引退試合のないMLBでイチローだけが味わえた最高の引き際をお膳立てしたマリナーズの配慮と神様の配剤

シーズン開幕シリーズで感動的な引き際を飾った選手はイチロー選手が初めてだろう(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

【偶然がもたらした感動的なカーテンコール】

 7年ぶりに開催されたMLB日本開幕戦。最終戦となった第2戦途中で、イチロー選手現役引退をチームに伝え試合後に記者会見を開くという共同通信が配信した第一報が世界中を駆け巡ることになった。もちろんその情報は東京ドームに集結したファンの間にももたらされた。もちろんシリーズ前からある程度の予測をしていたファンは多かったはずだが、改めて彼らはこの試合がイチロー選手の“ファイナルステージ”だと理解した。

 試合は延長12回までもつれ、試合終了はNPBの公式戦では考えられない午後11時を過ぎていた。それでも多くのファンは最後まで試合を見続け、終了後も席を離れようとはしなかった。これがイチロー選手の現役最後の試合と分かった以上、誰もが感謝の言葉を伝えたかったのは当然だろう。そうして試合終了後30分以上が経過していたにもかかわらず、ファンの熱意に応えるようにイチロー選手が再びグラウンドに姿を現すと、感動的なカーテンコールが始まったのだ。

 その様子を動画付きでツイートしたマリナーズは「言葉では表現できない」とメッセージを付け加え、イチロー選手自身も会見で目頭を熱くしながら「今日のあの球場での出来事…。あんなもの見せられたら(引退を決意したことに)後悔などあろうはずがありません」と口にするほど、あまりに“完璧すぎる”終演だった。

【引退試合のないMLBでは想像もできない特例中の特例ともいえる引き際】

 これまで1995年から2017年春までMLBを現場取材してきたが、シーズン開幕したばかりの試合でこれほど見事な現役最後の試合を飾った選手を他にお目にかかったことは一度もない。そもそもMLBにはNPBのように引退試合という慣習が存在しない。どんなに実績を残したベテラン選手でも、現役選手としてユニフォームを着てグラウンドに立ってファンに別れを告げられるのは数えるほどしか存在しないのだ。

 稀有な例としては、つい最近ではデビッド・オルティス氏のようなケースだ。シーズン開幕前にそのシーズン限りでの現役引退を表明し、最後のシーズンを全うし、現役選手として最後まで試合に出場したような場合で、彼らはNPBの引退試合に近い見送られ方を味わうことができる。

 それ以外の選手たちの引き際は、実に寂しいものだ。今回日本開幕戦で始球式に参加するため来日した、MLB通算盗塁記録(1406)を持つリッキー・ヘンダーソン氏、通算本塁打歴代7位(630本)を誇るケン・グリフィーJr氏は殿堂入りを果たしているMLB史上類稀な選手たちだが、彼らはいずれも現役選手のままグラウンドでファンと別れを告げる場を与えられていない。

 大抵は松井秀喜氏の場合もそうであったように、すでに引退した実績あるベテラン選手の功績を考慮し、古巣チームが引退セレモニーを設けてくれるのが一般的だ。だがそうした引退セレモニーが用意されるのもごく限られたスター選手たちで、ほとんどの選手たちは静かにグラウンドから姿を消していくしかない。

 今回のイチロー選手のケースが、まさに特例中の特例であることが分かってもらえるだろう。たぶんMLB選手の中で、こんな感動的な現役最後の試合──しかも外国人選手が生まれ育った母国の球場のグラウンドで──を迎えられる選手は二度と現れないだろう。

 

【感動的な終演を作り出したマリナーズの配慮と神様の配剤】

 だがこの感動的な終演は、イチロー選手とファンの存在だけでは成立することはなかった。その裏にはイチロー選手に最大限の敬意を示したマリナーズの配慮と、偶然にもイチロー選手に7年ぶりの日本開幕戦の機会を与えてくれた神様の配剤があったからこそだろう。

 イチロー選手が引退会見で話しているように、ヤンキースに移籍して以降は常に現役引退と背中合わせの日々を過ごしていた。そして実際に2017年オフにマーリンズから戦力外通告を受けていた彼は、このままグラウンドを去る覚悟を抱きながら、すでにキャンプが始まっている中1人黙々と神戸で自主トレを続けていたと明かしている。

 そんなイチロー選手の元に届いたのが、古巣マリナーズからのメジャー契約のオファーだった。まさに青天の霹靂ともいえる出来事だったはずだ。もしキャンプ中に主力外野手が故障で戦線離脱していなかったならば、イチロー選手が話すように、あのまま現役を終えるしかなかったはずだ。これもやはり神様の配剤というしかない。

 さらにマリナーズはイチロー選手を迎える時期に、すでに7年ぶりの日本開幕戦を戦うことが決まっていた。改めてジェリー・デォポトGMが語っているようだが、すでにイチロー選手を迎えるにあたり、どんなかたちであれ彼を日本開幕戦までプレーさせる青写真を描いていたようだ。だからこそ昨年はシーズン途中で出場登録枠から外しても、会長付特別補佐としてシーズン最後までチームに帯同させたのだ。

【イチローに残されたやるべきこと】

 こうしてイチロー選手は最高のかたちで日本のファンに別れを告げることができた。だがまだ彼は、長年支え続けてくれたシアトルのファンに感謝の気持ちを伝えてはいない。本人が悔しがるように現役選手として本拠地球場のグラウンドに立つことはできないが、必ずマリナーズがお別れの場を設けてくれるはずだ。つまり彼は現役選手として最後まで試合に出られただけでなく、現役を去ってもファンと別れる場を与えられるのだ。こんな幸せなことはないだろう。

 昨晩の出来事を振り返りながら、偶然の積み重ねがあの感動的なシーンに結び付いたのだが、逆にイチロー選手だからこそ偶然を引き寄せたのだと考えてしまう自分がいる。野球選手としてのみならず、日本が生み出した傑出のアスリートと同じ時代を過ごせたことに感謝しかない。

1993年から米国を拠点にライター活動を開始。95年の野茂投手のドジャース入りで本格的なスポーツ取材を始め、20年以上に渡り米国の4大プロスポーツをはじめ様々な競技のスポーツ取材を経験する。また取材を通じて多くの一流アスリートと交流しながらスポーツが持つ魅力、可能性を認識し、社会におけるスポーツが果たすべき役割を研究テーマにする。2017年から日本に拠点を移し取材活動を続ける傍ら、非常勤講師として近畿大学で教壇に立ち大学アスリートを対象にスポーツについて論じる。在米中は取材や個人旅行で全50州に足を運び、各地事情にも精通している。

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