湊かなえ原作小説の映画化『少女』。「死」への好奇心と「悪意」の連鎖の行きつく先は…?

原作は湊かなえ。デビュー作『告白』に続く第2作で、前作同様、章ごとに語り手が変わる叙述方式をとっているので、映画化(脚本化)はかなり困難だったのではないかと思われます。冒頭で語られるのは、なんとある少女の遺書。これを誰が書いたのかがわかるのはラストシーンなわけで、文字だけではなく声も入る映像でどう処理するのか? ここで映画は舞台演劇のワンシーンという設定に変えて、女生徒数人がセリフを分担するという形式にしていました。なるほど、この手がありましたか。この部分だけで、三島有紀子監督(『しあわせのパン』)の演出に身をゆだねる気分が高まっていったのです。

主人公は女子校に通う二人の17歳の少女。由紀(本田翼)は読書好きで、休み時間はひとり静かに本を読み、授業中もこっそり小説を書いています。その親友、敦子(山本美月)は幼い頃から剣道を学び将来有望と目されていましたが、高校入学後の対抗戦でミスをして負けてしまい、以後はいじめの対象に。その時ケガをした足は完治しているのですが、学校では足を引きずったふりを続けています。ある日、敦子はいじめがエスカレートしたことで倒れてしまい、保健室のベッドで由紀に「死にたい…」と訴えかけます。敦子は彼女を励ますために書きかけの小説を完成させますが、なんとそれは校内で盗難に遭い、その行方を知った彼女はある危険な行動に出るのです…。

しばらく後、クラスに紫織(佐藤玲)という生徒が転校してきます。「ねえ、死体って見たことある?」と語る紫織。同級生の自殺遺体に遭遇したという紫織の話に興味を抱いた由紀と敦子は、“死”を知りたいという願望にとらわれていくのです。そして夏休み、由紀は難病を抱えた子供たちのいる小児科病棟に、敦子は老人ホームにボランティアで通うことになります。それは“死”を実感したいという願望からの選択でもありましたが、そこで敦子が高雄(稲垣吾郎)という不思議な男に、由紀が二人の難病の少年に出会ったことで事態は意外な方向に動き始めていきます…。

心に“闇”を抱えた二人の女子高生の物語。彼女たちはなぜ“死”のイメージに囚われたのか? “本当の死”を知ることでいったい何から解放されると思ったのでしょうか? 揺れる17歳の心理を映画は追っていきます。「死にたい」「死ねばいいのに」という言葉を簡単に発してしまう世代。しかし本当の死とは何か、まだ彼女たちは知りません。だからこそ、死に対して興味を持つのでしょうか…。

一見すると、ミステリーではなく普通のダークなドラマのようですが、物語が進むにつれて、「〇〇の××は、実は△△の□□だった!」という意外な事実が次々と発覚し、観客はあっと驚かされることになります(具体例を挙げるとネタバレになってしまうので、伏せ字ばかりで失礼します)。「いくらなんでも世間が狭すぎるだろ…」と思わなくもないのですが、このあたりの人物配置の巧みさは、さすが湊かなえ。ちゃんと伏線も張られているので、見終わった後に感心すること確実です(ただし、わかりやすい解説はされないので少し頭を使う必要がありますが…)

そして何より「イヤミスの女王」と称される原作者の作品ですから、ストーリーの端々から様々な“悪意”が噴出していきます。しかし『告白』に描かれたのが明確な方向性を持った悪意だったとしたら、ここにあるのは「無自覚の悪意」なのです。誰かを傷つけようと思っていなくても、自分のしていることが悪意ある行動だとは知らなくても、その行動は人を苦しめることもあり、取り返しのつかない結果を生むことがある。しかも、その行為は巡りめぐって自分自身に返って来ることもあるのだ…。そんな恐ろしさをも感じさせてくれるのです。

女子校が中心になって展開する物語。女性である三島有紀子監督が手がけたことによって繊細な青春映画としての側面も出たのではないかと思います。主演の本田翼も山本美月も、普段は明るく元気いっぱいのキャラクターを演じることが多いのですが、今作では複雑な内面を抱えた(しかも自分勝手な)女子高生を好演。年齢的にもそろそろこの手の役は卒業になりそうな二人の輝きを、目に焼き付けておきたいものです。

(付記)

これまでは割と目立つ演技の多かった稲垣吾郎の、“引き算の演技”とでも言えそうな抑えた演技も印象に残ります。

(『少女』は10月8日から公開)

(c)2016「少女」製作委員会