報道とは「道」である。

報道とは「道」である。

突然、突拍子もないようなことを言うようだが、私は本当にそう思っている。そうあるべきだと思っている。

報道は「心に響くもの」であり「アート(芸術)」だと!

一昔前まで、報道メディアと言えば、新聞、そしてテレビのニュースぐらいのもので、マス(大衆)は自ずとその報道に耳を傾けた。通信社や新聞社が主となり、読者の信頼を前提に報道をしていた。プロの記者が時に生命を懸けて真実を追求するような迫力があったと思う。

しかし近年、インターネットの普及により、誰でもどこでも様々な情報が手に入るようになった。

誰でも自分の意見や見解を不特定多数のマスに対し瞬時に発信することができるようになった。誰でもジャーナリスト、評論家になれる時代になった。

これも新たな「報道」の形態だと言っても過言ではない。

私の持論だが、インターネットの世界はその名の通り「ウェブ(網)」だと思っている。情報を一網打尽にできる便利な道具であるが、この網に中心はない。

即ち、ソースの信頼性と信憑性が低いと言うリスクを抱えている。またネットの最大の強みであり弱みでもある匿名性による投稿、それがもたらす誹謗中傷も後を絶たない。

これもまた、ウェブの落とし穴だ。

しかし、ブログやネットを通じて、人は何かを知りたいという欲望を満たしている。フェイスブックやツイッターでバーチャルに繋がることで人は誰かと共感したいという欲求を満たしている。

ウェブを活かすも殺すも、要は使う人によるのである。

そんな時代、報道メディアの役割も変化してきていると思う。マスコミの「報道の自由」をはき違えた態度に対する大衆の信頼度は年々低くなっていくばかりだ。

インターネットでは毎日のように「マスゴミ」と揶揄される。

報道機関が反省の色を見せないことが火に油を注ぐような結果をもたらしている。実名報道に対する傲慢な姿勢や大衆の関心を無視した話題づくりにマスは辟易している。

マスコミはすでにマスの「共感」を失っている。

報道の役割とは何か? 未来の有るべき報道の姿とは? を私なりに考えてみた。その答えが「報道とは道」である。

人が人として社会で生きる上で知るべきことを客観的に正しく知らせることが報道の使命であり役割なのだと私は考えている。報道は人を助けるものであるべきだと思う。

様々な情報が流れる今の時代、心から打ち震えるような記事に出会いたい。

人はそういうものを求めていると思う。「プロ」と「素人」の距離も近づきつつある。私たちが発信する一つ一つの言葉がジャーナリズムになり、事実を形作るのだ。

それが時に感動という読者の「共感」を呼ぶ。それを私は報道の「道」と呼びたい。 報道は道であり、道は極めるものである。 人々を感動させるものである。

しかし、ウェブの迷路に入り込み、真実から遠のく危険性はどこにでもある。 情報の受け取り側もしっかりと自分で考えることが欠かせない。情報に対して、正しい目を持つ。

それが受け手に求められる、もう一つの「道」である、と私は思う。

マスメディアの不特定多数の人に情報を発信するという責任は、いつの時代も変わらない。その上で、最低限の報道マナーと自戒を守りながら、人間の尊厳を損ねない、ましてや部数や視聴率追求のためなら何でも報道すればいいという姿勢は頑として慎むことこそ、真の報道機関が進むべき「道」だと思う。「報道」の「作法」のようなものだと私は思っている。

「情報」は否応なしに飛び込んでくる時代である。私も自分なりの「道」を摸索し、これからも自己研鑽していきたいと思っている。

岡本康平

英レスター大学経営学部卒。高校留学で17歳の時に初渡英。高校卒業後帰国し、それから6年間、日本国内及びアメリカ、ヨーロッパ、 アフリカなどをギター一本で渡り歩く。大学入学を機に再び渡英し卒業後、某通信社に入社。金融データの営業職。2013年現在、ロンドン在住。

「つぶやいたろうジャーナリズム塾」1期生になった康平さんと出会ったころ、僕はアルジェリア人質事件の実名報道をめぐってマスコミ不信の激流にのみ込まれていた。

「報道機関が反省の色を見せないことが火に油を注ぐような結果をもたらしている」と康平さんが指摘するように、犠牲者宅前でたむろし続けるマスコミをとらえた動画に対して僕も叫びたくなった。

「おい、もっと他にしなければいけないことがあるだろう。デスクは何をしてんだ。他社が抜け駆けして犠牲者を撮影するのがそんなに怖いのか。もっと自分たちの視点と狙いを持って取材しろ」、と。

日本のマスコミは人が余っているんだろうなとも思った。動画は、拙ブログの読者の方がリンクを送ってきてくれた。

昨年夏、28年勤めた新聞社を去った僕は、国際都市ロンドンを拠点に1人でジャーナリズム活動を始めた。マスコミではない一読者の立場になって新聞、雑誌、テレビを見ると、やはり記者には獲物にキバをむいて、ネタを食いちぎってくる獰猛さを期待してしまう。

ある日、英国の大手銀行からオカネが下ろせなくなったというニュースが流れた。金利が2・8%もつくので、僕は大丈夫かなと不安に思いながら、その銀行に預金をしていた。上っ面をなでるだけの突っ込み不足の取材に、「もっと背景を掘り下げろ。視聴者はそんな程度の情報では満足しないぞ」と机をたたいていた。

ストリートワイズに世の中を生き抜くのに情報ほど大切なモノはない。だから読者はオカネを払って新聞を読むのだ。キバのない記者に存在価値などあるのだろうか。しかし、日本のマスコミはキバを向ける相手を間違えて、一番いたわりを必要とする犠牲者の遺族にハイエナのように群がっている。

関係者の実名がわからなければ、取材の糸口がつかめない。発表は匿名でも良いというのは、記者は歯を持たなくても良いといっているのと同じことである。匿名でも報道に差し支えないという論評を僕は信じない。

記者の武器とは真実を追い求める情熱とインタビュー力、資料の分析力である。相手の信頼を得ることができなければ、突っ込んだインタビューはできない。最近のデスク連中は、メディアスクラムを組めば相手から信頼されるとでも思っているのだろうか。

しかし、実名が報道の基本になっていることをブログで訴えた時、多くの批判をいただいた。こうした不信感に十分に応えようとしないマスコミを腹立たしく思う反面、一般市民の感情に配慮しない傲慢さが僕にもあったのだろうか、独善に陥っていたのだろうか、と自省していた。

そんな時、康平さんが「ジャーナリズムに興味があるんです」と声をかけてきた。僕は「もう新聞社に属しているわけでもない一個人ですが、それでも良いですか」と聞き返した。

週1回1時間前後、スカイプを通じて、次世代のジャーナリストに身につけてもらいたいことを話し合った。僕はオールドメディアで育った人間だが、オンラインの世界に適合できるよう努力している。「ロンドンでつぶやいたろう」というタイトルにも、そのぎこちなさを込めた。

つぶやいたろうジャーナリズム塾

第一回 プロフェショナルになる

第二回 自分のストーリーを組み立てる

第三回 文章の作り方

第四回 報道倫理

第五回 事実を伝えるとは

第六回 添削

6回にわたる共同作業の結果、康平さんが提唱したのが「報道とは道である」という考え方だった。良い言葉だと思った。それをテーマに康平さんに書いてもらったのが冒頭の一文である。

新聞記者時代、事実関係を間違わないよういち早く伝えるのに精一杯で、そんなことは考えたこともなかった。剣道や柔道、合気道、華道、茶道と同じように、報道にも極める「道」があるのではないか。

新漢語林を引くと、「報道」の「道」は「いう」「語る」という意味と書かれている。「人が守り行うべき正しい道理」という意味での「道」ではない。

しかし、報道には「道」がある、と康平さんが主張した時、すがすがしい感じがした。

僕が大好きなジャーナリストの1人に英民放局の「チャンネル4ニュース」の司会者ジョン・スノーがいる。英国初の女性首相マーガレット・サッチャーが亡くなった時、スノーが作った特番が一番面白かった。

若きスノーがサッチャーに質問やインタビューをした回数は12回に及ぶ。スノーの質問を百戦錬磨のサッチャーが一言で撃退する場面が散りばめられ、スノーが「12対0」だったと敗北を認める。

サッチャーの強靭さがスノーという優れた媒体を通じて見事に描き出されていた。

僕は、報道とは何かという自分なりの答えを求めて、スノーに会いにチャンネル4のスタジオを訪ねたことがある。

スノーは慈善活動で若者を自分の職場に招いている。その一行に交ぜてもらった。「日本の記者です」と自己紹介すると、スノーは「フクシマは大丈夫ですか。僕も震災直後、フクシマに入った」と被災者を気遣った。

本番直前まで若者と話をしながら、読み上げるコメントを最終確認する。スノー自身、ベテランジャーナリストなので、ニュースの切り口、報道のバランス、自分のスタンスの出し方が抜群にうまい。

高みまで上り詰めながら、1人の人間であることを忘れないスノーの気さくさに深い感動を覚えた。

康平さんが言うように、報道には1人ひとりの道がある。スノーも自分の道を歩いていた。僕も報道の道を歩き続けようと思った。

(おわり)