メルケル4選も、反イスラム極右政党が94議席 政権運営と対EU政策混迷【イチから分かるドイツ総選挙】

投票するメルケル首相。4選を確実にした(写真:ロイター/アフロ)

反イスラム・難民政党「ドイツのための選択肢」躍進

[ベルリン発]ドイツのアンゲラ・メルケル首相が4選を目指す連邦議会(下院)選挙の投票が日曜日の24日行われました。投票締め切りの午後6時(現地時間)と同時に発表された出口調査の結果、メルケル首相率いるキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が議会第1党になる見通しです。

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ドイツ第2公共放送ZDFの出口調査によると、CDU・CSU33.5%、社会民主党(SPD)21%、極右の新興政党「ドイツのための選択肢」13%、左派党9%、自由民主党(FDP)10%、90年連合・緑の党9%。「選択肢」はなんと94議席を獲得する見通しです。総議席が定数の598を上回る超過議席が認められているため、議席数が最終的に確定するのは火曜日の26日になりそうです。

ベルリン特別市の投票所(筆者撮影)
ベルリン特別市の投票所(筆者撮影)

ベルリン特別市の中でも前回CDU・CSU の得票率が高かった地区の投票所を訪れてみました。ドイツの連邦議会選挙は最初の1票を小選挙区の候補者に、次の1票を政党に投票する仕組みになっています。1枚の投票用紙の左欄に小選挙区の候補者名、右欄に政党名が書かれており、それぞれ1つずつチェックを入れてから投票します。

ボリス・ラダウさん(筆者撮影)
ボリス・ラダウさん(筆者撮影)

投票を済ませた化学者のボリス・ラダウさん(52)は「安定がわが国にとって最も大事。アメリカのドナルド・トランプ大統領にブレーキをかける西側の指導者が必要だ。ドイツの政治は産業界に深入りし過ぎなので、メルケル首相のCDUと90年連合・緑の党の連立政権を期待しているよ」と話しました。

小選挙区比例代表併用制のドイツは事実上の比例代表制で、一つの政党が単独で連邦議会の過半数をとることは滅多にありません。連立協議に平均で約40日、最長で86日かかったことがあります。

社民党との大連立が維持されるのか(社民党のマルティン・シュルツ党首は改めて否定)、それともジャマイカ国旗のカラーと同じCDU・CSU(黒)、市場原理を重視する自民党(黄)、90年連合・緑の党(緑)という初の「ジャマイカ連立」を組むのか。しばらく様子をみてみないと分かりません。メルケル首相は非常に苦しい立場に追い込まれています。

ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の悪夢が残るドイツでは戦後、得票率5%以上でないと議席が配分されないルールに阻まれ、どの極右政党も連邦議会の議席を獲得したことはありませんでした。

しかしギリシャに端を発する欧州債務危機と、100万人を超える難民が欧州連合(EU)域内になだれ込んだ難民危機に乗じて票を伸ばしてきた極右の「ドイツのための選択肢」が初めて連邦議会の議席を獲得しました。

「コールのお嬢さん」はサウナ好き

戦後ドイツの長期政権はいずれもCDU・CSUで、ヒトラーに迎合しなかったため投獄されたコンラート・アデナウアー(在任1949~63年、14年と31日間)、東西ドイツ統一と欧州統合を推進したヘルムート・コール(同82~98年、16年と26日間)に次いでメルケル首相が3番目に長いのです。

日本の政治家にたとえると、メルケル首相は、「風見鶏」と呼ばれた中曽根康弘元首相に似ています。「理想」を掲げるより、「現実」の政治状況に対応しながら政権基盤を着実に固め、気がつくと、非常に大きなことを成し遂げている現実政治家です。今回の難局も乗り越えることができるのでしょうか。

イデオロギーや理念、哲学、伝統を何より重んじるドイツで、メルケル首相はこれまでのドイツ政治では見られなかったタイプです。旧東ドイツ出身のメルケル首相は東西ドイツ統一のシンボルとしてコールに引き立てられ、「コールのお嬢さん」と呼ばれていました。

理想主義者のコールが「欧州は一つ」という大きなビジョンを掲げたのに対し、メルケル首相は欧州債務危機でも「単一通貨ユーロの失敗は欧州の失敗」と呪文のように唱えるだけで、何をしようとしているのか、誰にも分かりませんでした。

政治家としてのメルケル首相を読み解く面白いエピソードがあります。ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日の木曜日、35歳だった物理学者のメルケル首相はいつものように高層ビル内のサウナに行きました。「木曜はサウナに行く日と決めていたから」と世界の主要メディアに答えたことがあります。

サウナの後、ビールを飲んで大衆酒場を出ると、大群衆に巻き込まれ、西ベルリンまで押し流されたそうです。翌日は妹と一緒に西ベルリンの有名百貨店カーデーベーに出かけました。

終業ベルと同時にプールに飛び込んだ

小学生の水泳の授業ではプールに飛び込むのをためらい、終業ベルが鳴った時初めて飛び込んだというエピソードもあります。「私はもともと勇気があるほうではありません。しかし適切な時に、理性的な判断によって導かれる勇気があると思います」とメルケル首相は語っています。

1961年8月、ベルリンを東西に分断する壁が築かれました。当時7歳だったメルケル首相は、ルター派教会牧師の父が日曜礼拝を行い、信者全員が泣いていたのを覚えています。

両親とともにチェコスロバキアを訪れた7年後の夏、市場経済や表現の自由を謳歌していた「プラハの春」はソ連軍の戦車によって踏み潰されます。事件をラジオで聞いたメルケル首相が東ドイツの学校に戻ってその話をクラスメートにしたとたん、教師の顔が引きつりました。

共産主義体制下の旧東ドイツ時代、何より気をつけないといけないのは秘密警察ににらまれることです。買い物する時でも周囲の人と同じ物を買う。人と違うことはしない。周りの様子をよく観察してから行動する。月並みで野暮ったいこと、突出しないことが秘密警察の監視を逃れる知恵だったのです。

メルケル首相にとって政治の師匠であるコールは東西ドイツ統一、単一通貨ユーロ導入、欧州統合という理想を掲げる一方で、権力の椅子を狙うライバルを次々と葬り去りました。ライバルを潰すキラー・インスティンクトがなければ、長期政権は維持できません。

コールには自分を乗り越えていくメルケル首相がいましたが、メルケル首相の国内外のライバルは次々と失脚し、ドイツ国内にもEU加盟国にもメルケル首相の「後釜」が見当たりません。

メルケルのUターン

メルケル首相は2011年の東日本大震災の福島第一原発事故を受け、先送りしていた「脱原発」政策を180度転換、22年末までに国内の原発17基をすべて閉鎖すると即断したことがあります。国内の原発アレルギーを見抜いて、次の連邦議会選挙に勝つため産業界寄りだったCDU・CSUの政策を一変させたのです。

15年の欧州難民危機では、家族の難民申請が却下されたらレバノンの難民キャンプに強制送還されるというパレスチナ出身の14歳の女の子から直訴され、「みんなにドイツに来て下さいと言うことはできない」と突き放したため、少女がTVクルーの前で泣き崩れました。

しかし100万人を超える難民がEUに押し寄せると一転「ドイツは難民を歓迎する」と大見得を切り、株を上げます。その年、メルケル首相は米誌タイムと英紙フィナンシャル・タイムズの「パーソン・オブ・ザ・イヤー(今年の人)」に相次いで選ばれました。

欧州債務危機と難民危機という未曾有の2大危機に対する取り組みと志が評価されたのです。

しかし、その後CDU・CSU党内やハンガリー、ポーランドの反発に合うと「門戸開放」政策の旗を下ろし、EUの境界管理を強化しました。バルカン諸国出身者の難民認定申請を認めず、犯罪に関わった難民申請者の本国送還を容易にしました。

エカテリーナ2世の肖像画

一見、節操がないように見えるメルケル首相だが(ハイデルベルクで筆者撮影)
一見、節操がないように見えるメルケル首相だが(ハイデルベルクで筆者撮影)

一見、節操がないように見えますが、物理学者のメルケル首相は問題をじっくり考察し、最適解を見つけると即座に行動するのです。これがイデオロギーや伝統を重んじるドイツの政治家とは大きく異なる点です。

「メルケルン」と言えば、後出しジャンケンのように最後の最後まで状況を見てから判断するメルケル首相の政治スタイルを揶揄する言葉です。しかし小心のように見えて、メルケル首相の執務室には、ドイツ貴族の娘に生まれ、非凡な才と旺盛な行動力で「啓蒙的専制君主」としてロシアに君臨した女帝エカテリーナ2世(1729~96年)の肖像画が飾られているそうです。

メルケル首相が描く欧州の姿は、落ちぶれた観光地ではありません。アメリカや中国と対等にやっていける力強い欧州です。がしかし、総仕上げとなるはずだった4期目は非常に厳しいスタートになりました。

(おわり)