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映画『強姦』。タイトルから想像するものは……多分、裏切られる

木村浩嗣在スペイン・ジャーナリスト
監督で主演のマディリーン・シムズ・フェウワー。強い決意が伝わってくる作品だ

原題は『Violation』。

和訳すると『強姦』となる。この作品は、目を背けたくなるテーマから決して目を背けない。ぼかしたカタカナタイトルを付けるのは、監督に失礼だろう。

「バイオレーション」や「レイプ」では、少なくとも日本語話者にとっては婉曲的に響く。言いにくい言葉をカタカナにして矮小化したりぼかしたりすることが、日常的に行われているからだ。

■日本語を英語にしてぼかす常套句

日本語にすると差別的だったり不快だったりすることを、英語にしてカタカナ化すれば、あら不思議、無害化されてしまう例はいくつもある。

日本語では駄目だけど英語だと平気、というのはおかしな話だが、現実にそうなっている。

ロマンチックな色と絵作りは、思いがけない展開への布石
ロマンチックな色と絵作りは、思いがけない展開への布石

例えば「ヘア」。

これの日本語訳は「陰毛」で、正式な医学用語でもあるのだが、なぜか使用を避けられている。日本語の方が言いにくくて英語の方が言いやすい、というのは、まさに日本語話者ゆえである。

一昔前には猥褻表現をめぐって「ヘア論争」なんてのがあり、評論家の呉智英は表現の自由を訴えながら、言い換えでぼかすメディアの矛盾を笑っていたものだ。

■レイプ→乱暴が矮小化なら…

最近の朝日新聞の記事に、『レイプを「乱暴」と報じて良いのか 記者が語り合うジェンダー表現』(2022年6月23日付け)というのがあった。その中の一部を紹介する。

ここから引用――

性暴力の取材に力を入れている乾記者は、報道でレイプをぼかして「乱暴」と表現することがあることを紹介。「メディアの取り扱いによって、被害が矮小(わいしょう)化されてしまう恐れがある」と話した。

――ここまで引用。

この主張に私は賛成だ。

「レイプ」を「乱暴」と言い換えたのでは、加害の残酷さや非道さが薄められ、被害が矮小化される、と私も思う。

だが、「強姦」を「レイプ」と言い換える方はどうなのか?

大自然の中で、心細げな様子に見えるが……
大自然の中で、心細げな様子に見えるが……

みなさんはどう思いますか?

言葉や表現をめぐる議論は微妙で、受け止め方が人によっても違うから、頭の体操になる。何となく流されていってしまっているが、立ち止まって考えてみると奥が深い。

■偏見を裏切るギャップが面白い

さて、ここから作品の話を少ししたいが、あらすじを紹介するのさえはばかられる。

というのも、監督2人(ダスティ・マンチネッリとマディリーン・シムズ・フェウワー)の意図が「隠すこと」にあるのが明らかだからだ。

2人の監督ダスティ(右)とマディリーン
2人の監督ダスティ(右)とマディリーン

題名だけが非常に直接的でそのものズバリなのだが、お話がそこへどう結び付くのかが最初はわからない。

フラッシュバックやフラッシュフォワードを多用し、わざと時系列を混乱させる語り口。断片的で、それだけでは何が起こっているのかわからない予告編。

いずれの演出も、すべては見てのお楽しみ、ということなのだろう。

題名から受ける印象と、作品が見せてくれるものは違う。

これまでの同ジャンルの作品とは違う描き方でもって、お話は思いもよらなかった方へ転がって行く。

が、それでいて、羊頭狗肉なんてことはなく、中身は題名にぴったり着地する。

視点の違いは、マディリーン・シムズ・フェウワーが監督と主演を兼ねていることと無関係ではないのだろう。

日本で公開されたら題名だけで劇場へGOである。

ポスター。劇中写真とのギャップが面白い
ポスター。劇中写真とのギャップが面白い

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※写真提供はシッチェス映画祭。

在スペイン・ジャーナリスト

編集者、コピーライターを経て94年からスペインへ。98年、99年と同国サッカー連盟のコーチライセンスを取得し少年チームを指導。2006年に帰国し『footballista フットボリスタ』編集長に就任。08年からスペイン・セビージャに拠点を移し特派員兼編集長に。15年7月編集長を辞しスペインサッカーを追いつつ、セビージャ市王者となった少年チームを率いる。サラマンカ大学映像コミュニケーション学部に聴講生として5年間在籍。趣味は映画(スペイン映画数百本鑑賞済み)、踊り(セビジャーナス)、おしゃべり、料理を通して人と深くつき合うこと。スペインのシッチェス映画祭とサン・セバスティアン映画祭を毎年取材

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