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NHK籾井会長が英紙タイムズに反論 効果のほどは

木村正人在英国際ジャーナリスト

NHKの籾井勝人会長は6日の定例会見で、英紙タイムズ(電子版)が入手したNHK内部文書をもとに「Japan’s ‘BBC’ bans any reference to wartime ‘sex slaves’(日本の『BBC』は戦時の『性奴隷』へのいかなる言及も禁じている」と報じたことについて、「理解に苦しむ」と述べたそうだ。

産経新聞電子版が報じている。

籾井会長は「『この件については触れてはならない』といったルールは一切ない」と強調。NHK広報部の説明では、タイムズ紙が入手したのは、NHKが以前から国際放送用に利用している用語統一集とみられ、担当者が記事を日本語から英語に翻訳する際、表記の揺れや誤用を防ぐため参照しているという。

タイムズ紙の報道を振り返っておこう。

NHK内部文書の日付は10月3日付で、プロデューサーや通訳向けの国際放送用「オレンジ・ブック」と呼ばれるガイドブック。

慰安婦(Comfort Women)

Say ‘those referred to as comfort women’ or ‘those known as comfort women’.

Do not use the traditional (expression) ‘so-called comfort women’. In principal, do not give an explanation about the comfort women ... Do not use ‘be forced to, brothels, sex slaves, prostitution, prostitutes’ etc.

「いわゆる慰安婦」という従来の表現を使わずに、「慰安婦と呼ばれていた」「慰安婦として認識されていた」と言いなさい。原則として慰安婦について説明を加えないこと。「強いられた、売春宿、性奴隷、売春、売春婦」といった用語は使わないこと。

尖閣諸島(the Senkaku Islands)

「争いのある(dispute)」や「領有権が争われている諸島(disputed islands)」は使わないこと。

The word ‘issue’ can be used only when expressing Japan’s position that ‘the territorial issue does not exist’.

「問題(論争点)」という言葉は「領土問題は存在しない」という日本の立場を説明する場合のみ使用可能。

南京事件(the Nanjing Incident)

‘The Nanjing Massacre’ is used only when directly quoting of the remarks made by important people overseas etc., and the fact that it is quotation must be made clear.

「南京大虐殺」は海外の要人の発言を直接引用する場合にのみ使うこと。引用であることを明確にしなければならない。

靖国神社(Yasukuni shrine)

「戦争に関わる神社(war-related shrine)」「戦争とつながりがある神社(war-linked shrine)」「戦争神社(war shrine)」という英語の表現は避けなければならない。

これでは政府広報と変わらない

タイムズ紙の報道については人によって受け止め方が違うのは当たり前だが、個人的な見解を述べてみる。

【慰安婦】

「(本当かどうか疑わしいが)いわゆる慰安婦」という従来の表現をやめたのは、「慰安婦」という表記を国際的に定着させるためだろうか。

旧日本軍慰安婦をめぐる評価は国によって分かれていても、国際的に議論するときに「慰安婦」という表記を使用するのは間違っていない。

「評価」と正確な「表記」はまったく別の問題だ。が、何の説明もなしに「慰安婦(Comfort Women)」と言われても海外ではわからない人が多いと思う。

【尖閣諸島】

これは外務省の公式見解だ。しかし、報道機関としてはいかがなものか。日本の海上保安庁の巡視船と中国の公船が監視を続けている状態は、誰が見ても「論争」が存在する。

政府と見解を合わせることは、少なくともNHK国際放送は公共放送ではなく、政府広報機関であるとの印象は拭えない。

【南京事件】

海外では「事件(Incident)」と「大虐殺(Massacre)」の使い分けはほとんど意味をなさないと思う。最近では数十人規模でも「大虐殺」を使うことが多いからだ。

犠牲者の数をめぐって中国政府と日本政府の間に大きな開きがある。「大虐殺」を認めると「30万人以上殺害」説を受け入れたと中国側に思われかねないという危惧が日本政府にはある。

中国の習近平国家主席は今年3月、ベルリンでの演説でこう語っている。「約70年前、日本軍は中国・南京に侵略し、30万人以上もの中国人を殺すという残虐な犯罪を行った」「日本の侵略戦争で中国人3500万人が死傷した」

「30万人以上殺害」「3500万人死傷」を受け入れることはできないが、それが「大虐殺」という表記とどれだけ結びついているかは正直言ってわからない。

【靖国神社】

靖国神社が戦前・戦中、「戦争神社」だったことは歴史上の事実。戦後、「追悼施設」、一宗教法人として出直したとは言っても、「顕彰施設」としての性格を完全に消し去ることはできないのではないかと思う。

ステレオタイプの日本批判

ロンドンで日本の歴史問題が議論されるとき、ステレオタイプの日本批判がいつものように繰り返される。

安倍晋三首相の「侵略の定義は定まっていない」「安倍内閣として、村山談話をそのまま継承しているということではない(その後、軌道修正)」発言と靖国神社参拝。731番機搭乗。

麻生太郎副首相兼財務相の「ナチス見習え」発言、橋下徹大阪市長や籾井勝人NHK会長の従軍慰安婦発言、百田尚樹NHK経営委員の「南京大虐殺はなかった」発言などを蒸し返されるのが、お決まりのパターン。

その上で、「日本は戦時中の残虐行為について十分な歴史教育を行っていない」「日本は都合良く歴史を書き換えようとしている」「中国や韓国に謝罪せず、挑発して東アジアの緊張を高めている」と紋切り型の反省を迫られるのだ。

メディアがステレオタイプのニュースに反応するのは万国共通だ。そうしたパブロフの犬的な反応を避けながら、日本を好意的に報じてもらうのが「パブリック・ディプロマシー」だ。

特に東シナ海や南シナ海での緊張が今後さらに高まることが予想される中、日本のパブリック・ディプロマシーはますます重要になってくる。インターネット上に日本に対するディスインフォメーション(ニセ情報)やプロパガンダが氾濫する中、日本はどんな情報発信に徹するべきか。

法の支配や人権、民主主義、自由主義といったできるだけ普遍的でポジティブな価値を発信することが大切だ。

歴史問題についても戦前・戦中の軍国主義、植民地主義、超国家主義をどう総括するのかの前提なしに言葉だけを入れ替えてみたところで国際社会の支持は得られない。

それより戦後日本の歩みを丁寧に説明した方がはるかに説得力がある。歴代首相が元慰安婦の方々に宛てた手紙。日本政府とアジア女性基金の謝罪と償いの活動は韓国の反日ナショナリズムと日本の反動勢力に挟撃されて挫折したものの、十分に評価できるものだ。

NHKは報道機関か

タイムズ紙がNHKのオレンジ・ブックを取り上げたのは、安倍首相の後押しで会長になったとされる籾井氏が今年1月の就任会見で、「政府が『右』と言っているものを、われわれが『左』と言うわけにはいかない。国際放送にはそういうニュアンスがある」「あくまでも日本政府とかけ離れたものであってはならない」との見解を示したからだ。

これではNHKは報道機関の看板を下ろしたも同然だ。

NHK国際放送は、米国政府が運営する国営国際放送「ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」と同じ位置づけの「ボイス・オブ・ジャパン(VOJ)」なのか。

NHKの国内放送は政治からの中立性を保てているのか。籾井発言でNHKは国際社会から疑いの目を向けられている。

英BBC放送のドキュメンタリー番組を見ていると、つくづく報道機関は政治と距離を置くべきだと痛感する。最近2週連続で13年に及んだアフガニスタンでの英陸軍の軍事活動を振り返るドキュメンタリー番組『アフガニスタン:ライオン最後の咆哮』が放送された。

英国のキャメロン首相は「私は2015年までに英軍の部隊をアフガンから撤退させると約束した。アフガンでの戦闘任務は終了した」「私たちに代わってアフガンで任務を果たした兵士たちの勇気をいつまでも胸に刻んでいる。彼らが払った犠牲は絶対に忘れない」と総括した。

報道の自由の意義

しかし、英陸軍の歴代トップ、犠牲になった若き兵士の遺族、アフガンの地元住民、イスラム原理主義勢力タリバンの意見はキャメロン首相とは当然、異なるわけだ。

ドキュメンタリー番組では、タリバンに追い詰められた英陸軍の実情、米軍との力の格差、装備不足で現地のトラックを使って移動したり、飲料水も支給されないまま7時間もの戦闘を強いられたりした実態が生々しく描かれていた。

政府見解に基づいてドキュメンタリー番組がつくられていたとしたら、「英国政府の介入でアフガンでは民主化が順調に進みました」というとんでもない内容になっていただろう。番組は、タリバンから解放されたアフガン女性が子供と遊ぶために造られた遊園地が無人のまま放置されている現実を映し出す。

政府見解に追従することが国益になるかと言えば正反対で、大本営発表を垂れ流した軍国・日本と同じで国家を破滅に導く。英国社会も、英軍も、政府とは距離を置いてファクトを伝えるBBCを求めている。BBCも常に政治からの圧力と闘っている。

安倍首相や籾井会長が異常なまでにこだわる歴史解釈は国家の安全保障を考える上では瑣末なことだと思う。

NHKが報道機関であるのならば政府とは距離を置くのが当たり前だ。NHK内部にも政治権力への擦り寄りがある。安倍首相の唱える「積極的平和主義」を実行に移そうとした場合、「報道の自由」に裏打ちされた検証作業が健全な民主主義と国家の安全を守るのに欠かせないことを肝に銘ずべきだ。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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