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「俺もここまで落ちたか…」 鄭大世のnote “劣悪なクラブハウス”大反響のその後

金明昱スポーツライター
FC町田ゼルビアのクラブハウスをバックに笑顔を見せる鄭大世(撮影・倉増崇史)

「俺もついにここまで落ちたか…」

 元北朝鮮代表FW鄭大世は、J2のFC町田ゼルビアに移籍した時、衝撃的な出来事に遭遇したという。

 その当時から現在までの心境をメディアプラットフォームのnoteに書いた記事が今年2月、大きな反響を呼んだ。

 タイトルは「いろんなクラブハウス」。彼はその記事で町田の環境が、他のクラブと比べてどれだけ“劣悪”だったのかを赤裸々に綴ったのだ。

 鄭大世は開口一番、興奮気味に話し始めた。

「noteの反響には本当にビックリです。チームメートからもたくさん声をかけられました。『親にこれを読めと言われた』とか『奥さんが読んで泣いていた』って言うんです。正直、泣かせるつもりはなかったのですが…。すごい反響のせいで強化部批判にならないか、クラブスタッフが悪い気を感じたらどうしようと心配のほうが大きかったです(笑)」

 プロ17年目の鄭大世は2006年に川崎フロンターレでプロデビュー。2010年南アフリカワールドカップに北朝鮮代表として出場後はドイツや韓国の海外クラブでも活躍、その後は再び日本に戻り、清水エスパルス、アルビレックス新潟を経て、FC町田ゼルビアに昨季加入した。

 これまで練習参加や所属したクラブを含めると「10」のクラブハウスを見てきたという。各国、各クラブに“違い”があるのは当然だが、中でも町田の環境は過酷だった。

【参照】:鄭大世のnote「いろんなクラブハウス」

 ただ、昨年秋に新グラウンドと今年2月に新クラブハウスが完成し、「選手が成長できる環境が整った。あとは選手が結果を出すだけ」とnoteに綴っている。

 FC町田ゼルビアが歩んできた歴史に敬意を表した“クラブ愛”があふれる内容に加え、クラブハウスの“あり方”についても考えさせられるものだった。

今年2月に完成したクラブハウス。新国立競技場を設計した建築家の隈研吾氏がデザイン(撮影・倉増崇史)
今年2月に完成したクラブハウス。新国立競技場を設計した建築家の隈研吾氏がデザイン(撮影・倉増崇史)

練習中に飲んでいた水は“水道水”の衝撃

 実際に訪れたFC町田ゼルビアの新クラブハウスは壮観だった。Jリーグ屈指と言っても過言ではない。

 デザインしたのは新国立競技場を設計した建築家の隈研吾氏で、オシャレな外観に光が差し込む玄関から開放感にあふれている。

 中には広々としたトレーニングルームに食堂、選手ロッカーからシャワールームまですべて完結できる環境が整っている。

 クラブハウスの目の前には、青々と茂った天然芝のグラウンドが広がっていた。サッカーに専念できる抜群の環境だけを見れば、J2のクラブとは思えない。

 しかし、現在の環境が整う前は、衝撃の連続だったという。

「自分は感受性が強いタイプで良くない環境に入った時に、ネガティブな感情が渦巻くんです。中でも水はかなり衝撃的でした。練習で出される水はミネラルウオーターだと思いますよね? 味が変だなと思って、マネージャーに聞いたら『水道水です』と。ある日、パッと見たら公園のグラウンド横の水道で入れている。『今までずっとそうだったの?』と聞くと、『はい、そうです』と。マジか!と心の中で思いました。自分は情報感度が高いので、水道水の危険性もある程度知識があるんです。これが部活だったらまだ分かります。今までのクラブではミネラルウオーターでしたし、水道水はあり得なかった」

 ショックだったのはこれだけではない。

 クラブハウスが完成する前までは倉庫がトレーナールーム、選手のロッカーはなくパイプ椅子が自分の居場所、駐車料金は自分で支払い後日精算、練習着やスパイクも選手自身で管理していたという話は、予算の厳しいJクラブの現実を突きつける。

 しかし、すべて受け入れるしかない。鄭大世自身がそれをよく理解していた。

「いろいろ思うことはあっても、文句を言えないじゃないですか。そういうクラブでプレーしているのは自分だし、もっといいクラブでの契約がないから、ここにいる。かなりネガティブな言い方になりますが、それはすべて自分のせいです。これは自分の中で消化しなきゃいけないと思ってやっていました。でも、人間ってすぐに(環境に)慣れるんです」

 そう笑っていたが、やきもきした思いで歯を食いしばっていた姿が想像できる。

無名の学生時代からJ屈指のストライカーと成長した鄭大世。「環境はものすごく大事」と強調する(撮影・倉増崇史)
無名の学生時代からJ屈指のストライカーと成長した鄭大世。「環境はものすごく大事」と強調する(撮影・倉増崇史)

“気合”と“根性”だけでは、結局は続かない

 彼は学生時代に「最高の環境の中でサッカーをした」経験がない。小中高と通った朝鮮学校では水はけの悪いデコボコの土のグラウンドで、全国大会には一度も出場したことがない無名選手。朝鮮大学時代はスカウトの目が届かない東京都大学リーグ3部にいた。

「こんな僕がプロになってここまでやれているのは、みんなに感謝しなきゃいけない。本当なら僕が『環境なんて関係ない』と言わなきゃいけないタイプの人間。それなのに『環境ですべて決まる』と言ったら元も子もないですよね(笑)。でも、やっぱり環境が大事なんです」

 人目につかない場所から這い上がり、J屈指のストライカーとなりワールドカップ出場も経験した。「環境が選手を作る」ことを痛いほど感じる場面が多かったからでもある。

 だからこそ、聞いてみたかった。noteの中で「最高の環境が最高の選手を作る」とプレミアリーグの名門アーセナルで22年間監督を務めたアーセン・ベンゲル氏の言葉を引用し、それがすべてだと言い切る理由についてだ。

「“気合”と“根性”だけでは、結局は続かないという限界を僕は知っています。“気合”と“根性”なんて、上の人の言い訳です。環境を用意できないから、気合でどうにかしろというのは、怠慢だと思うんです」

大友社長「“しつらえ”をしっかりしないと、良い選手は来ない」

 クラブ側はどのように受け止めていたのだろうか。

 黎明期から現在までのFC町田ゼルビアを知る大友健寿社長は「僕は反響を最初知らなかったんです」と笑う。

「『テセ選手のnoteを見たよ。涙、涙だよ』という声がたくさん届きました。その反響に驚きましたし、ありがたいと思いました。選手に当たり前の環境を準備できていないのは、ずっと分かっていたことでしたし、申し訳ない気持ちでした。どのような部分に衝撃を受けているのかを選手から聞いたりすることはありませんでした。『あ、こういうことか』と…。テセ選手がチームに来る前から、ずっとそのような環境でやらせてしまっていたことを認識もしました。今までうちに携わってきた選手たちの顔が浮かびましたよ。一方で、テセ選手がクラブ関係者たちの努力にも触れていただいたことには、報われた気持ちにもなって、とても感謝しています」

 鄭大世は前述した水道水の問題しかり、今まで経験したことがなかった環境について書いたが、最後はクラブハウスやグラウンド完成までのスタッフたちの涙ぐましい努力に対して、感謝の言葉で締めくくっている。

新グラウンドをバックに笑顔を見せる大友健寿社長(撮影・倉増崇史)
新グラウンドをバックに笑顔を見せる大友健寿社長(撮影・倉増崇史)

「環境が選手を育てる」という意見について、大友社長にも聞いた。

「私は“しつらえ”をしっかりしないと、良い選手は来ないと思っています。どこのクラブで戦うのかは、選手が決めることです。スタジアム、クラブハウス、グラウンドも一つの選択肢でしょう。もしかしたらクラブのビジョンも選手は見ているかもしれない。それらを判断基準の一つにしているのであれば、環境を準備することは大事なことと考えています」

 ただ、チームを強化するための施策は数多くあれども、環境整備はその中の一つにすぎない。大友社長はこの次を見据えている。

「やはり育成です。アカデミーにもしっかりと投資していかないといけない。ただ、恥ずかしい話、アカデミーも行政のグラウンドをお借りしながら、やらせてしまっています。環境が選手を育てるという意味からいくと、そこも整えていかなければなりません」

 鄭大世の一つの発信を機に気づいたことも多く、「それにしても彼(鄭大世)は伝えるのがうまい」と笑っていた。

クラブハウス完成で変わった選手の意識

 新グラウンドと新クラブハウスの完成で、チームの雰囲気は大きく様変わりした。ハード面の強化に応えるかのように選手も奮闘し、今季J1昇格を目指す町田は5勝3分2敗の2位で好調を維持(第10節終了時点)。38歳になる鄭大世もチーム最年長ながら、ここまで2得点を記録しチームの勝利に貢献している。

「去年はグラウンドが1面しかない環境で、公園の土みたいな悪い状態だとパスサッカーもできなかった。今はすぐ強化につなげることができる。やっぱりクラブハウスの力はむちゃくちゃ大きい。これこそ環境のなす業じゃないですか」

 鄭大世は最後に「これは自分の仕事じゃないから」と前置きしつつ、「一つだけ一生懸命に頑張って変えたことがあります」と教えてくれた。

「試合にマネージャーが(頭髪用の)ジェルを持っていく。そんなことをすごく手間をかけて、できるようにしたんです。1~2個で1000円前後の金額です。GMと掛け合って予算をもらってジェルを買い、試合にも持っていくチームになりました。僕が変えたことはそれくらいです(笑)」

 元々は選手一人ひとりがジェルを持参していたのを、チームが管理することになっただけ。選手がやるべきことではないだろうが、こうした小さな手間が解消されれば、選手の負担が減る。これも鄭大世が声を上げなければ、変わらなかったことだ。

「最高の環境を手に入れた今は、毎日が幸せです。10段階でいえばマイナス5から8まで上がりました。残りの2は試合の成績次第です。今季は3連勝もありましたから、環境が整った影響もあるでしょう。ただ、それがすぐに結果に直結するかと言われたら難しい。とにかく、それぞれが自分に用意された環境で全力を尽くして、トップコンディションに持っていく。そうすれば自然に強くなるというのは僕も感じています」

 幸福度を「10」にする戦いに鄭大世はこれからも挑み続ける。

38歳の鄭大世は町田ではチーム最年長。貪欲にゴールを狙う姿勢は今も変わらない(撮影・倉増崇史)
38歳の鄭大世は町田ではチーム最年長。貪欲にゴールを狙う姿勢は今も変わらない(撮影・倉増崇史)

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スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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