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エリザベス女王が英国の在位最長記録を更新、人気の秘密は

木村正人在英国際ジャーナリスト
3Dグラスをかけるエリザベス女王。新鮮な好奇心を失わない(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

女王の治世下に発展する英国

英国と英連邦加盟国中15カ国の元首を務めるエリザベス女王(89)が9日、ビクトリア女王(在位1837~1901年)を抜き、同国の在位最長記録を更新する。在位63年216日。25歳で即位し、第二次大戦からの復興、ダイアナ元皇太子妃の交通事故死など数々の苦難を乗り越え、今もドイツに飛び、メルケル首相と会談するなど元気はつらつとしている。

エリザベス1世(在位1558~1603年)、ビクトリア女王、現在のエリザベス2世と、英国は女王の治世下に発展と安定を達成した。

英王室に詳しい歴史家ルーシー・ウォズリーさんは「エリザベス1世はスペイン無敵艦隊を迎え撃つに際し、『私は弱い女の体を持っているが、国王としての心と魂を宿している』と演説したことがあります。今は国王が実際に戦場で戦うことがなくなり、男でなければならない理由はなくなりました。女性の方が外交力と柔軟性に富んでいるのが成功のカギだと思います」という。

英日曜紙サンデー・タイムズとYouGovの世論調査によれば、エリザベス女王が27%を獲得して「君主の中の君主」に選ばれた。エリザベス1世の13%とビクトリア女王の12%を合わせたより支持率は高かった。「女王の中の女王」だ。エリザベス人気を支えるのは、君主としての強い責任感と時代に適応してきた柔軟性にある。

「王冠を賭けた恋」が運命を一変

女王は9日、北部スコットランドで鉄道開通式に出席する予定だ。これまでに116カ国を延べ265回訪問。毎日午前9時、朝食を済ませると、国民などから寄せられる200~300通もの手紙を読む。返事を書くこともある。政府文書にも目を通し、週に1度、首相との会談をこなす。

女王の生地であることを示す金属板(筆者撮影)
女王の生地であることを示す金属板(筆者撮影)

エリザベス女王が誕生したのは1926年4月21日、ロンドンの高級住宅街メイフェアーにあるブルトン・ストリート17番地。現在は女王の生地であることを示す小さな金属板が残るだけだ。そのときエリザベス女王が将来、王位を継承するとは誰も思わなかった。

エリザベス女王が生まれたメイフェアーの通り(同)
エリザベス女王が生まれたメイフェアーの通り(同)

運命が一変したのは伯父のエドワード8世が米国人女性シンプソン夫人と恋に落ちてから。英国王が世俗の長を務める英国国教会は離婚を認めていなかった。2度も離婚経験のあるシンプソン夫人との結婚など受け入れられるはずもなかった。

エドワード8世は36年12月、「国王としての重責と義務を愛する女性の助けと支持なしに遂行することはできない」と王位を放棄した。「王冠を賭けた恋」としてニュースは世界中を駆け巡った。エリザベス女王の父、ヨーク公が即位してジョージ6世となる。エリザベスは10歳8カ月のあどけない少女だった。

13歳、初恋のお相手はフィリップ殿下

13歳の誕生日、エリザベス王女はギリシャの海軍士官フィリップ王子(当時18歳)と出会う。王子はギリシャ、デンマーク、ロシア王家とビクトリア女王直系の血を引く。長身で金髪、しかも、とびきりのハンサムだった。

フィリップ王子はエリザベス王女、妹のマーガレット王女とテニスコートのネットでジャンプ遊びをして楽しんだ。高くジャンプするフィリップ王子の躍動感に、エリザベス王女は「何てすごいのでしょう」と釘付けになった。まさに運命の出会い、一目惚れだった。

ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次戦争が勃発。ナチスはノルウェーやオランダでロイヤルファミリーを捕らえようとした。このため、エリザベス王女をカナダに疎開させようという提案が持ち上がったが、ジョージ6世は一蹴した。

バッキンガム宮殿(同)
バッキンガム宮殿(同)

バッキンガム宮殿にもドイツ軍の空爆に備えて防空壕がつくられた。40年9月、200機の編隊がロンドンをじゅうたん爆撃し、宮殿の中庭にも爆弾6個が落とされた。危険を承知のうえでバッキンガム宮殿にとどまったロイヤルファミリーは国民を勇気づけた。

このあとエリザベス王女はウィンザー城から「帝国の子供たち」と題したラジオ放送を堂々と行っている。その後、王位を継承してからもエリザベス女王は電話やテレビ放送、電子メール、ソーシャルメディアなど最先端の通信手段を使って王室のメッセージや価値観を送り続けている。

45年春、エリザベス王女は女子国防軍(ATS)に入隊、二等准大尉となる。どんな車種でも運転できるように訓練を受けてから、幹部訓練コースに参加。ロイヤルファミリーが一般人に交じって訓練を受けるのは初めてのことだった。

ロイヤルウェディング

第二次大戦後、英国は帝国を維持する力を失った。王室の財政も逼迫していった。47年11月、エリザベス王女は初恋の人、フィリップ殿下と結婚式を挙げる。ウェディングドレスの生地を配給制のクーポンで購入。エリザベス王女もマーガレット王女も鉛筆や消しゴムをちびるまで使うなど、質素倹約を身につけていた。

ジョージ6世は結婚式の当時を休日にしてほしいと要請したが、労働党政権は生産が停滞するとして拒否したというエピソードも残っている。ウェストミンスター寺院でのロイヤルウェディングとパレードをひと目見ようと沿道を国民が埋め尽くし、その様子を伝えるBBCのラジオ放送に世界中の2億人が聞き入った。

父ジョージ6世が52年2月、急死し、エリザベス王女が即位。53年6月、ウェストミンスター寺院で戴冠式が行われた。大英帝国崩壊後の英連邦と英国民の心を一つにするという重責が若き女王にのしかかった。「ある意味で私には修行時代がありませんでした。父の死はあまりに早かった。とりあえず引き継いで、賢明に努めてきたという格好でした」と振り返っている。

「アナス・ホリビリス(ひどい年)」からの出直し

「オーストラリアやニュージーランドを訪問した際、女王とフィリップ殿下を見ようと街頭に50万人が詰めかけた。今のウィリアム王子とキャサリン妃も人気では女王に及ばない」と英王室ジャーナリストのロバート・ジョブソン氏は言う。

しかし、即位40周年に当たる92年、チャールズ皇太子とダイアナ元妃がダブル不倫の末に別居。女王の次男アンドルー王子が別居を発表し、長女のアン王女も離婚した。ウィンザー城も大火災に見舞われた。エリザベス女王はラテン語の「アナス・ホリビリス(ひどい年)」という言葉で1年を振り返った。

97年8月、元妃がパリで交通事故死した際、「どうして英王室はバッキンガム宮殿に半旗を掲げないのか」と轟々たる非難を浴びた。国家の威信を守ろうとする女王の頑なな姿勢は国民の気持ちから乖離していた。エリザベス女王は王室も時代や国民の変化とともに変わるべきだということに目覚め、国民の前に現れて元妃の死を悼んだ。

ウィリアム王子とキャサリン妃の結婚後、キャメロン政権の助言で王位継承法の男子優先を廃し、長子が王位を継承できるよう法改正することにも同意する柔軟性を見せた。

エリザベス女王を支えるのは

エリザベス女王は2011年5月、アイルランドを公式訪問した。英国君主の訪問は1937年のアイルランド独立後では初めてだった。エリザベス女王が77年に英国・北アイルランドのベルファストを訪れた際には、女王の人形がつるされる騒ぎが起きた。

アイルランドでは英国からの独立運動と宗教抗争の歴史が続き、1845年のジャガイモ飢饉(ききん)では連合王国政府の失政で多くの犠牲者を出した。独立後の北アイルランド紛争では3200人以上が死亡。英国とアイランドの感情的なしこりは根強く残るが、エリザベス女王のアイルランド訪問は最終的な和解の象徴となった。

エリザベス女王は全身全霊を国家に捧げ、新しいテクノロジーを取り入れて市民とコミュニケーションをとる努力を怠らない。その瑞々しさとひたむきさを支えているのは、13歳のとき恋に落ちた頑固で少し風変わりなフィリップ殿下だという。

(おわり)

参考:サラ・ブラッドフォード著『エリザベス』上下巻(読売新聞社)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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