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研究不正大国ニッポン 山中伸弥先生の京大iPS細胞研究所でも 助教「論文の見栄えを良くしたかった」

木村正人在英国際ジャーナリスト
京大iPS細胞研究所の山中伸弥所長(写真:つのだよしお/アフロ)

企業でも、大学でも相次ぐ不正

[ロンドン発]世界最先端の研究を進める京大iPS細胞研究所(山中伸弥所長)でも信じたくない、いや信じられないようなお粗末な研究不正が起きてしまいました。iPS細胞の研究でノーベル生理学・医学賞に輝き、余人をもっては代えがたい山中所長の辞任はあるのでしょうか。

東芝の不正会計、神戸製鋼所や三菱マテリアル子会社の品質データ改ざん、東レ子会社の製品データ改ざん、日産自動車の車両完成検査不正と日本に対する信頼が大きく揺らいでいます。理化学研究所の研究員だった小保方晴子さんによるSTAP細胞事件をきっかけに日本には「研究不正大国」のレッテルがはられています。

理研、東大に続いて、京大iPS細胞研究所でも研究不正とは、日本の研究者倫理も地に落ちたものです。山中所長や京大の発表資料によると、不正が見つかった論文はiPS細胞研究所の助教が筆頭著者となり、昨年2月に米科学誌ステム・セル・リポーツに発表されました。iPS細胞から脳の血管内皮細胞を作り出すことに成功したという内容でした。

論文の信憑性(しんぴょうせい)に疑義があるとの情報が寄せられたため、実験の測定値をもとに再構成したところ論文通りのグラフを再現できませんでした。捏造や改ざんが論文の根幹部分で行われていたとして論文を撤回する方針です。

生命科学は「ゴムひもで長さを測る世界」?

2013年、世界的に権威のあるネイチャー誌に3研究機関が生命科学の注目論文を追試したところ、50~89%の実験結果は再現できなかったという衝撃的なニュースが掲載されました。生命科学は動物・ヒトや細胞を実験材料にするため、「(伸び縮みする)ゴムひもで長さを測る世界」(成戸昌信・東レ経営研究所特別研究員)と言う人もいます。

実験結果にばらつきが出るということです。それにしても論文の主要な6つのグラフすべてと、6つの補足図のうち5つを実験の測定値から再現したところ、論文のグラフとは著しく異なる結果が出たというのには驚きました。

共著者が10人もいて全く気付かなかったのでしょうか。助教という主導的立場の人が不正を働いていたため、チェックできなかったのでしょうか。

山中所長と京大は「測定結果の解析や図の作成は全て助教が担当し共著者は関与していない」「いずれの共著者にも助教による数値への操作を予見することは困難」として共著者の関与はなかったと判断しています。研究不正を認めた助教は「論文の見栄えをよくしたかった」と話しているそうです。

iPS 細胞研究所では(1)知財グループによる実験ノートの定期チェック(2)論文データ提出のルール化(3)相談室設置といった対策を導入していました。

今回の研究不正を受け(1)実験ノート提出率を100%にして、知財グループに加えて主任研究者が複層的に確認(2)論文データの形式を指定し、図表の信憑性を裏付けるデータを提出させる(3)実験ノートの書き方やデータ保管方法について全研究者に指導するそうです。

撤回論文数ワースト30に日本人5人

研究不正に詳しい日本学術振興会学術システム研究センター顧問の黒木登志夫・東大名誉教授の「週刊医学界新聞」でのインタービュー記事を読むと、研究不正の悲しい背景が浮かび上がってきます。

「撤回論文数の多い研究者ワースト10に2人、ワースト30に5人もの日本人が入っています。国別の論文撤回率においても、日本は5位。STAP細胞事件とディオバン事件という二つの大きな研究不正により、日本は研究不正の『量』だけでなく『質』においても世界から注目を集める国になってしまいました」

(注)ディオバン事件 高血圧の治療薬の臨床研究に製薬会社の社員が関与し、販売促進に利用された論文が撤回された。関与した5大学に計11億円以上の奨学寄附金が製薬会社から提供されていた。

「日本では 21 世紀に入るまで目立った研究不正はほとんどありませんでしたが、21世紀以降急速に増え始めました。2004年の国立大学の法人化の前あたりから、大学の財政が苦しくなったことが背景の一つにあるように思います」

研究不正の背景には、野心、功名心、金銭欲、傲慢、誠実さの欠如という人間の性が横たわると黒木氏は指摘しています。競争的資金を獲得しなければならないというプレッシャーから研究不正に手を染めていたとしたら、iPS細胞研究所の助教も悲しき犠牲者なのかもしれません。

1990年代、日本政府はそれまでの3倍に相当する「ポスドク1万人計画」を立て、博士号取得者を大量生産しました。ネイチャー誌によると「2010年に自然科学系博士号を取得した1350人のうち、卒業時までに常勤職への就職が決まったのは、全体の半数をやや超える程度(746人)にとどまった」そうです。

山中先生の思い出

筆者が山中所長とiPS細胞について初めて知ったのは2007年11月17日、土曜の朝(ロンドン時間)のことでした。少し寝坊したのであわてて各紙の記事をネットでチェックすると、デーリー・テレグラフ紙電子版の「ドリーを生んだウィルマット博士、クローン研究を断念」という大見出しが飛び込んできました。

1997年にクローン羊ドリーをつくった英エディンバラ大学のイアン・ウィルマット博士がインタビューに答え、「Shinya Yamanaka」という日本人がマウスの皮膚細胞から胚(はい)性幹(ES)細胞のような細胞をつくることに成功したため、ヒトクローン胚研究をやめるというのです。

人間の未受精卵に患者の細胞から取り出した核を移植するヒトクローン胚から万能細胞をつくる研究は注目されていたので非常に驚きました。ES細胞は人間の受精卵からつくるため倫理上大きな問題を抱えており、ウィルマット博士らが取り組むヒトクローン胚研究は万能細胞をつくる切り札と考えられていたのです。

大手新聞社のロンドン特派員だった筆者は山中教授の研究室に国際電話をかけました。電話に出たのは何と当の山中教授。テレグラフ紙を読み上げ、「ウィルマット博士はヒトクローン胚の研究をやめるといっています。なぜなのでしょう」と素朴な疑問をぶつけてみました。

山中教授は小学生に教えるように分かりやすく解説してくれました。「細胞にはすべての設計図が盛り込まれているが、遺伝子によってその一部だけが働いている」「『ベクター』と呼ばれる運び屋ウイルスで4種類の遺伝子をマウスの皮膚細胞に組み込んでやると、ES細胞と似た万能細胞(iPS細胞)ができた」というのです。

回転イスからひっくり返った筆者

筆者「iPS細胞とES細胞とどう違うのですか」

山中教授「実はES細胞とまったく同じなんですよ」

筆者「先生、それではマウスの皮膚細胞からES細胞をつくるのに成功したということでしょうか」

山中教授「ES細胞の『E』は胚(Embryo)という意味ですから、厳密にはES細胞とは異なりますが、機能的には全く同じなんです」

山中教授の次の言葉に筆者は自宅の回転イスからひっくり返ってしまいました。「実は万能細胞をつくるのに人間の皮膚でも成功したんですよ。米科学誌セルで11月20日に発表される予定です。ウィルマット博士は誰かに聞いて事前に知ったのだと思います」

科学にはとんと疎い筆者ですが、ノーベル賞級の研究成果であることだけは理解できました。ES細胞と同じ万能細胞を受精卵やヒトクローン胚からではなく、人間の皮膚細胞からつくることができれば、倫理問題にとらわれず万能細胞を研究できる――とんでもないブレークスルーです。

筆者「記事にしていいでしょうか」

山中教授「人間の皮膚で成功したことはセル誌が解禁されるアメリカ東部時間の11月20日正午まで待ってほしい」

雑誌に掲載されて初めて研究成果として公式に認められるため、事前に漏れて誰かが他の雑誌に論文を発表すれば、山中教授の努力と成果は水泡に帰してしまいます。筆者も山中教授と同じ気持ちで論文が発表される日を待ちました。ノーベル賞の受賞が決まった時は飛び上がるほどうれしかったです。

ハインリッヒの法則

山中所長は今回の研究不正を受け「iPS細胞研究所において、このような論文不正を防ぐことができなかったことに、所長として大きな責任を感じています」「不正を行った助教や、所属研究室の教授、および私自身の処分については、大学の規程に則り速やかに検討を進め、懲戒処分を実施した際には遅滞なく公表いたします」と話しています。

「iPS細胞実用化までの長い道のりを走る弊所の教職員は9割以上が非正規雇用です」と民間に寄付を呼び掛けていた山中所長は研究不正を防げなかったことに道義的な責任を感じて辞任するかもしれません。スキャンダラスな報道で理研の副センター長が自殺したSTAP事件のように、メディアは山中所長を追い詰めないことです。

前出の黒木氏によると「ハインリッヒの法則」では1つの重要な労働災害の下には29の軽微な誤りや事故があり、その下には300の異常があるとされています。助教の研究不正は氷山の一角なのかもしれません。しかし同じ職場で、性悪説に立って研究不正を徹底的に追及するというのは難しいでしょう。

日本はもう一昔前の日本ではなくなり、貧すれば鈍するという悪いサイクルに陥っています。人間のすることですから、研究不正を100%防ぐのは無理としても、研究室の風通しを良くして成果だけを求めすぎず、データを共有して透明性を高めていくしか手立てはないでしょう。何より大切なのは、何のための研究かという原点に立ち返ることだと思います。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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