元二重スパイ暗殺未遂事件で英政府が露容疑者2人引き渡し要請へ 英露関係は悪化も、米独仏はロシアに接近

化学防護服を着てソールズベリーの墓地を洗浄する係官(今年3月、筆者撮影)

一般市民2人も巻き添え

[ロンドン発]英イングランド南西部ソールズベリーでロシアの元二重スパイと娘が旧ソ連で開発・製造された兵器級の神経剤(神経伝達を阻害する作用を持つ化合物の総称)ノビチョクで暗殺されそうになった事件で、英政府はロシア政府に対し、特定した容疑者2人の引き渡しを求める方針だそうです。

英メディアが一斉に報じました。

3月4日、ソールズベリーの公園で、元二重スパイのロシア人男性セルゲイ・スクリパリ氏(67)と娘のユリアさん(33)が意識不明の重体で見つかり、ロンドン警視庁は神経剤ノビチョクがスクリパリ氏宅玄関に塗りつけられていたと断定。防犯カメラ(CCTV)や出入国管理記録を入念に調べた結果、容疑者2人を特定しました。

スクリパリ氏とユリアさんは回復して退院。しかし6月末になって、ソールズベリーで拾ったノビチョク入りの香水瓶を手首にふりかけた英南部エームズベリーの英国人女性ドーン・スタージェスさん(44)が死亡。英国人男性チャーリー・ロウリーさん(45)も一時、重体になるなど、一般市民にも被害が広がりました。

テリーザ・メイ英首相は外交ルートを通じてロシア政府に容疑者の引き渡しを求めるとみられています。こうした場合、ロシア憲法はロシア人を外国に引き渡すことを禁止しています。ウラジーミル・プーチン露大統領が英政府の引き渡し要請を受け入れることはなく、冷戦後、最悪の状態に陥っている英露関係がさらに悪化するのは必至です。

裏切り者は罪の重さで自壊する豚野郎

元ロシア連邦保安庁(FSB)幹部アレクサンダー・リトビネンコ氏(当時43歳)が2006年、ロンドンで放射性物質ポロニウム210により暗殺された事件で、ロンドン警視庁はメイフェアのホテルでリトビネンコ氏と会っていた旧ソ連国家保安委員会(KGB)元職員アンドレイ・ルゴボイとドミトリ・コフトゥンの容疑者2人を特定。

これを受け、英政府はロシアに引き渡しを要請しましたが、拒否されています。事件の公聴会(公開調査)は、ルゴボイとコフトゥン両容疑者がFSBに指示されたのはほぼ間違いないと断定、「おそらくプーチン大統領やニコライ・パトルシェフFSB長官(当時)は承認していた」と指摘しました。

ロシアNIS調査月報に掲載された共同通信の小熊宏尚記者のエッセイ「裏切り者の街角@英国」によると、スロバキア人が19世紀に書いた汎スラブ主義をたたえる歌「スラブ人よ」の旧ソ連・ユーゴスラビア・バージョンは「裏切らんとする者は、呪われんことを!」という歌詞で締めくくられています。

そしてプーチン氏自身、こんな言葉を残しているそうです。

「スターリン時代は裏切り者を消す特殊部局があったが、ロシアの特務機関はそんな手法は用いない。なぜなら裏切り者は罪の重さで自壊する『豚野郎』だから」(10年12月の首相時代)。「裏切り者は酒や麻薬におぼれて死んだり、路上で野垂れ死んだり、ろくな死に方をしないのが世の常だ」(同年7月)

西側諸国の本音と建前

ソールズベリー事件を受け、英国はロシア外交官23人を追放。米国の60人を含む西側諸国計28カ国と北大西洋条約機構(NATO)が計150人以上のロシア外交官を国外退去処分にしました。しかし、安倍晋三首相がプーチン大統領と親しい日本はこの隊列には加わりませんでした。

ドナルド・トランプ米大統領は3月のロシア大統領選で再選を果たしたプーチン大統領に祝福の電話を入れ、先進7カ国(G7)首脳会議へのロシアの復帰を提唱。ヘルシンキで米露首脳会談を開き、プーチン大統領を秋にワシントンに招待するとまで言い出しました。さすがに支持層からも批判され、プーチン大統領への訪米要請は来年に延期しました。

サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会で20年ぶり2度目の優勝を果たしたフランスのエマニュエル・マクロン大統領は準決勝と決勝の応援に駆けつけ、大統領としては前代未聞のガッツポーズを世界に向けて発信しました。マクロン大統領は、イスラム過激派によるテロや難民問題で揺らぐ国民の統合をアピールする絶好の舞台をプーチン大統領にお膳立てしてもらったかたちです。

プーチン大統領の外交術は相当なもので、バルト海経由でロシアとドイツを結ぶロシア国営企業ガスプロムの新たなパイプライン「ノルド・ストリーム2」(全長1200キロメートル)が来年後半の操業開始を目指して建設中です。石油・天然ガスという資源を持ち、武力行使をためらわないプーチン大統領は西側諸国にとって軽んずることができない存在です。

ノルド・ストリーム2(ガスプロムのHPより)
ノルド・ストリーム2(ガスプロムのHPより)

対ロシア関係を悪化させる英国と同調する西側諸国が果たしてどれぐらいいるのでしょうか。

支持率が急落するプーチン大統領

ウクライナのクリミア併合でプーチン大統領の支持指標(支持率から不支持率を引いた数値、国営世論調査会社WCIOM)は一時70%ポイント近くに達しますが、国民は「プーチノクラシー」と呼ばれる腐敗と癒着構造に嫌気が差し、さらにW杯開幕に合わせた年金制度改革の支給開始年齢引き上げで30%ポイント台前半まで急落しています。

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プーチン大統領にとって英国は手頃な「外敵」です。欧州連合(EU)から離脱していく英国はロシアにとって取るに足らない相手です。英政府がソールズベリー事件で容疑者2人の引き渡しを要請してくれば対抗することで国民の目を少しでも不人気な年金制度改革からそらすことができます。

まさにプーチン大統領の思う壺ですが、EU離脱交渉で求心力を失うメイ首相にとってもソールズベリー事件は毅然としたリーダーシップを示すまたとない機会なのです。

情報機関・軍出身者の「シロビキ」に権力基盤を持つプーチン大統領は当初、天然資源の国家統制を強めるとともに、ドミートリー・メドベージェフ首相に象徴される経済改革派「シビリキ」の力を借りて構造改革を進めようとしました。

しかし権力基盤を強化するため「シロビキ」との関係を重視。今は年金制度改革の責任をメドベージェフ首相に押し付けて「シビリキ」の弱体化を図ろうとしているようにうかがえます。

プーチン大統領にとって最も重要なのは自らの「サバイバル」です。そのためには「シロビキ」の支持をつなぎとめることが不可欠です。冷戦時代を彷彿(ほうふつ)とさせる英国とのスパイ戦争は「シロビキ」のKGBメンタリティーを呼び起こす引き金になっているようです。

【主な出来事】

04年3月 プーチン大統領が再選

06年11月 リトビネンコ事件

07年2月 プーチン大統領がミュンヘン安全保障会議で「アメリカが世界の安定を損なっている」と批判

08年3月 メドベージェフ大統領誕生。プーチンは首相に

08年8月 南オセチア紛争勃発

12年3月 プーチン大統領が返り咲き(通算3期目)

14年2月 ウクライナ危機勃発

15年9月 ロシアがシリア空爆

18年3月 スクリパリ事件、プーチン大統領が再選(通算4期目)

(おわり)