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「マラドーナと一緒にプレーをした最後の日本人」が語る“神の子”とマッサージ室での知られざる秘話

金明昱スポーツライター
2006年の記念試合。マラドーナの左にいるのが亘崇詞氏(写真・本人提供)

 ディエゴ・マラドーナと一緒にプレーをした最後の日本人がいる。

 亘崇詞(わたり・たかし)。現在は日本女子サッカーリーグに加盟する岡山湯郷Belleの監督兼ジェネラルマネージャーを務めており、48歳にしてS級ライセンスを受講中だ。

 亘氏はマラドーナに憧れて、1991年に単身アルゼンチンに渡り、ボカ・ジュニアーズとプロ契約を結んだ。

 その過程でマラドーナと出会い、同じチームでプレーする機会も得るという夢のような時間を過ごした人物でもある。

 60歳でこの世を去ったマラドーナ。アルゼンチンという国とマラドーナに魅了された亘さんに、知られざるエピソードについて聞いた。

マラドーナに会いたい一心

 マラドーナが亡くなったという一報は、とても悲しい出来事でした。

 僕がアルゼンチンに渡ったのは、ボカ・ジュニアーズに入ることではなくて、「マラドーナの国を知りたい」、「マラドーナに会いたい」、「マラドーナがいるクラブってどんなんだろう」と思ったからでした。

 そんな思いが強くなったきっかけは、マラドーナが出場している1978年のアルゼンチン対オランダの親善試合でのプレーをビデオで見てからです。

 一人だけ次元が違っていて、それに衝撃を受けました。それと1986年メキシコ・ワールドカップ(W杯)での映像ですよね。

 私も身長がマラドーナと同じくらいなのですが、こんな小さくてもこんな風にできるスポーツがあるんだと。「アルゼンチン=マラドーナ」ってなるのはすごいなと。

 私がマラドーナに初めて会ったのは、ボカ・ジュニアーズのユース時代の1991年。

 当時、マラドーナはイタリアのナポリでプレーしてたと思います。オフシーズンに時々ボカの練習に来ていたんです。それで運よく会うことができたんです。

 正直、会えた瞬間、夢が叶ってしまったわけで、それで胸いっぱいになってしまった。そこが私のダメなところなんですけれどね(笑)。

 実際にプレーしてみてわかるのは、オーラが他の選手はまったく違うこと。どこから行ってもボールは取れない。岩みたいだとみんな言っていましたが、まさにその通りです。

マラドーナと同じチームでのプレーは夢のような時間だった(写真・本人提供)
マラドーナと同じチームでのプレーは夢のような時間だった(写真・本人提供)

「サッカーって偉大だね」

 正直言うと彼のプライベートは破天荒でした。メディアと対立してしまったり、時には悪く伝わることもありました。

 しかしいつでも彼の生き方は、人を魅了する魅力にあふれていました。

 それを一番に感じた出来事があります。

 私は2006年、ペルーのクラブチーム(スポルティングクリスタル)に在籍していました。

 50周年記念トーナメントが行われることになったのですが、当初はペルー代表と私たちのクラブチームで試合を行う予定でした。そしたら、いきなりマラドーナのチームとやることになったと聞いて驚きました。

 予定していたものをすべてマラドーナの一存で変わり、結局、ペルー国内の選手たち対マラドーナが作り上げたチームの試合になってしまったんです。

 そしたら、僕はなぜかマラドーナのチームに入ってしまった。予想もしていない出来事で本当に驚きました。

 半信半疑でしたが、ユニフォームもちゃんと用意してくれていて、久しぶりに出会ったマラドーナは「おお、お前か。大きくなったな!」って言われてうれしかったですね。

 それだけでないんです。マラドーナがマッサージを受けているときに私から話しかけました。

「僕、日本人なんですよ」

 そしたらマラドーナが、「おお、知ってるさ。中国人でもない。君は日本人さ。日本にもいい思い出がたくさんあるよ」って言ってくれました。

 あまりにもうれしくてこう返しました。

「僕のような日本人が、あなたに憧れてアルゼンチンを知り、なぜかペルーに来て、あなたとサッカーができる。こんな夢みたいなことがあるなんて信じられないです」

 マラドーナは「素晴らしいことだよね。サッカーって偉大だね」と笑顔を見せてくれました。

 その時間だけ、マラドーナには自由なひと時でした。それ以外はどこに行っても、サイン攻め、写真撮ってくれだの本当に忙しい人だったので、素顔を初めてみた瞬間でした。

 とてもフワっとした時間というか、めちゃくちゃいい人。でも一歩外の世界に出ると歓迎される一方で、利用する人も多かった。

 晩年は病気して、足も不自由な状態になって、監督もやっていたけれども車イス生活でしたから……。とにかく光と影をずっと見てきた人。心休まる時間があまりなかったのかもしれません。

指導者になったあともマラドーナと出会う機会があった(写真・本人提供)
指導者になったあともマラドーナと出会う機会があった(写真・本人提供)

「人間臭さと人情味にあふれる」

 よく1986年のメキシコW杯の話がクローズアップされるのですが、アルゼンチンはまったく期待されていませんでした。

 その前の大会のW杯は、マラドーナを中心としたチームで優勝候補と言われたのに結果を残せなかったんですね。

 1982年はアルゼンチンとイギリスとの間で3カ月の戦争(フォークランド紛争)があったんです。

 若い人たちが多くこの戦争で亡くなっています。イギリスからは遠く離れたアルゼンチンのすぐ隣に位置するマルビーナス島を巡っての戦争で敗北し、土地を奪われました。

 日本で言う北方領土返還問題に類似しています。

 1986年W杯はその戦争の4年後で、アルゼンチンは準々決勝でイングランドと当たります。

 それは両国民とって負けられない因縁の対決だったのですが、それをマラドーナが“神の手”と“5人抜き”ゴールを決めて、2-1で勝った。

 国同士に出来上がったダービーマッチで歴史的に最高なゴールを決め、戦争で敗者となったアルゼンチン国民の士気を高めました。

 そういう社会的背景もマラドーナが“神の子”と言われる所以です。

 ピッチでも観客に魅せるプレーで盛り上げるのも忘れない。破天荒な一面もありますが、人間臭さ、人情味にあふれる人でした。

 僕のようなアジア人が、アルゼンチンに行ってしまうくらいですから。最後は世界中の人たちに夢を与えてくれてありがとう、と伝えたいです。

<プロフィール>

亘崇詞(わたり・たかし)/1972年生まれ、岡山県出身。サッカー指導者。1991年、マラドーナに憧れて単身アルゼンチンに渡り、ボカ・ジュニアーズとプロ契約を結ぶ。高原直泰がボカに加入した際には通訳を務めた。東京ヴェルディのジュニアユース監督、日テレ・ベレーザのコーチ、中国の広州女足の監督などを経て、2016年から日本女子サッカーリーグに加盟する岡山湯郷Belleの監督兼GMに就任。

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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