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朝ドラ「エール」モデル古関裕而秘話 電話番号にまで込めた音楽愛を、東宝時代の関係者に聞いた

木俣冬フリーライター/インタビュアー/ノベライズ職人
(写真:INGRAM PUBLISHING/アフロイメージマート)

「エール」の主人公・裕一(窪田正孝)のモデル・作曲家・古関裕而は、ラジオドラマやプロ野球や甲子園のテーマ曲から、オリンピックマーチなど日本人が愛唱する歌をたくさん作ってきた。5000曲以上にも及ぶ作品のなかには映画や演劇の音楽も多くある。

戦後、古関と組んだ作家は、演劇界のレジェンド・菊田一夫。「エール」では、彼をモデルにした池田二郎(北村有起哉)と裕一がコンビを組んで、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」「君の名は」をヒットさせたのち、活動場所を舞台へと移し、森光子主演の「放浪記」をはじめとして多くの作品をつくる。

じつは、菊田一夫と古関裕而は、ブロードウエイミュージカルを日本で初演した功労者でもあった。1964年の東京オリンピックの前年に、かの名作「マイ・フェア・レディ」を菊田の演出・製作、古関の音楽監督・指揮で日本初上演。さらに名作映画「風と共に去りぬ」の舞台化も手掛けた。いわば、いま人気の東宝ミュージカルの礎を築いたのである。

「エール」に山崎育三郎、吉原光夫、古川雄大、井上希美、柿澤勇人等、ミュージカル俳優がたくさん出演していることにちなみ、「エール」クライマックスをもっと楽しむために、モデルになった古関裕而と菊田一夫の挑戦について、ふたりと仕事をした東宝プロデューサー・宮崎紀夫さんに話を聞いてみると、ふたりの作品と紅白歌合戦に関する興味深いエピソードも飛び出した。なかでも、電話番号にまつわるエピソードは古関の人柄を感じさせる。「エール」では駆け足で語られる、東宝時代のお話(「エール」ではエンターテインメントの会社・東都として描かれている)、どうぞごゆっくりお読みください。

菊田一夫と古関裕而と「マイ・フェア・レディ」

宮崎:「エール」がはじまる2年半前、NHKの方に取材を受けているんです。朝ドラの取材であるということは一言もおっしゃいませんでしたが。そのとき、今日と同じく「マイ・フェア・レディ」のプログラムなどをお見せしながら当時の話をしました。僕は、昭和22年、小学1年生で、ラジオで「鐘の鳴る丘」を聴くのが唯一の楽しみでした。「♪緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台……」この歌声と共に放送劇に聞き入り様々な状景や人物のメージを膨らませていました。それが僕の原点です。ドラマが始まる前に、「菊田一夫作、古関裕而音楽」これだけは毎回、アナウンスされたんですよ。まさかその十数年後にこの「マイ・フェア・レディ」で菊田先生と古関先生と一緒に仕事するとは思ってもいませんでした。このときのプログラムがこれなんです。

「マイ・フェア・レディ」のプログラム表紙  宮崎さん所有 (c)東宝
「マイ・フェア・レディ」のプログラム表紙  宮崎さん所有 (c)東宝

宮崎:これは古関先生がちょっと隠れちゃっているんだけれども、菊田先生だけが写っている写真ですね。後ろにいらっしゃるのが古関先生です。そして、これが舞台稽古のときだったかに撮影した集合写真。菊田先生の隣に古関先生が写っています。ほかに、江利チエミさんと高島忠夫さんなどの俳優たちと、舞台美術家の伊藤熹朔さんなどメインスタッフが全員そろっています。これはいつも私の仕事部屋に貼ってあって、今日は外してきました。僕は一番後ろにいます。

マイ・フェア・レディ」集合写真 最前列真ん中に菊田さんと古関さん 宮崎さんは1番後ろ 宮崎さん所有 (c)東宝
マイ・フェア・レディ」集合写真 最前列真ん中に菊田さんと古関さん 宮崎さんは1番後ろ 宮崎さん所有 (c)東宝

――「マイ・フェア・レディ」が上演された1963年、この時、宮崎さんはおいくつでしたか。

宮崎:23歳かな。東宝に入社して「マイ・フェア・レディ」(1963年)が2本目でした。僕が最初に関わった作品は「ブロードウェイから来た13人の踊り子」。これには古関先生はタッチしていないですが、菊田先生が「マイ・フェア〜」やるために、これでミュージカルの勉強をしようとした作品です。日本ではダンスーー特に男性のダンサーが弱いからとニューヨークでわざわざオーディションをして、ブロードウェイから13人のダンサーを連れて来ました。「マイ・フェア〜」でヒギンズをやる高島さんも出ています。ほかにフランキー堺さん、越路吹雪さん、草笛光子さん、浜木綿子さん、寿美花代さん、水谷八重子(当時:良重)さん、ジェリー伊藤さん、エノケン(榎本健一さん)……とビッグスターばかり出演しています。そして、このあと「マイ・フェア〜」がはじまりました。オードリー・ヘップバーン主演の映画版(1964年)が上映される前に、日本で公演したのだからすごいことなんですよ。

――宮崎さんは、そのときはどういう役割でしたか。

宮崎:演出部です。チーフが稽古スケジュールを作成、装置、照明、衣裳、音楽など5、6人の演出部が分担して作業を行っていました。私は舞台監督(進行)の助手で、出演者のスタンバイなど舞台進行のすべての確認作業に台本と懐中電燈を持って走り廻っていました。

第1回東宝ミュージカル「恋すれど恋すれど物語」

――菊田一夫さんは日本にブロードウエイ・ミュージカルを普及させたのですね。

宮崎:東宝では、昭和26年 “帝劇コミックオペラ”「モルガンお雪」を公演し、3作目から“帝劇ミュージカルス”になりましたが、昭和29年から帝劇は老朽化の為映画上映の劇場となりました。昭和30年、小林一三大先生が菊田先生を東宝に迎えていきなり取締役に抜擢しました。東宝の演劇を全部任された菊田先生は、昭和31年から、第1回東宝ミュージカル「恋すれど恋すれど物語」(菊田一夫脚本・演出、古関裕而音楽)をはじめました。「泣きべそ天女」という飯沢匡さんの作品との2本立てでした。このとき、最初の台本では“東宝喜劇「恋すれど恋すれど物語」”だったのですが、小林一三大先生によって「東宝喜劇」の「喜劇」を赤鉛筆で消されて「ミュージカル」と修正が入りました。

喜劇なのか?ミュージカルなのか?

――「喜劇」が「ミュージカル」に?

宮崎:菊田先生は、ゆくゆく本格ミュージカルをおやりになるつもりだったので、“ミュージカル”と名がつくことに思うところもあり「これはアチャラカです」と返したものの、小林さん大先生が「面白ければいいじゃないか」と言って「東宝ミュージカル」でいくことになったんです。以後「東宝ミュージカル」として公演が十何回まで続きました。笑いあり、歌あり、踊りあり、それで最後にちょっと泣かせて、最後に必ず豪華なショー場面が付くもので、豪華な顔触れのスターたちばかりで観客は常にたくさん入っていました。

――いまも存在する歌とお芝居の商業演劇のベースになっている感じですね。

宮崎:1年に3、4本、新作が制作されて、そのほとんどの作品が菊田先生の脚本、古関先生の音楽によるものでした。1961年、映画「ウエスト・サイド物語」が上映されると、日本のミュージカル熱が高まってきました。と同時に評論家の皆さんがニューヨークに行ってきて、東宝のミュージカルは本場のミュージカルとはほど遠い、などと批評された時期がありました。そんななかで、菊田先生はブロードウェイやロンドンウエストエンドに行って研究を重ね、「マイ・フェア・レディ」を見たとき、これこそ日本人の肌に合う作品と感じ、日本人の俳優とスタッフでこれをやろうと決心され、多くの反対にあいながら実行に移されました。プログラムの先生のあいさつにこうあります。

“日本のミュージカル運動は、すでに発足いたしております。しかし此の公演からも、また一つの形が発足したします。永い、遠い日の、日本のミュージカルの発展のために、あらゆる困難を排除して、東宝はこれを上演いたしました。”

出典:『マイ・フェア・レディ」公演プログラムより

「日本のミュージカルの発展のために、あらゆる困難を排除して」その姿を僕は間近に見ているだけにこの言葉にぐっと来ますよ。菊田先生の「マイ・フェア・レディ」を成功させるための意気込みには凄まじいものがありました。失敗は絶対に許されない雰囲気でした。

東宝ミュージカルの基本をつくった菊田一夫と古関裕而

――どういう困難があったのでしょうか。

宮崎: 問題は膨大な予算が必要でした。まず舞台装置。スピーディな舞台転換の為に、東京宝塚劇場の舞台上に新しく廻り舞台を2ツ並べてつくり、“三方飾り”と云って、3つの場面の装置(セット)をいっぺんに飾れるようにしたのです。すべて音楽の寸法通り舞台の転換ができるように。それから衣裳はすべて新調。アスコット競馬場とか大使館の舞踏会場などの上流階級のシーンでは着飾った紳士、淑女が多勢いましたので大変でした。当然、かつら、帽子、アクセサリーも必要でしたから。照明や音響などの機材も新しく導入しました。音楽は当然、生演奏でオーケストラボックスに20数名の編成で、ハープがあったのが印象に残っています。そして豪華なキャストと最高のスタッフ。出演者の交渉過程ではいろいろあり、決定までの道のりは大変でした。大阪から上京してきた梅コマ・ミュージカルチーム25名も加わり出演者総勢101名、その中にブロードウェイから来た13人のダンサーも出演しておりました。

――まさにいまの“東宝ミュージカル”の基本が生まれたと。

宮崎:有名な話ですが、初日にエグジットミュージック(観客が聞きながら帰る曲)が流れてからも、拍手が鳴り止まず、お客様が全然帰らなくて、菊田先生が客席から舞台に向かうには一回外に出なきゃいけない構造になっていたので、いったん劇場の外に出て、舞台事務所の前を通って舞台の上手に走ってきて、「もう一回緞帳(どんちょう)を上げろ、あの拍手が聞こえないのか」と叫んだんです。そのときすでに大道具さんたちは片付け始めていて、役者さんは大反響だったから舞台上で喜んでいました。それが先生のその一言で、もう一度、ヒギンズの書斎のセットを組みはじめました。僕は「もう一回、もう一回」と言いながら走り回ってスタッフを促しました。やがて緞帳を上げると、お客さんは今でいうスタンディングオベーション(当時は「総立ち」と言った)で、菊田先生が前に出て、「とにかく無事にやったと、みんなを褒めてあげたいし、この舞台にあがっていない、仲間――スタッフや営業とかいろいろたくさんいるんだけれども、一つになって、今日まず1歩踏み出すことができて、東宝はこれからも2歩3歩と歩んでいきたい」というような挨拶をされました。それを僕は上手の袖でじっと聞いていました。その初日を見ていたのが今は亡き評論家の小藤田千栄子さんで、いろいろなプログラムに「『マイ・フェア・レディ』は日本のミュージカルの夜明けだった」と書いてくれました。大好評だったので、9月に千秋楽を迎え、翌年の1月に同じキャストで再演しました。その前売りチケットが初日6,000枚売れたと言って菊田先生が喜んでいる姿を、僕は覚えています。当時、電話予約はなくて、劇場販売のみでしたから、多勢の方が劇場に並んだことになります。

古関裕而が挑んだ「風と共に去りぬ」の楽曲

――「マイ・フェア・レディ」での古関裕而さんの音楽監督という仕事はどういうものでしょうか。

宮崎:ブロードウェイ版のピアノボーカル譜と各楽器のパート譜が届くと、古関先生は、パート譜からスコアをおこしてオーケストラスコアの作成にかかります。それからオーケストラの編成を決定するわけです。訳詞の入ったボーカルブックが出来ると、歌唱指導の先生と一緒に、俳優さんたちのキー調べを行います。イライザ役を演じる江利チエミさんの場合、チエミさんの個性をより良い声として引き出す為に原調から移調して歌うことになりました。ミュージルカナンバーすべて1曲、1曲ていねいに古関先生は仕事をされておりました。また、音楽指揮も担当していましたので、稽古場へは直々来ました。音楽の入るキューとか、テンポとか、細かくチェックしておりました。それから初日に向かって、ピアノ稽古で通し、オケ練習、オケ合せ、舞台稽古と続く訳ですが“ミュージカルは音楽が命”と言われ、古関先生の存在は大きかったです。

――古関さんの演劇の音楽で印象に残っているものを教えてください。

宮崎:「風と共に去りぬ」(66年)の前奏曲「タラの歌」ですね。それは、今聞いても泣けるくらい、すごく良い曲です。これが「風と共に去りぬ」の台本です。

「風と共に去りぬ」台本 宮崎さん所有 (C)東宝
「風と共に去りぬ」台本 宮崎さん所有 (C)東宝

――分厚いですね!

宮崎:第1部を5ヶ月間やって、第2部を2ヶ月、そのあと総集編もやるという、超大作でした。このときの音楽も全部、古関先生によるもので、例えば芝居がレット・バトラーとスカーレットのやりとりのシーンが15ページほどあったとして、菊田先生が、感情を音楽で表現するために、どこからどこまでにどの曲を入れるか決めるんです。先生は音楽の入れ方にとても凝るかたで、台本上に、全部、指示を書いていました。ただ、書いていないところも音楽が必要なところもあるわけで、古関先生と先生の仲だから、そんなに細かく打ち合わせをしなくても、ここは音楽が入るだろうと古関先生が的確に判断して作っていました。僕は、古関先生に頼まれて、稽古場で芝居の時間を測って、リスト化するような仕事をしました。

「風と共に去りぬ」プログラム 宮崎さん所有 (C)東宝
「風と共に去りぬ」プログラム 宮崎さん所有 (C)東宝
「風と共に去りぬ」プログラムの古関裕而さんの自曲解説 あふれ出る音楽愛を感じる 宮崎さん所有 (C)東宝
「風と共に去りぬ」プログラムの古関裕而さんの自曲解説 あふれ出る音楽愛を感じる 宮崎さん所有 (C)東宝

宮崎:この4年後(1970年)に「スカーレット」という題名でミュージカルをやります。菊田先生はこれをやりたくて東宝へ来たみたいなところもあったと思います。「構想25年」と言っていたから。映画「風と共に去りぬ」(1953年)を見てからずっと菊田先生はこれをミュージカル化しようと考えていたようです。ただ、ミュージカル化は著作者が許可していなかったんです。それが第1部を見にきたエージェントの人が大感激して、ミュージカル化を許可してくれたんです。それがジョー・レイトン演出・振付、ハロルド・ルーム作曲の「スカーレット」でした。

電話番号の末尾が「五線紙」

――宮崎さんは古関さんとお話をしたことはありますか。

宮崎:古関先生とは数多くのミュージカル以外の仕事もしました。芸術座の芝居などは脚本の中に音楽が入るところをMナンバーがふってあります。劇中、それぞれの曲が何分必要か、稽古を見ながら何回も計り、そのタイムを先生にお伝えします。ある時、稽古場で腕時計で計測してたら、先生が“これを使いなさい”ってストップウオッチを……これは記憶が定かではないのですが、ストップウオッチを貸して頂いたのか、それを頂いたのか全く記憶になく、演出部同士で使っていたような記憶もあり、先生の優しい思いやりだった事は覚えているのですが……。一度だけ先生にほめられたことがあります。昭和40年(1965)12月末日締切で東宝社内でミュージカル脚本の募集がありました。「王様と私」の再演の時で劇場に通いながら一生懸命書いて応募しました。その結果発表が昭和41年(1966)東宝の社内報である“宝苑”4月号に掲載され、当選作品はなく、佳作4編が発表され私の作品も選ばれました。どれも力作につき賞金5万円が菊田先生の決断で10万円いただきました。それを知った振付の関矢先生や衣裳の真木先生、そして古関先生からも「よかったね、おめでとう」って、その時の笑顔は今でもはっきり覚えています。そのころ、先生と年賀状をやりとりしていて、それがどういうわけだか残っていて……。その頃の先生の電話番号の下4桁が「5004番」で「五線紙」とおっしゃっていたことも印象に残っています(笑)。

古関裕而さんからの年賀状 電話番号の末尾が5004 ドラマ「エール」113回では裕一が32段の譜面をつくってやる気になっている。  宮崎さん所有
古関裕而さんからの年賀状 電話番号の末尾が5004 ドラマ「エール」113回では裕一が32段の譜面をつくってやる気になっている。  宮崎さん所有

――古関さんはどんな人ですか。

宮崎:穏やかな方で、怒ったところは見たことがなかったです。慌てずいつも落ち着いていました。いつもにこやかな表情で背広姿で黒いカバンを持っていました。古関先生は穏やかで優しくて、気性の激しい菊田先生とは正反対。菊田先生は、稽古場や劇場に入ってくるだけで緊張感が高まるような方でした。

菊田演劇になくてはならなかった古関音楽

――「エール」のドラマに、ミュージカル俳優の人たちがたくさん出ていることをどう思われますか。

宮崎:このキャストでミュージカルをやれるんじゃないかと思いますよね(笑)。吉原光夫に山崎育三郎、堀内敬子……。僕は吉原くんと「ジャージー・ボーイズ」を一緒にやりました。堀内さんとは「屋根の上のバイオリン弾き」やシアタークリエのこけら落とし「恐れを知らぬ川上音二郎」(07年 三谷幸喜作、演出)などを。山崎育三郎くんとは「ラ・カージュ・オ・フォール」、古川雄大くんはまだ一度もありません。

――菊田さんと古関さんはミュージカル以外の作品も作っていらっしゃいます。

宮崎:代表的なのは「放浪記」(2009年まで長きに渡り森光子主演で上演された。2015年に仲間由紀恵が引き継いだ)ですね。僕は昭和46年(1971年)に演出部ので参加しています。その時菊田先生が宝塚劇場の出し物と「放浪記」の舞台稽古を掛け持ちでやっていて、稽古の途中に入って来て、尾道の場面を見ながら、「俺も昔は(本が)うまかったなァ」と感想を漏らしていたことを覚えています。

――当時の「放浪記」の評価はどういうものだったのでしょうか。

宮崎:森光子さんが、40代という遅咲きで評価された作品ですよね。その前に、菊田先生が、大阪の梅田コマ劇場で森さんに注目して、東京の芸術座に呼んで、「がしんたれ」(60年)で林芙美子を演じて世間から高評価を得て、菊田先生はそれを発展させて「放浪記」を作ったんです。それが初演でいきなり芸術祭賞とテアトロン賞を受賞、大成功です。菊田さんが亡くなったあと、三木のり平さんが潤色して4時間もの長い作品を短くしたことでより多くの人が楽しめるようになったことが、長寿作品になった理由かと思います。

――古関さんの数々の舞台音楽に関して、宮崎さんは何を感じますか。

宮崎:古関先生は、菊田先生の全てを分かっていて、本を読んだだけで、菊田さんのイメージするものが浮かび上がってきたと思います。すごく誠実な方なので、忙しいからといって、豊富な引き出しからすぐにパターンを取り出して作るのではなく、一本一本丁寧に作っていた気がします。だからこそあれだけ長く先生と仕事ができたのだと思います。

「放浪記」プログラム 宮崎さんが制作担当した時代のもの (C)東宝
「放浪記」プログラム 宮崎さんが制作担当した時代のもの (C)東宝

〜〜取材を終えて

宮崎さんの話を伺ったあと見た「エール」111回で、「君の名は」のための生演奏用の楽器のなかにハープがあって、宮崎さんの話に出てきたハープを筆者は思い浮かべた。古関さんはハープの音色が好きだったのかななどと思って楽しんだ。

「エール」にミュージカル俳優が多く起用されているのだから、後半、ミュージカルエピソードがあるからではないかと期待したが、残念ながらほんのさわりだけになりそうだ。

その分、古関裕而さんと後半のキーマン・池田のモデル菊田一夫さんのオマージュとしてのミュージカル俳優出演だったのかもしれない。ふたりは現在の東宝の翻訳ミュージカルの原点をつくった人たちなのだから。

菊田さんと古関さんと当時、仕事をしていた宮崎さんにお話を聞くと「マイ・フェア・レディ」のできるまでや「風と共に去りぬ」から「スカーレット」(朝ドラに同名作があるが無関係)ができるまでなどこれだけでドラマができそう。宝塚劇場や帝国劇場の機構をふんだんに使い、たくさんの工夫をして、外国のミュージカルを日本人がやり遂げるまでの物語は、朝ドラの一週間分のエピソードとして駆け足で描くのではなく、しっかり描いたものをいつか見たいと思った。

宮崎さんに聞いたところ1963年「マイ・フェア・レディ」が上演された大晦日の「紅白歌合戦」では紅組司会に「マイ・フェア・レディ」に主演した江利チエミが抜擢され、「踊りあかそう」を歌い、白組から立川清登(オペラ歌手で、「王様と私」の初演でルンタを演じた。「六甲おろし」も歌っている)が「運が良けりゃ」を歌ったそうだ。

「僕は、そのとき、うちでこたつに入って見ていて、びっくりしちゃって。『マイ・フェア〜』がこんなに全国的にアピールできたことがうれしかった」と宮崎さんは振り返った。

国民的番組「紅白」は時代のニーズをすばやくすくいあげる。近年、「紅白歌合戦」ではアニメ特集、朝ドラ特集などをやっていて、2019年はディズニー映画の楽曲特集や刀剣ミュージカル俳優が特別出演したりしているが、昔から話題作を早々と取り上げていたのである。ミュージカル「マイ・フェア・レディ」は東京オリンピックの前年(63年)に日本中で注目されていたわけだ。

2020年は「エール」に出演することで、ミュージカル俳優たちが日本中に注目されている。

菊田さんも古関さんも空から見守っているのではないだろうか。

Profile

Norio MIYAZAKI

東宝演劇部プロデューサー。東宝ミュージカル「マイ・フェア・レディ」「サウンド・オブ・ミ ュージック」「王様と私」等の初演にスタッフとして参加。その他の主な作品に「屋根の上のヴァイオリン弾き」「ラ・マンチャの男」「ラ・カージュ・オ・フォール」「キス・ミー・ケイト」「スカーレット」「慕情」 「歌麿」「十二夜」「シラノ」「ジキル&ハイド」「ジャージー・ボーイズ」など。

フリーライター/インタビュアー/ノベライズ職人

角川書店(現KADOKAWA)で書籍編集、TBSドラマのウェブディレクター、映画や演劇のパンフレット編集などの経験を生かし、ドラマ、映画、演劇、アニメ、漫画など文化、芸術、娯楽に関する原稿、ノベライズなどを手がける。日本ペンクラブ会員。 著書『ネットと朝ドラ』『みんなの朝ドラ』『ケイゾク、SPEC、カイドク』『挑戦者たち トップアクターズ・ルポルタージュ』、ノベライズ『連続テレビ小説 なつぞら』『小説嵐電』『ちょっと思い出しただけ』『大河ドラマ どうする家康』ほか、『堤幸彦  堤っ』『庵野秀明のフタリシバイ』『蜷川幸雄 身体的物語論』の企画構成、『宮村優子 アスカライソジ」構成などがある

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