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鉄の女サッチャーの秘密

木村正人在英国際ジャーナリスト

睡眠3時間

英国初の女性首相として「老小国」に落ちぶれた英国を立て直した鉄の女、マーガレット・サッチャーが亡くなった。87歳だった。決して愛される指導者ではなかったが、妥協を許さないリーダーシップで英国を見事に復活させた。

サッチャーの偉大さは、国家の役割が肥大化した英国に市場原理を再導入し、当時の米大統領レーガンと協力して東西冷戦を終結に導いたことにある。グローバル経済の土台をつくった最大の功労者と言っていい。

サッチャー時代の主な出来事をおさらいしておこう。

1979年5月 総選挙で保守党を大勝に導き、英国初の女性首相に就任

82年4月 アルゼンチンがフォークランド諸島に侵攻。2カ月後に英国が奪還

84~85年 炭鉱合理化に反対する長期スト。サッチャー首相は妥協せず労組側が敗北

89年11月 ベルリンの壁崩壊

90年11月 人頭税の導入や欧州統合への懐疑的姿勢で党内の造反に遭い、首相を辞任

サッチャーの外交担当補佐官を務めたチャールズ・パウエルは77年、外交官として西ドイツ・ボンの英国大使館に勤務していた。野党・保守党党首になったサッチャーがボンを訪れた際、チャールズは西ドイツの政治家に引き合わせた。

サッチャーがいずれは英国の首相になることを見込んでのことだ。ちなみにチャールズの弟、ジョナサン・パウエルもブレア英首相のアドバイザーを務めた。

チャールズは「サッチャーはこれまでに私が会った政治家とはまったく違っていた。英国を立て直すという強い意志を持っていた」と語る。

第二次大戦で国内総生産(GDP)の約250%にのぼる借金を抱え込んだ英国は幾度も通貨切り下げを強いられた。インフレ率は24%を超え、76年には国際通貨基金(IMF)の救済を仰いだ。

かつて7つの海を支配した大英帝国の栄光は消え、国内では労働組合のストライキが吹き荒れて経済は低迷を続けた。街にはゴミがあふれ返った。極限的な状況に追い込まれていなければ首相サッチャーは誕生していなかっただろう。

サッチャーについて、チャールズは「彼女は決して人気があったわけではない。落とし所を探るのではなく、常にクリアな考え方から出発した。有権者は問題を解決する強い政治家を選んだ」と指摘する。

チャールズによると、サッチャーは午前3時前に就寝することは決してなく、午前6時には起床して仕事をしていた。英国の首相は毎日、首相官邸に届けられる山のような書類に目を通し、決裁しなければならない。

永遠の友も敵もいない

サッチャーは外交の素人だったが、英国の強さを蘇らせるという信念を持っていた。そして、自由主義は全体主義に必ず勝つと信じて疑わなかった。

フォークランド紛争でレーガンはアルゼンチンに配慮して、どっちつかずの対応を見せた。しかし、サッチャーは「軍事力で国境を書き換えるということを黙認したら、国際社会は混乱に陥る」という原理原則を強調した。

この一言がレーガンを動かしたとチャールズは振り返る。

サッチャーの側近だった外相ハウ(当時)は84年に訪英したゴルバチョフ(ソ連議会外交委員長、後に大統領)とサッチャーの会談を昨日のことのように覚えている。

ハウによると、サッチャーはソ連最高指導者チェルネンコの有力後継候補ゴルバチョフの訪英を招請した。ソ連議会代表団団長として訪英したゴルバチョフは英南部チェッカーズの首相別邸でサッチャーと会談した。

英国側からハウと個人秘書、ソ連側から随行員2人と通訳が同席した。

ハウによると、ゴルバチョフは「英国には永遠の友も永遠の敵もなく永遠の利害関係者があるのみ」という19世紀の英首相パーマストンの警句を取り上げた。

そして、こう続けた。

「私たちも同じです。私たちの仕事は、私たちに共通する利害を特定することです」

サッチャーはピンと来た。ゴルバチョフの主張は、米国務長官シュルツと基本的に同じだった。ハウは「ゴルバチョフが冷戦の緊張を打開したいと切望しているのはパーマストンの引用からも明らかだった」と打ち明ける。

チェルネンコが85年3月に死去。書記長に就任したゴルバチョフはモスクワでの葬儀に参列したサッチャーと45分会談し、レーガンの戦略防衛構想(SDI)について伝えた。

ゴルバチョフと米副大統領ブッシュの会談時間が各国並みの15分だったため、サッチャー、ゴルバチョフの近さを世界中に印象づけた。

サッチャーは、ソ連を警戒するレーガンに「ゴルバチョフは一緒に仕事ができる人よ」と伝えた。首脳間の信頼関係がなければ冷戦終結はあれほどスムーズに進まなかっただろう。

Uターンはしない

サッチャーの政治手法を端的に物語る演説がある。

80年、英南部ブライトンでの保守党大会。サッチャーは「小さな政府」政策を疑う不満分子に「もし逆戻りしたかったら、そうしなさい。淑女はUターンしない」と宣言し、「英国病」を克服する不退転の決意を示した。

サッチャーの死後、公式伝記を出版する英紙デーリー・テレグラフ元編集長、チャールズ・ムーアは「サッチャーは“代金を払う”という主婦感覚を財政に持ち込んだ。パン、卵、牛乳の値段をきっちり把握していた」と語る。

庶民感覚の有無が、支持率低迷に苦しむ現首相キャメロンとの大きな違いだろう。

サッチャーは雑貨屋の娘だった。雑貨屋の経営をそのまま財政政策に当てはめた。今風に言えば、「ペイ・アズ・ユー・ゴー」を実践し、極端に規制緩和を進めた。

サッチャーは財政赤字を削減。実質98%だった所得税最高税率は40%に引き下げられ、ストで失われた営業日も年間延べ2950万日から190万日まで減少した。

英国では電力会社、空港会社、サッカーのプレミアリーグにも外資規制は存在しない。規制は軍需産業のBAEシステムズとロールス・ロイスの2社に残るだけだ。大胆な外資導入は新自由主義を掲げたサッチャーが先鞭をつけた。

サッチャーのスピーチライターとして新自由主義を世に送り出した英保守党外交担当閣外相ハウエルは「私たちは世界の構造を変えようとしていた。市場経済を重視し、世界に革命を起こせると確信していた」と振り返る。

20世紀は国家がすべての問題を解決できるという「大きな政府」が主流だった。企業と市場、技術革新を原動力にすれば、英国経済を回復させられるというのがサッチャーの考え方だった。

ハンドバッグをよける?

冗談のような本当の話だが、サッチャーは激するとトレードマークのハンドバッグを振り回す悪いクセがあった。チャールズは「西ドイツ首相のコールはサッチャーが苦手で、私に伝言役を頼んだ」という。

チャールズは何度も身を屈めてハンドバッグをよけなければならなかった。

ハウは欧州共同体(EC)の機能強化を拒絶するサッチャーと対立し、サッチャー失脚の引き金となる議会演説を行った。側近の大量造反にあって首相の座から引きずり降ろされたサッチャーの目に涙が光った。サッチャーが女に戻った瞬間だった。

1949年、保守党の候補者になった23歳のサッチャー(当時はマーガレット・ロバーツ)は「戦争中は、すべては私自身にかかっているというスローガンがあった。いま、人々はそれを忘れ、他人次第だと考えている」と演説した。

サッチャーが信奉する自由主義の出発点は、国民1人ひとりが自分の足でしっかり立つことだ。独立不羈の気概を失った時、国家は衰退する。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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