50年前に通った「バルカンルート」かつては同じ国だった【シリア危機、日本に何ができるか】
1~9月で欧州に71万人以上流入か
欧州対外国境管理協力機関(FRONTEX)によると、今年1~9月に71万人以上の難民が中東・北アフリカから不法に国境を越えて欧州に流入した。昨年1年間を通した数は28万2千人。今年8月だけで19万人、9月は17万人だった。
中でもギリシャ・レスボス島への上陸は1~9月に35万人に達した。ハンガリーは国境で20万4千人を確認。昨年同期比の13倍にのぼった。ハンガリーがセルビアとの国境を閉鎖した後、9月後半にクロアチア経由で9万7千人(未計上)が欧州連合(EU)に入ったと推定されている。
FRONTEXのレッジェリ代表は「難民流入の玄関口になっているギリシャとイタリアが緊急支援を必要としている。EU加盟国に対し、ギリシャとイタリアを支援するため追加の国境警備員を出すよう求めている。欧州の結束を示す必要がある」と述べた。
ギリシャとハンガリー、クロアチアの間にはEU未加盟の国がはさまれており、ギリシャと、ハンガリー、クロアチアでそれぞれカウントされている可能性がある。実際の流入数は71万人より少なくなるという。
それでも今年中に欧州で行われる難民認定申請の数は100万を突破しそうだ。最大で45万人が難民として認定され、定住する見通しだ。難民は下図のルートを通ってやってくる。
数字は今年1月から8、9月までに不法に欧州連合(EU)の国境を越えた人数だ。35万9171人(1~9月)が流入したオレンジ色の東地中海ルートはシリア24万8810人、アフガニスタン6万6765人、イラク1万8884人の順。
下のオレンジ色の棒グラフと比べてみても、いかに今年が突出しているかが一目瞭然だ。ギリシャのレスボス島やコス島がパンクしたのも当然と言える。
20万4630人(同)が流入した赤色の西バルカンルートはシリア8万8149人、アフガン5万2995人、コソボ2万3547人の順。
12万8619人(同)が流入した緑色の中央地中海ルートはエリトリア3万2966人、ナイジェリア1万6352人の順。イタリアを目指すこのルートはアフリカ組だ。
飛行機で入国して不法滞在を続けるケースも多い。
筆者は9月中旬から下旬にかけ、トルコ、ギリシャ、セルビア、クロアチア、ハンガリーと続く難民ロードを、連絡船やフェリー、長距離バス、鉄道、タクシーを乗り継いで旅した。
難民の流入を防ぐため、ハンガリーはセルビア国境やクロアチア国境に高さ3.5メートルのカミソリ付き有刺鉄線を築き上げていた。クロアチア国境の検問所では武装したハンガリー兵が難民を厳重に監視していた。田邑恵子さんの現地リポート第4弾。
過酷な旅
[トルコ南部ガジアンテプ発、田邑恵子]2015年夏、 多くのシリア難民はトルコから、ギリシャ、そして旧ユーゴスラビア諸国(セルビア、クロアチア、スロベニアなど)、ハンガリーを経由して徒歩や列車で目的地のドイツやオーストリアなどを目指した。
バルカン半島から旧東欧諸国を抜けるコースは俗に「バルカンルート」と呼ばれる。徒歩での道中は、寒さと雨、国境警備隊、追いはぎ化した現地マフィアが待ち受ける過酷な旅だ。
シリア北部のアレッポ出身で、今はトルコ南部ガジアンテプで働く娘夫婦宅に身を寄せるアボ・モハマッドさんは、ちょうど半世紀前の1965年にトルコ、ブルガリア、旧ユーゴからイタリアのベネチアに抜ける旅行を友だち3人と車でしたという。
今、多くのシリア難民が通過する 「バルカンルート」とほぼ重複する行程だ。難民の多くがドイツ、オーストリアなど北を目指すのに対して、モハマッドさんは50年前、南を目指し、イタリア、南仏の海岸へと抜ける道をとった。
バルカンルートは「シリア料理と同じだった」
男4人の車旅。道中、どんな食事をしていたかと質問すると「シリア料理と同じだった」という答えが返ってきた。
確かに。
第1次大戦で中東の、アラブ民族が居住する地域の地図ががらりと書き換えられた。シリアも旧ユーゴ、ハンガリーの一部もかつては、みなオスマン帝国の領土だった。当然、人々の行き来はあったし、食事だって似通ったものがある。
例えば、ひき肉、ほうれん草やチーズをパイ生地で包んでオーブンで焼く「ビュレック」はトルコ、バルカン地方のおふくろの味で、どこでもヨーグルトと一緒に供される。
どの男性も「母親の作るビュレックが一番美味しい」と思っている節がある。
ケバブはこの地方の共通料理だし、前菜だって、チーズだってかなり似ている。ご丁寧に三つ編み型に編み込んであるところまで同じチーズもある。
バクラバという、ナッツと層状の薄い生地でできた甘ーいお菓子も、サイズの違いこそあれ、シリア、トルコ、バルカン地方で広く食べられている。名前こそ違うけれど、各国で今でも同じようなものを食べているのだ
今回の難民危機で、バルカンルートの国々は、積極的にシリア難民の通過を受け入れた国、鉄条網で国境を閉じた国と対応も様々だった。彼らは覚えているのだろうか。かつて、シリアと彼らの国は1つの国だったことを。そして、今でも同じ料理を食べていることを。
古来から、人々の行き来はいろいろなものをわれわれの生活にもたらした。日本に茶を持ち込んだのは中国に学んだ留学僧たちだったし、日本食の代表、すき焼きだって、明治期に「牛鍋」の名で人気になるまでは日本で食べられていなかった。長芋も中国大陸伝来だし、オクラなんて東アフリカが原産で、現地名がオクラだ。長いことオクラは日本野菜だと信じていた私はケニアでもオクラと呼ばれているのを聞いてびっくりした。
シリア人男性で料理が得意だという人は比較的若い世代に多いが、年配者には「男子厨房に入るべからず」的な人も少なくない。そんな中でモハマッドさんはかなりの例外だ。彼の周りには同じように料理好きな同年輩の男性がいて、皆で一緒に料理をすることがある。
「おやじの味」はクスクス
モハマッドさん一家にとって、「おやじの味」はクスクスだ。セモリナ粉を蒸したクスクスは、アルジェリア、モロッコ、チュニジアなど北アフリカ地方の代表料理。羊や鶏肉と野菜を、スパイスをたっぷり入れた鍋で長時間調理してクスクスにかけて食べる。
野菜も肉もとろけるように柔らかく、うまみのたっぷりでたスープをクスクスが吸収してとても美味しい。
その昔、アラビア語教師としてアルジェリアで8年も働いたことがある彼は、かなりの海外通だ。クスクス料理もその時に覚えた。
仕事や休暇で欧州を何度も旅した。30年も使っていなかったフランス語も結構覚えている。最近はトルコ語の勉強を始めたところだ。公園にあるジム機器で毎日トレーニングもする。
モハマッドさんは結構な美声の持ち主で、食事の前にする家族でのお祈りは彼がリードする。
フランス語の愛の歌
ベネチアが素晴らしかったという話をしていたら、朗々とフランス語の愛の歌を奥さんに向かって歌い始めた。さびのところしか覚えていないけれど、ロマンチックなベネチアを訪問した旅の記憶がよみがえるらしい。
家族中の大爆笑を誘った。奥さんは笑い過ぎで、涙を拭いている。
食後のコーヒーを飲みながら、彼と一番下の息子のアボ・アデルさんはインターネットで中継されるFCバルセロナのサッカーの試合に見入り始めた。古今東西、男はあまり変わらない…。
そして、台所で食事の支度をしながら旦那の愚痴を声高に語る女たちも、これまた古今東西変わらない気がする。
(つづく)
田邑恵子(たむら・けいこ)
北海道生まれ。北海道大学法学部、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院卒。人口3千人という片田舎の出身だが、国際協力の仕事に従事。開発援助や復興支援の仕事に15年ほど従事し、日本のNPO事務局、国際協力機構(JICA)、国連開発計画、セーブ・ザ・チルドレンなどで勤務。中東・北アフリカ地域で過ごした年数が多い。美味しい中東料理が大好きで、食に関するアラビア語のボキャブラリーは豊富。