引退発表のヤクルト松岡健一が、11年前に南の島で放った「ブレイク前夜」の輝き
東京ヤクルトスワローズが9月30日、2人の選手の現役引退を発表した。1人は松岡健一(36歳)、もう1人は山本哲哉(33歳)。どちらも主に中継ぎとしてヤクルトのブルペンを支えたピッチャーである。
プロ3年目の秋にウィンターリーグ出場
今年でプロ14年目の松岡は、ドラフト自由枠で2005年に入団して以来、ヤクルト一筋。2010年にはいずれも当時の球団新記録となる73試合登板、34ホールドをマークした。通算490試合登板は球団史上5位、通算127ホールドと150ホールドポイントは、いずれも同1位である。
松岡がブレイクしたのは、入団4年目の2008年。初めてリリーフに専念して65試合に登板し、5勝3敗29ホールド、防御率1.39という圧倒的な成績で、同じく中継ぎの五十嵐亮太(現福岡ソフトバンク)、押本健彦(現北海道日本ハム打撃投手)、抑えの林昌勇(現韓国・起亜)とともにいわゆる勝利の方程式を築いた。
そのブレイクの”前夜”とも言うべき2007年の秋、松岡はハワイにいた。当時、ヤクルトは高田繁新監督(現横浜DeNA・GM)のもと、松山で秋季キャンプの真っ只中。にもかかわらず松岡が日本から遠く離れた場所にいたのは、日米の選手が参加していたウインターリーグ「ハワイ・ウインター・ベースボール(HWB)」に出場するためだった。
23回2/3無失点で防御率NO・1に
この年のHWBは、メジャーリーグ(MLB)傘下と日本プロ野球(NPB)から派遣された選手(NPBはセ・パ7球団が派遣)を4球団に振り分け、9月の終わりから11月中旬にかけてリーグ戦を行っていた。当初ヤクルトから派遣されていたのは村中恭兵、丸山貴史の両投手だったが、ほどなくして丸山が故障のため帰国。松岡はその代役として派遣されると、リーグ戦終了までに3試合の先発を含む5試合の登板で2勝を挙げた。23回2/3を投げて奪三振24、与四死球1、失点と自責点はともにゼロ。防御率0.00はもちろんリーグNO.1である。
日本でもこのシーズン、当時としては自己最多の4勝を挙げていた松岡に、ハワイでの好投の要因を聞いた。答えは明快だった。
「真っすぐを強く投げられて、それをファウルしてくれるんで、(追い込んだら)変化球で最後はかわさせてもらってます(笑)。(状態は)そんなにいいわけでもないですけど、安定してましたね。フォアボールは1つだったんで。やっぱフォアボールが絡んだら大量失点になるんで、そこだけは気をつけてました」
力強いストレートでカウントを稼ぎ、最後は決め球のフォークで三振やゴロに仕留める──。自身の「メシのタネ」になるピッチングスタイルを、既に確立していた。この年のドラフトでボルティモア・オリオールズから全体1位で指名され、600万ドル(当時のレートで約6億9000万円)の契約金で話題になった「金の卵」のマット・ウィータース(現ナショナルズ)にもそのスタイルが通用したことで、さらに自信を深めた。
契約金7億円近くの大物ルーキーにも臆することなく
「あの人、だいぶ有名ですよね。それは意識してます。たぶん打たれてないッス(笑)。ストライクが先行したら、最後はフォークがあるんで、そこを意識させればって。打たれないとは思わないですけど、おもいっきし投げてファウルが取れたら、こっちが有利だなみたいな感じはありますね」
当時25歳。いたずらっぽい笑みを浮かべながら、少し楽しそうに話す表情は、その後のブレイクを予感させるものだった。実際、翌2008年から4年連続して50試合登板&20ホールドをクリアするなど、ヤクルト救援陣の屋台骨を支えた。その松岡も36歳となった今季限りで、現役生活に別れを告げる。
当時21歳だったウィータースは、2009年にメジャーデビューするとオールスターに4度選ばれ、ゴールドグラブ賞も2度獲得した。だが、その彼も今や32歳。今年は5月に左ハムストリングの手術を受け、残りのシーズンを棒に振っている。あの2007年のHWBにNPBから派遣された選手も、現役で残っているのは村中と内竜也(千葉ロッテ)、そして投手から野手に転向した木村文紀(埼玉西武)ぐらい。月並みな言い方になるが、時の流れを感じずにはいられない……。