Yahoo!ニュース

【終戦の日に考える】日本で抹消された『炎のランナー』の最期

木村正人在英国際ジャーナリスト

敵国人収容所に抑留された金メダリスト

1981年に公開され、作品賞などアカデミー賞7部門を受賞した英国映画『炎のランナー』が翌年に日本で公開される際、あとがきの一部が抹消されていたとは知らなかった。

舞台は1924年のパリ五輪。ユダヤの血を引くハロルド・エイブラハムスと、スコットランドの宣教師を父に持つエリック・リデル。ハロルドは優勝候補の米国選手を破って、金メダルに輝く。

パリ五輪400メートルで優勝したエリック(左端、エリック・リデル・センター提供)
パリ五輪400メートルで優勝したエリック(左端、エリック・リデル・センター提供)

一方、敬虔なエリックは安息日の日曜日に走ることを拒否する。出場種目を男子100メートルから男子400メートルに切り換え、世界新記録を達成、金メダルを獲得する。

映画には続きがある。中国生まれのエリックは翌25年、宣教師として中国に戻る。31年、満州事変が勃発。エリックは41年、家族をカナダに出国させ、中国に残るが、43年、山東省の敵国人収容所に抑留される。

大戦中も中国で布教活動を続けたエリック(エリック・リデル・センター提供)
大戦中も中国で布教活動を続けたエリック(エリック・リデル・センター提供)

収容所でもエリックは聖書の勉強会を開き、瞬く間に10代の若者たちの心を魅了する。その中に17歳のスティーブン・メティカフもいた。「汝の敵を愛せよ」と、エリックは説く。しかし、英国の敵である日本人を愛することなどできようか。

スティーブンの自伝『In Japan The Crickets Cry』によると、日本人の中国支配は凄惨を極める。西洋人は闇市で捕まっても1~2週間の独房入りで済んだ。しかし、中国人は電気柵で首を吊るされ、見せしめにされた。

無抵抗の中国人漁師が日本軍の戦闘機に銃撃され、殺害されるのをスティーブンは間近で目撃したこともある。

汝の敵を愛せよ

若者は「汝の敵を愛せよ、という言葉は理想に過ぎない。日本人、特に日本の憲兵を愛することなど現実的には不可能だ」という結論を出そうとしていた。

そのとき、エリックは静かに語った。「聖書には『汝を迫害する者のために祈れ』という言葉があります。私たちは愛する者、好きな人のために祈ります。しかし、イエスは、好きではない人のために祈りを捧げなさいと教えています」

そして、こう続けた。「人を憎むとき、あなたは自己中心的になります。祈りを捧げるとき、あなたは神中心の人間になります」

スティーブンは伝説の金メダリスト、エリックと2度一緒に走り、一度だけ勝ったことがある。エリックはスティーブンに「君のシューズはもう修理できないほど、擦り切れているね」と言ってランニングシューズを手渡す。

その3週間後の45年2月21日、エリックは43歳の若さで他界。脳腫瘍だった。スティーブンはエリックからプレゼントされたランニングシューズを履いて棺を担いだ。

「日本人のために祈りなさい」。神の啓示を受けたスティーブンはエリックのバトンを受け継いだ。いくら祈っても日本人の態度は変わらなかった。しかし、自分の心から怒りや憎しみが消えていくことがわかった。

若き日のスティーブン・メティカフ氏(家族提供)
若き日のスティーブン・メティカフ氏(家族提供)

広島、長崎への原爆投下で、戦争は終わった。スティーブンはオーストラリアに移住したが、日本を占領していたマッカーサー連合国軍最高司令官が48年、宣教師を募っているのを知り、52年、日本へ渡航する。

船には、朝鮮戦争に向かう英国兵300人が乗っていた。日曜日、将校から兵士たちに話をしてやってほしいと頼まれ、スティーブンはエリックの教えを説いた。

「あなたたちは平和のために銃を取り、国連とともに戦って死ぬかもしれない。私は真の平和というエリックのメッセージを携えて日本に向かっている」

日本公開時に抹消されたエリックの最期

そのあと38年間、スティーブンは北海道や青森、千葉などで布教活動に携わった。映画『炎のランナー』が公開されたのは英国に帰国してからだ。敵国人収容所で自分がエリックの墓のそばに立っている孤独な光景が脳裏に浮かんだ。

数カ月後、スティーブンは日本に戻って困惑する。日本の映画配給会社が当初、「あまりにも英国的すぎる」「良い興業が期待できない」と言って『炎のランナー』の日本上映を拒否したからだ。

映画はエリックの最期について「日本の収容所で死去」と説明していた。「しかし、この映画が日本の映画館で上映されたとき、この説明は削除されていた」と、スティーブンは、エリックの功績を記録する民間団体エリック・リデル・センターのHPに寄稿している。

スティーブンの自伝『In Japan The Crickets Cry』の執筆・編集を担当したロナルド・クレメンツ氏(57)はこう解説する。

映画はエリックが日本の戦争捕虜(POW)収容所で死んだと説明しているが、正確には敵国人収容所で亡くなった。エリックもスティーブンもPOWや中国人のようにひどい扱いを受けたわけではない。

重要なのは、エリックが日本の敵国人収容所で亡くなったという事実すら日本の映画配給会社が抹消してしまったことに象徴される日本人の潜在意識である。

クレメンツ氏によると、スティーブンは日本と日本人を愛し、祈り続けた。そして、日本と中国の和解のためにも祈りを捧げた。しかし、あることが日本と中国の和解を妨げるだろうという結論に達した。

スティーブンが日本で布教活動を続けた38年間、自ら戦争を語る日本人に出会ったことはなかった。戦争を語ることは昭和天皇の責任を追及することになると怖れていると考えたが、昭和天皇が崩御したあとも、日本人が戦争について語ることはなかった。

罪を否定することは神と和解するための妨げになる。戦争の罪を認めることで神との和解が可能になり、旧敵との和解も進む。日本と日本人が戦争の罪を認めない限り、和解は永遠に訪れない、というのがスティーブンの理解だった。

「スティーブンはおそらく、天皇との関係が妨げでなかったら、恥の意識が、日本人が戦争の罪を認めることを妨げていると考えていたのだと思う」とクレメンツ氏は解説する。

日本人にとって、あの戦争は「ヒロシマ」で終結した。以来ずっと、「終戦」と「敗北」を抱きしめてきた。それが正直な日本人大半の認識だろう。残虐行為の当事者は口をつぐみ、復員兵と国民は戦後復興に忙しく、戦争を振り返る暇などなかったのだ。

そもそも日本人にとって、あの戦争に個人の意思を差し挟む余地などあったのか。戦争を知らない世代も戦前・戦中派と同じように戦争の罪を認識する責任を負わされているのか。

燃え盛るナショナリズム

罪を認めたくないという激烈な感情を克服するためには、スティーブンのように祈ることか、感情に左右されない強固な理性を持つこと、またはイデオロギーを優先することが求められる。

クレメンツ氏は「日本の残虐行為は1930年代の強烈なナショナリズムに起因しているとスティーブンは感じていたと思う」と語る。

従軍慰安婦問題や沖縄・尖閣諸島をめぐって燃え上がる日本のナショナリズムを目の当たりにすると、私たちは歴史上の重要な岐路に差し掛かっていることを痛感する。

スティーブン・メティカフ氏(家族提供)
スティーブン・メティカフ氏(家族提供)

和解は双方の努力にかかっている。その意味では今、私たちの1人ひとりが歴史の当事者なのだ。

ナショナリズムに身を任せ、反韓・反中感情を制御不能なまでエスカレートさせるのか。これ以上、近隣諸国との関係を悪化させないよう最大限、配慮するのか。それとも、1990年代まで続けてきた和解努力を再開させるのか。

私たちは歴史上の選択を迫られている。

スティーブンは今年6月7日、入院先の病院で静かに息を引き取った。86歳だった。日本人の友人たちが午後の祈りを捧げ、日本語で聖歌を歌った。看護婦がスティーブンの子供たちに告げた。

「あなたたちのお父さんは宣教師でした。私は彼の署名入りの本を持っています。彼は天国に召されました」

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

木村正人の最近の記事