インフルエンサーへのネガティブなイメージを凝縮すると映画『ラ・ベロニカ』になる
あなたは「インフルエンサー」と聞いて何をイメージするだろうか?
私はSNSを一切やらず、ネットの世界でインフルエンス(影響力)を持っている人たち、と言われてもピンと来ないのだが、彼、彼女たちについての記事やレポートは時々目にするので、何となくのイメージはある。
それらのいくつかは、“注目を集めるために何でもする人たち、せざるを得ない人たち”、というネガティブな部分にフォーカスを当てていた。
私の情報源は新聞、テレビが中心なので、それら既存メディアの書き手やレポーターのやっかみが含まれているのは間違いない。既存メディアはとかく新メディアを、そこで活躍する人たちを悪く言うものだ。
自分をすべて売る覚悟
ただ、注目を集めることが収益に繋がるのであれば、中には“注目を集めるために何でもする人たち、せざるを得ない人たち”が出て来るのは必然だろう。
私が記事を書く。“誰にも読まれなくても良い”、なんて思わない。
タイトルや写真などで目を引く工夫をする。それは読んでもらいたいからだ。無人島で日記を書くとすれば、それは白骨死体となって発見された時に誰かの目に触れるかもしれない、という希望があるからだ。読まれれば読まれるほど良い、とも思う。
その意味では、“注目を集めるために何でもする人たち、せざるを得ない人たち”と私はよく似ているのだ。
違いは、どこまでやるか、だけ。
何でもやるか、それとも、何でもはやらないか。
映画『ラ・ベロニカ』の主人公は何でもやってしまう。自分が商品であり、自分の家族や友人が商品であり、自分の生活と人生が商品であることを自覚しているから。
主人公の過酷な自作自演
写真写りを気にかけベストショットを探す。素晴らしい毎日に見えるように、セリフを考えて小道具をそろえる。カメラは常に回っており、撮影後には画像とビデオをチェックして気に食わなければ撮り直しも厭わない。
まるで、映画の撮影である。
違うのは、主演は私、演出も私、シナリオも私、衣装もメイキャップも小道具も私、カメラもほとんど私、という点。舞台は彼女の毎日、実際の人生なのだが、ここまで作り込んであればフィクション同様である。
嫌だとか辛いだとかのネガティブな出来事は、カメラが止まっている舞台裏で起きる。涙を流していてもカメラが回れば偽の笑顔を見せないといけない。
しかも、視聴者の反応がリアルタイムで届き、人気不人気がすぐわかる。ファンは気紛れで、同じことをやっていてはすぐに飽きられてしまう。落ちた人気を回復するためには目新しさと、過激さを求めざるを得ないのだ。
こんな過酷な環境で創作を続けている人は、映画人にもいないだろう。
リアルを追求し映像が退屈に
主人公の生活が撮影活動そのものだから、レオナルド・メデル監督は、それをそのまま映画にしてしまった。
主人公が手取りや三脚で撮った映像をそのまま使っているから、彼女は常にフレームの中心にいてバストアップで写っているのだ。カメラはほぼ静止、フレームもほぼ固定。主人公の手足すら見えない映像が延々と続く。セリフは独白。
これはインフルエンサーとしての彼女のファンなら喜んで見ていられるのだろうが、インフルエンサーを描いた映画を見に来た私には退屈だった。
もう一つ、ストーリーが、インフルエンサーというものに私が抱いている偏見だらけの先入観を壊すものでなかったのは、残念だった。
人に影響を与えるのは簡単なことではない。美しい人の美しい生活だけではない、もっと他の何かがあるはずなのだ。
写真はすべてサン・セバスティアン映画祭提供