Yahoo!ニュース

「やる気がなくてもいい」東京五輪への不安をメンタルトレーニング指導士・田中ウルヴェ京さんに聞く

金明昱スポーツライター
選手への影響について語ってくれた田中ウルヴェ京さん(写真・マネジメント事務所)

 東京オリンピックの開催まで約140日と迫った。

 新型コロナウイルスの感染拡大で、2020年開催予定の大会が1年延期となり、現在も中止や延期の議論が取りざたされ、聖火リレーをどのように行うのか、有観客か無観客かもまだ決まっていない。

 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の橋本聖子会長が就任のあいさつで「アスリートファーストの視点を忘れることなく、全力をつくしたい」と、決意を述べていたが、不確定な要素があまりにも多く、大会の主役でもある選手たちは、見えない不安と闘う日々が続いている。

 選手たちにはどのような影響が及んでいるのか――。ソウル五輪シンクロ・デュエットの銅メダリストで、現在は国際オリンピック委員会(IOC)マーケティング委員、メンタルトレーニング指導士として活動する田中ウルヴェ京さんに、アスリートに及ぶメンタル面での影響や対策などについて話を聞いた。

■五輪開催前提で選手は練習に励んでいる

――今も東京五輪の開催について、国内の世論は否定的です。こうした状況について、どのように見ていますか?

 まず大前提として、五輪に関わっている選手やコーチングスタッフなど参加しようとしている側にとっては、現在の状況だと「開催する」という決まりにのっとって日々の練習やトレーニングに取り組んでいます。メンタルトレーニングスタッフとしての私自身もそうです。世間の声は中止や延期という声がありますが、現時点で「中止」という話は出ていません。ここで大事なのは、「今、決まっていることは何か」ということです。メディアでも「まだ決まっていない中で」とよく言うのですが、IOCでは“開催”と言っています。ただ、「本当に開催できるのだろうか」と聞いてくる選手は多いです。そんな中でも選手やスタッフたちは、必死に練習をしているという状況であることが前提としてあります。

――東京五輪の延期決定後の去年5月、IOCがおよそ4000人の選手に行ったアンケート調査では、約半数が「やる気の維持が困難」と回答しています。やはり、そのような選手が多いというのが現状なのでしょうか?

 この調査の目的は、選手たちにどのような心理的な課題があるのかを知るためです。今、各国のオリンピック委員会は特に“メンタルヘルス”というカテゴリーでさまざまな研究をたくさん行っていて、日本オリンピック委員会(JOC)でも実施しています。そこでは当然、「(五輪の延期などが)選手たちに悪い影響がある」という答えも研究結果として出るのですが、逆に“良い影響”があった選手もいるわけです。そこはしっかりと結果を俯瞰して見なければなりません。

――五輪が開催延期になったことで、選手によって“良い影響”があるとは具体的にどういう意味ですか?

 「選手たちはみんな不安だ」と結論付けるのは、あいまいな言い方でしょう。夏季競技だけを考えても、競技の種類によって、当然、個人によって、それぞれ取り組む内容や時期が違うので、極端な言い方をすれば、「ラッキーな人もいれば困る人もいる」ということです。実際に「延期になって本当に困った」という選手が多い反面、「去年、(五輪が)延期になって本当に良かった」という選手もいます。選手の状況によって違うということです。

――それは本番を迎えるタイミングで、選手個人のコンディション状況が影響しているということでしょうか?

 そうです。悪い影響がある選手たちのことを考えれば、「延期でラッキーだ」などという言葉は外には出ません。例えば、体力も技術も伸び盛りの選手の場合は、「まだ自分の技能が十分じゃない」とか、「来年だったら間に合う」という選手もいるわけです。しかし、ベテラン選手の場合は難しい。年齢的にも身体的にも現役を続行するか否かの決断を迫られる選手が実際に多い。でも、幸か不幸か、こんなケースもありました。2020年の1月にケガをしたベテラン選手が、五輪の7月にはベストコンディションは不可能となったのですが、延期になって回復する機会が得られたわけです。当然、選手自身が“ラッキー”なんて誰にも言いませんが、「このケガはちゃんと確実に治せる」という選手もいました。こうした選手には、“不安な一年延期”ではなく「幸運な一年延期」であるわけです。

■“不確実性”というストレス

――世間一般的にはアスリートの様々な状況を想像しにくいので、五輪延期でほとんどの選手が困っていると思いがちです。とはいえ、不確定要素の多い東京五輪に対して、モチベーションを上げるのはすごく難しいと感じます。

 今は「五輪開催する」という前提で練習していますが、どの選手にも共通して非常に大きな“不確実性”というストレスが生じているのは事実です。これは「開催すると言われていても、(新型コロナウイルスを)コントロールできないよね」と選手自身が分かっていること。世界中のコロナ禍が収束しないと、五輪の開催はどうなるか分からないと知りながらも、選手たちはそこを目標に向かっている。この状況は選手にとっては初めてのこと。明確な目標設定をしてきたアスリートが、今は不明確な目標に対して動いています。それはすごくきついことだと、選手やコーチの話を聞いていて痛感します。

――田中さんの下にはどのような相談がありましたか?

 一番多いのは「やる気がない…」という相談です。でも、結論から言えば「やる気がなくてもいい」のだということを、「やる気」という言葉の定義から説明します。「やる気には種類があること」「大事なことは行動の継続であって、やる気を出すことではないこと」などを選手と一緒に気づき、行動指針を作っていきます。しかし、これまでの30年近くのメンタルトレーニング相談では出てこなかった相談は、「試合がないことによる気分の落ち込み」です。世界一を取り続けているようなトップアスリートからもこの相談はきます。これまでは当たり前のように存在した「試合」ですが、練習試合を含めほとんどの試合が中止、延期のなか、つくづく「自分にとっての試合の意味」に気づく選手は多いです。元々、練習は何のためにするのかといえば、勝つためではなく、試すためです。「試合」という漢字は「試し合い」と書きますよね? 今まで練習してきたことを試す場所がどれだけ大事だったのかと語る選手を見ると私も悲しくなります。試合がないのは、一番つらいことのようです。

――実戦経験や練習不足による不安、五輪を目指すのがダメなことだと思ったりする選手もいると思います。

 実際にその場所や地域で練習をすることが難しくなったので、メインの練習拠点を変えた選手もいます。その理由は、金銭的な問題もありましたが、2020年までは支援を受けられたけれども、それ以降はサポートを受けられないからといったものもありました。一方で、海外遠征に行けず、地元で地道に練習するしかなくなってしまい、当初は「海外遠征に行けないこと」にストレスを感じていたものの、「できないことにストレスになることは無意味だ」と捉えて、地元での練習に意識を向け、結果的に、ご自身の技術の精度をあげられるようになった選手もいます。

――コロナ禍で試合が少ない今は、目の前のことをしっかりやるしかないと?

 正論ではそうなります。しかし、どんなに行動継続を淡々とできていても、「頭のどこかで、オリンピックがなくなるかもしれないという不安はずっとありますよね」と言う選手は少なくありません。そもそも、その不安は解決できません。メンタルトレーニングの面談でどの競技でも重要視しているのは、「今の時期は、自分ならではの解決能力を養っている最中だ」ということです。「よく考えれば、こんな経験やりたくてできるもんじゃないし。逆に課題が多くて良かった。それだけ解決能力の工夫が増えます」と言ってくる選手はいます。本人がそう話すまでには時間がかかっても、その言葉を本人が言った時、その選手にとって「集中する場所」が定まります。

■ポジティブな行動を“作る”ことの大切さ

――そうした前向きな思考でいることが、競技や技術の向上にもつながるということでしょうか。

 どんなことに対しても「前向き」でいることは大事ですが、一方で、「前向き」という言葉には注意が必要です。たとえば、心身共につらい状況にいる時、常に前向きでいなければいけないと思いすぎると、身体に支障が出る選手はいます。心を調整ではなく、抑制という意味でコントロールしようとすると、体がついていかない。心技体という言葉がありますが、どれも連動しています。環境的に様々な不都合があるこんな時期には、選手には“ネガティブに気づく”能力あるいは“ネガティブを利用する”能力も必要です。

――ネガティブな状態でもいいというのは?

 例えば、俺はこんなふうにジメジメした気持ちになるんだな、やる気がないよな、ないに決まっているよな、オリンピックがあるかどうか分からないんだからとか、本当は面倒くさい、競技に対してイラつく気持ちがある、というような、正直な感情の自分にはけっこうネガティブなことは多い。しかし、どんなにネガティブな感情であろうと決して悪いことではありません。むしろ気づかないことにする方が事実から目を背けているということになる。選手であれば、「事実を見ないこと」がどれほど自分に損であることかはよく知っています。しっかりと自分のネガティブを知れば、その課題ごとに解決策やポジティブ(最適)な行動を作ることができるということです。大事なのは「ポジティブになろう」ではなく、「ポジティブ(課題にあった最適)な行動を作る」こと。ネガティブな感情にしっかり気づける選手は、ポジティブな行動を作れるものです。

――日本での選手たちのメンタルサポート体制や選手のニーズはどのようなものですか?

 選手自身がメンタルサポート体制のニーズに気づくには、そもそも「メンタルサポートとは何か」を知る必要があります。たとえば、もしも選手が「メンタルサポートって、メンタルの弱い選手が指導してもらうものでしょ」という理解しかなければ、「自分はメンタル強いから必要ない」と思うでしょう。選手時代の私がそうでした。しかし、フィジカルトレーニング同様、メンタルトレーニングにも様々な種類があります。またトップアスリートのメンタルには、少なくとも大学院修士を終えたスポーツ心理学の専門家が携わるわけですが、メンタルトレーナーによって専門領域も違います。国内外でのスポーツ心理学の研究も実践もたくさんありますし、メンタルサポートのニーズもありますが、まだまだ日本では政策に反映させていくには時間がかかっているのが現状です。

■選手はネットやSNSとどう付き合うべきか

――五輪開催のプロセスに向けて、選手たちに届く情報が少ないと感じます。それが不安にもつながると思うのですが、ネットニュースやSNSとはどのように向き合うべきでしょうか?

 五輪開催へのプロセスに向けての情報は、様々な形で日本オリンピック委員会や各競技連盟を通して選手に届く時代です。これらの内部での情報を選手が自宅にいても得られるようになっていることは情報化社会における良い側面です。同時に、実際にいくつかの競技団体やコーチから、「情報を整理する」ことを実施してほしいというオファーがありました。それは管理ではなく、“リテラシー”です。情報を的確に理解、解釈するということ。選手たちは人間の心理として、見なくていいとわかっていることでも見ますよね? 「見る」が前提なので、「どんな情報も見たときにどう捉えるか」です。コロナが大変だ、オリンピックなんてするもんじゃないというような批判を見たときにどう捉えるかを作っていくことが大事です。

――制限して見せなくするよりも、あえて見たうえで自分で判断し感情をコントロールするということですか?

 どんな情報を見ようとも、「自分ができることはなにか」です。簡単に言うと、その情報を自分で「コントロールできるものなのか、できないものなのか」ということだけです。人の中傷は残念ながらコントロールできないものです。そもそも心理学で考えれば、「他人への中傷をやめられない人」には、その人自身に解決すべき課題があるにすぎません。自分では変えられない他人の行動に意識を向けても解決行動は作れません。一方で、選手のなかには、「批判ではないものを批判と捉えてしまう」時もある。そんな場合は選手本人に解決すべき課題があるということになります。

――東京五輪は規模の縮小や無観客になるのかなどの懸念もあります。それでも全力を尽くすことが本分と捉えるべきでしょうか?

 もしも選手にそう聞かれたら、「なぜそう思いますか?」と聞くでしょう。「どう捉えるか」に正解はなく、「どう捉えると自分は腑に落ちるか」です。

 今も選手たちからの相談は多く、2022年北京オリンピックも開催するのかどうかという質問もあります。私が選手たちと話していて感じるのは、「何がなんでも開催してほしい」と思っていないということです。ある選手は「試合はしたいし、結果も出したい。けれども、それは自分のことだけ考えている。私のおじいちゃん、おばあちゃんのことを考えたりすると、命と私の目標とどっちが大事なのか。どっちも大事」と言います。それに「(五輪に)命を懸けている」という言葉自体も、最近では本当に申し訳ないと言う選手もいます。「命」という言葉を大切に使うようになった印象を受けます。また、「命を懸けてと言うけれど、誰の命を懸けているんだろう」という選手もいました。選手は様々な気持ちを抱えながら、日々やるべきことを淡々と続けているようにみえます。

――最後に、東京五輪を目指す選手へアドバイスをお願いします。

 東京五輪の開催は進んでいますが、新型コロナウイルスは誰もがコントロールできない状況です。先はなかなか見えません。ですが、競技を引退して30年以上たった私もそうだったように、引退した選手に聞いても確実に1つだけ言えることがあります。引退後の人生で身をもって役に立っているのが、毎日ベストを尽くしてきたと思える“自信”です。メダルを取ったことやベストタイムを出したという自信だけではなく、それ以上に、「私は日々継続してきた人間だ」と思えていることが一番の自信になります。どんなときでもどんな日でも、「継続する」「日々やり遂げる」ということは今まさにやっておられることだと思います。先は見えませんが、今やり続けていることの意味はあります。ぜひ健康には気をつけて、日々自分のできるベストを続けていきたいと私自身も思っています。

■田中ウルヴェ京

1967年、東京生まれ。1988年ソウル五輪シンクロ・デュエットで銅メダル獲得。89年~99年、日本代表チームコーチ、アメリカ五輪ヘッドコーチアシスタント、フランス代表チーム招待コーチなどを歴任。91年より渡米し、95年米国セントメリーズカレッジ大学院で修士号を取得、アーゴジー心理専門大学院、サンディエゴ大学院で、合計6年半に亘り、認知行動療法や競技引退後の心理、パフォーマンスエンハンスメントを学ぶ。2001年帰国後、日本スポーツ心理学会認定スポーツメンタルトレーニング上級指導士として、プロスポーツ選手や日本代表選手などトップアスリートからビジネスパーソン・一般層までメンタルトレーニングを指導、心理学をベースにした企業研修や講演等を行う。2017年国際オリンピック委員会(IOC)マーケティング委員に就任。IOC認定アスリートキャリアプログラムトレーナー、スポーツ庁スポーツ審議会委員を務める。また、報道番組でレギュラーコメンテーターを多数務めている。フランス人の夫と一男一女の母

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

金明昱の最近の記事