『RAW』と『Caniba』。新旧シッチェス映画祭上映作で考える「カニバリズム」と「セクシャリティ」
昨年のシッチェス映画祭で見逃していた『RAW』を見る機会があり、今年の同映画祭で見た『Caniba』とともに考えさせられたことを書いておく。前者は少女が女になっていく過程を描いた映画で、後者はドキュメンタリーとジャンルは違うが、テーマは共通。カニバリズムとセクシャリティ。簡単に言うと、食人欲と性欲はどれほど近くて遠い欲求なのか、というものだ。
”失神者続出”? 目を背ければ済むじゃないか
『RAW』は『RAW~少女のめざめ~』という邦題で、2018年2月に公開が決まった。
“失神者続出”という宣伝文句で売っているようだが、実際に見れば失神するわけがないことがすぐにわかる。昨年のシッチェスでは宣伝文句に大いに期待していた観客から不満の声が出た。
シッチェスのファンは血に慣れているから? それもある。だが、そもそも見たくなきゃ目を背ければ済むことではないか。わざわざ見て失神することはない。
私も目を背けたシーンが1つあった。日本で公開も決まったことだし、それが何かは書かない。これが有名な失神シーンなのだろう。
だが、『キャリー』を思い出させる描写があっても、『RAW』はホラーではない。
出し抜けに衝撃シーンを見せつけて、怖がらせることを目的にしていない。あくまで成長物語の王道に則って、主人公が恐るおそるチャレンジする描写なので、そうなりそうな時に目をつむるタイミングと時間はたっぷりある。
『時計じかけのオレンジ』のように強制的に見せられたら、失神も嘔吐もある。だが、我われは安全な上映室にいるのだ。見ないことで自衛できる。
それに、刺身を食べる日本人には免疫がある。生の肝臓や鳥のささ身を口にするのは欧米人が見るとオェッとなるのだろうが、我われには抵抗がない。気分が悪くなんてならない。
男は食材に過ぎない、というフェミニズム
そんな怖いもの見たさが、この作品の売りではない。
最大の見どころは、「大学寮入り→新入生苛め→性の目覚め」というプロセスは王道中の王道であるものの、イノセントな殻を脱ぎ捨てる恐怖を、女性監督が女主人公の目を通じて描いているところ。少女が女になる時に何をどうするか? 何をどう強制されるか?を綺麗な映像で見せてくれる。
そういう意味で、これはフェミニズムの色が濃い女性による女性のための映画である。それを“失神者続出”では、メインの観客の足を遠ざけてしまう。
少女にとって恐怖の対象である残酷な男は、女となるために越えねばらない障害ではあるものの、性欲と食欲が足並みをそろえて目覚めるこの物語では結局は「食材」に過ぎない。単に腹が減っているから食べるというシーンもあるが、原則的には、性欲が湧かない相手には食欲が湧かないから、女のターゲットは男である。
「性欲と食欲が直結しない」という普通の人も、性交中の女主人公が感極まって相手を噛んでしまうという描写には、身に覚えがあったり想像できたりするのではないか。
”退席者続出”のショッキングではない理由
性別は逆だが、構造的には『Caniba』に登場する佐川一政も同じ。
性欲と食欲との境界線が無くなったことで、彼はパリ人肉事件を起こした。佐川と一緒に暮らす弟にカメラを向けたこのドキュメンタリーの上映中には、途中退席する者が観客の1~2割は出た。ただ、その理由は食人シーンなどではない。そんなシーンはそもそもない。
退席の理由はいくつか想像できる。
まずは作りの問題である。アップ映像だけの異常な緊張感と、説明不足で脚本もない長回し映像への退屈。
次に、残酷な事件を犯した人間が刑罰を受けず、こうして映像になったり食人シーンの漫画本を描いたりアダルトビデオに登場したりしていることへの嫌悪感や拒否感だ。
佐川は反省していない。当然だ。反省や後悔は正常な感情であり、それがないから罰を免除されているのだから。
人類学者が撮った意味はどこにあるのか?
このドキュメンタリーで私が唯一目を背けたのは、弟の方のある嗜好に関する映像だった。
この人も相当変わった人で、“人肉を食べたくても殺すことはなかった。殺さないで食べさせてくれるサービスだってあったんじゃないか”という意味のことをサラッと言っている。
上映会の前に挨拶に来ていた監督のルシアン・キャステーヌ・テイラー(バレナ・パラベルと共同監督)は、人類学者でもあるという。だが、このドキュメンタリーに人類学的に貢献し得る、記録としての意味が果たしてあるのかは疑問だ。
記録映像であればアップやピンボケの多用は要らないし、あれが演出であるのなら説明的ナレーションを入れたりする工夫も脚本もあってしかるべきだろう。
エンディングの愉快な歌に日本のカラオケ風に歌詞字幕を付けた意図は不明。最後に突然出て来るメイド服を着て世話をする女性(介護士?)も謎のまま。
題材のセンセーショナルさだけに頼っていては、佐川をネタに本やビデオを売って商売にしている者たちと同じではないか。