サン・セバスティアン映画祭最優秀作『ザ・ディザスター・アーティスト』。巨大な馬鹿げた行為はアートか?

ジェームズ・フランコ(右)のわざとらしい演技はわざとではなく、忠実な再現だった!

サン・セバスティアン映画祭で最優秀作品賞を受賞した『ザ・ディザスター・アーティスト』の日本公開がなかなか決まらない。

この受賞には批判があった。いわく、「映画祭で低く評価されがちなコメディに獲らせたかった」というのから「審査委員長がジョン・マルコビッチだったから」というのまで。要は、映画のクオリティ以外に理由があったというものだ。わかる気がする。この作品は壮大な「内輪向け映画」なのだ。

映画作りも演技も知らない素人が監督兼主演として600万ドルの私財を投入、『ザ・ルーム』を撮った。当然つまらない。興収はわずか1800ドルだった。が、度を超えたつまらなさを“史上最低映画”として笑ってやろうという輩たちが現れ、深夜上映などでカルト的人気を集める。有名人の中にも超駄作ゆえに高く評価する者がいて、『ザ・ディザスター・アーティスト』を撮って主演したジェームズ・フランコもその一人である。

素人が私財600万ドルという、真の愛

わからないでもない。

何もかもが常識的でコントロールされた今だからこそ尚更、我われはとんでもない馬鹿げた行為に魅かれるものだ。我われのできないことをやっているというだけで驚嘆(あるいは呆れる)に値する。『ザ・ルーム』の場合は作品の質の低さはもとより、600万ドル(今の相場で6億4200万円)というのも大きかった。6億4200万円である! これが、功名心に取りつかれた素人が500万円で自分の主演映画を撮って大失敗、というのならカルト的人気など出ていない。

馬鹿げた行為が壮大であるほど良いのは、巨額の投資が『ザ・ルーム』の作者の意図を純化するからでもある。

素人が600万ドルで、しかも私財。これを「映画への愛」と呼ばずして何と呼ぼう! 売名行為ならもっと安上がりな方法がいくらでもあるが、映画でなくては、監督兼主演でなくてはならなかった。監督としても俳優としても才能はゼロだったが、むしろ、その才能ゼロが愛おしくなる。

ジェームズ・フランコがそんな彼を尊重しているのは、タイトルに「アーティスト」と入れた点にうかがえる。駄目素人ではなく、「映画人の一員」、「映画をとてつもなく愛する者の一人」というのがあるのだろう。

不遇のアーティストを笑っていいのか?

とはいえ、『ザ・ディザスター・アーティスト』は私にとっては腹の底からは笑えないコメディだった。

理由の1つは『ザ・ルーム』の作者への同情によるもの。

詰まるところ『ザ・ルーム』のカルト的人気とは、理解不能の物語、どうしようもない演技、意味不明のディレクションを笑うことだろう。史上最悪の作品をみんなで集まって笑う。その笑いは嘲笑であるに違いない。

果して、『ザ・ルーム』の作者は笑い者にされてうれしいのだろうか? エンターテイナーとしては観客を楽しませることができれば本望なのか? 『ザ・ディザスター・アーティスト』では『ザ・ルーム』の名シーン(言い換えると駄目ぶりが笑えるシーン)が再現されており、私も最初は快調に笑っていたが、途中で『ザ・ルーム』の作者が気の毒になってしまった。

笑えなかったもう一つの理由は『ザ・ルーム』の作者を演じるジェームズ・フランコの演技があまりに酷過ぎて(つまり酷い作者の演技を上手に演じ過ぎていて)、わざとらしく見えて興醒めしてしまったから。

だが、こちらは私の大いなる誤解だった。ジェームズ・フランコは名演だったのだ。最後の方で、実際の『ザ・ルーム』の映像とそれを再現した『ザ・ディザスター・アーティスト』の映像が比較されて出て来て、驚愕する。両者はそっくり! つまり、『ザ・ルーム』の作者はジェームズ・フランコが演じる通りの並外れた大根役者だったのである。あれが誇張ではなくリアルだと判明した、ここが一番笑えた。

『ザ・ルーム』鑑賞済みなら爆笑は保証

『ザ・ディザスター・アーティスト』は『ザ・ルーム』未見でも楽しめるが、100%楽しむには、やはり『ザ・ルーム』を爆笑した経験が要る。すべてを了解済みで、作者への同情など抜きにして、ただ笑い飛ばそうという心構えが要る。そういう準備ができている人はやはり日本には少ないだろうと思う。

ジェームズ・フランコにはセクハラ疑惑があるが、この作品の日本公開が決まらないのは「質」の問題であって「人格」の問題ではあってほしくない。駄作を描いたこの作品は決して駄作ではなく、作品の質と人格の間には相関関係はない。それは、駄目作品『ザ・ルーム』の作者が駄目監督・駄目俳優であっても駄目人間ではないことが証明しているではないか。

※写真はサン・セバスティアン映画祭提供