう一つ大きな問題はこの試薬がどこから来ているかだ。日本のタカラバイオは当初はPCR試薬の多くを中国の大連で作っていた。ところが中国での大流行で大連から来るのがゼロになった。今は日本での生産に切り替えているようだが、当初の試薬の配給にはそういうネックがあった」

――韓国では1日にPCR検査を1万3000件行ったと報道されています

「韓国が1日に1万以上の検体をこなせるのは医療関係のベンチャービジネスが非常に多いから。日本よりはるかに多い。PCR検査の機器をいっぱい持っている。韓国の医者はすぐにそういうところにサンプルを出す」

「韓国は普段から検査件数が物凄く多い。今回も1日に1万以上の検体を検査したというのを聞いてなるほどと思った。日本ではこれまでPCR検査に関してはそういう体制はなかった」

「日本のベンチャーや検査会社は小ぶりでその用意があるところは少ないと思う。ソウルには医療関係のベンチャーが大学のそばに山のようにある」

「日本のベンチャーは大学とちょっとつながっているか、大学を外れた人がやっているぐらいで、お金儲けの道具にはなかなかならない。日本はアメリカや韓国のようにベンチャーが育ちやすい環境ではない」

――後知恵で結構ですのでクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の集団感染をどう見ておられますか

「政府が乗員乗客3711人を船内で隔離しなければならなかった一番の理由は、日本国内にそれだけの人を収容できる施設がなかったからだ。素人考えでは船室に隔離しておけば安全だろうということだったが、夫婦や家族で入っていたり窓のない部屋があったり。空調も全部つながっている。また人々の導線が複雑に絡み合っていて、とても感染者を隔離できる環境ではなかった」

「あとから考えてみたら濃厚感染が起こり得る密閉空間だった。中国から医療関係者の感染が物凄く多いというニュースが入ってきた。なぜゴーグルや防護服、N95のマスクも着用している彼らが高頻度に感染したのかを考えると、飛沫感染以外の接触感染が起こっていたということだ」

「防護服を来たままトイレに行く、ご飯を食べる時にマスクを外す、いろいろな所に触る。防護服を着用していても隙間があって中に入ってしまう。手袋をはめていてもカルテを書く時にカルテが汚れる、ペンが汚れる。訓練を受けていた医療関係者でもあれだけの高率で感染したのはそういうことだ」

「そのニュースを見たとたん『ダイヤモンド・プリンセス』もまずいぞと思った。でも隔離を始めてしまったのでどうしようもない。決して政府のやり方を擁護するわけではないが、ベストの解決法はなかったと思う」

「唯一あったとすればオーストラリアのやっているようにクリスマス島のような孤島に隔離するしかなかった。しかし日本はそのような設備を持っていなかった」

――コレラが流行した時代には患者が出た船は沖で隔離されました。その時の経験は残っているのでしょうか

「コレラ船の時代の経験はほとんど残っていない。私は1973年に京都大学の医学部を卒業したが、コレラのことはほとんど習わなかった。今の役人でもご存知の方は皆無だと思う」

――感染症対策の経験の空白にグローバリゼーションやクルーズ船の超大型化という新しい問題が加わったことが問題を大きくしてしまったのでしょうか

「世界的にはSARSがありMERSがありわれわれは生命にかかわるような感染拡大の経験はしていたのだが、喉元過ぎれば熱さ忘れるということ。日本にしてみればSARSはいわば他国のことであったわけで、大変な事件として当時は理解していたはずだが、その時の役人は厚労省にはいない。厚労省の役人は2年か3年で異動する」

「日本にはアメリカのCDCに相当するものはない。感染研がその一部を担っているが、研究者のほとんどはウイルスや細菌の基礎的な研究をしている」

「これは公衆衛生の問題、危機管理の問題、政治的な問題、経済的な問題も含めての話だが、感染研にはそれを専門とする人は少ししかいない」

「制度上の日本の弱みがある中でこの事件が起きた。欧州の場合、SARS、MERSはよその問題だったのかもしれないが、おそらくはその教訓を覚えていたのだろう。驚くのはイタリアにしても欧州各国は町の閉鎖など非常にタイトな施策を打ち出しているという気はする」

――イギリスでは感染症対策は確立しています

「公衆衛生の概念が最も進んでいたのは当初からイギリス。今でもアメリカとイギリスは進んでいて公衆衛生の本物の専門家がいる。大学だけではなくて政府の機関にもいるし、医学の中の非常に重要な分野だ」

「日本は公衆衛生の分野が手薄。感染症の方はウイルスか細菌の研究をして教授になった方で、感染症の公衆衛生の研究で教授になった人はまずいないと思う。専門家会議にはウイルスや細菌感染の専門家、内科の人ぐらいは行くが、公衆衛生の専門家が手薄」

「日本ではワクチンの副作用を審査する予防接種・ワクチン分科会が厚労省の中にあるが、ここにも感染症のことを良く知る公衆衛生の人はほとんどいない。こういう人選をするのは政府の役人。役人が自分たちの意見を聞いてくれる人を選ぶから政府のやり方に一言ある人は呼ばれない」

「公衆衛生の専門家が少ない上に、官僚制度の弊害があり、自分たちの意見を聞いてくれる人しか呼ばない。公平にやらなければいけないというので法律の人やらマスコミの人が入るが、こういう人たちは専門家ではないので抑止力にならない」

「厚労相にレクチャーしているのは誰かというのが問題だが、それが分からない。日本は公衆衛生の人材を育てる場所も少ないし、実際に活躍できる場所も非常に少なくなっている」

――日本では「白衣の天使」として知られるフローレンス・ナイチンゲール(1820~1910年)は統計に基づく医療衛生改革で有名です。英インペリアル・カレッジ・ロンドンは新型コロナウイルスの感染について数理モデルを使って予測を出しています

「日本では感染症にかかわる公衆衛生をご存知の方は非常に少ない。ましてや統計学的手法で感染が今後どれぐらい拡大していくのかとか、どの程度で終息するのかとか非常に重要なポイントだが、日本でそれができる人というのは本当に少ない」

「日本は1918年のスペイン風邪の時にたくさんの人が死んだ。ところが日本の医学が当時は十分に成熟していなかった。あの時にどういうことがあったのかということは私たちも全く習っていないし、感染症の歴史というのは日本ではほとんど役立てられていないと思う」

宮坂昌之氏

1947年長野県生まれ、京都大学医学部卒業、オーストラリア国立大学博士課程修了、スイス・バーゼル免疫学研究所、東京都臨床医学総合研究所、1994年大阪大学医学部バイオメディカル教育研究センター臓器制御学研究部教授、医学系研究科教授、生命機能研究科兼任教授、免疫学フロンティア研究センター兼任教授。2007~08年日本免疫学会長。現在は免疫学フロンティア研究センター招へい教授。新著『免疫力を強くする 最新科学が語るワクチンと免疫のしくみ』(講談社)。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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