「日本人感」とは何だったのか 水原希子さんへの中傷が映し出すアイデンティティの暴力性

(写真:アフロ)

 「私がいつ日本人感出しましたか? 日本国籍じゃなかったら何か問題ありますか?29年間、日本で育って、日本で教育を受けてきました。何が問題なのか全く分かりません」

 6月16日、モデルで女優の水原希子さんはTwitterで、ある匿名ユーザーに対して上記のようなコメントを投稿した。「日本人感」という見慣れない言い回しは、一時Twitterのトレンドにまでランクインした。元となる匿名ツイートでは、水原さんに対して「日本人感を出すのはやめてほしい」などと書き込まれた。現在は削除され、投稿主はプロフィール欄で「ご本人様とファンの皆様にご不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」としている。

 「日本人感」――この言葉遣いには、「日本人」といった「集合的アイデンティティ」をめぐる諸問題が折り重なって立ち現れている。なぜそうした言葉遣いや投稿がなされたのか。本稿では先のツイートをめぐる一連の流れを整理し、今回の事例が示す集合的アイデンティティへの欲望や、その暴力性について検討を試みる。

1.「日本人感」ツイートとは何だったのか

 「日本人感」ツイートがなされる文脈を確認しておきたい。先の削除されたツイートのポイントは、「日本人感」「日本の女性の代表感」「国籍的に引っかかる」といった見慣れない言葉遣いにあるだろう。

 直前の水原さんのツイートをみてみると、自身が「サステイナブル・アンバサダー」を務めるH&Mの広告、俳優・志尊淳さんと共演するTikTok配信ドラマ「リモ恋」の広告、W主演映画「あのこは貴族」の広告の前後に、アメリカを中心としてグローバルに展開するBlack Lives Matterに関するツイートがなされている。

 Black Lives Matterは、しばしば「黒人の命も大切だ」と訳されるが、そのニュアンスとしては、「黒人」の命と生活を脅かす制度的人種差別(個人間ではなく、組織や社会構造に組み込まれた人種差別の形態)が公権力によって公然となされ続けている状況への抗議――暴動(riot)という権力者側の言い回しではなく、抗議・蜂起と呼ぶべき集合的実践――のことである。水原さんはBlack Lives Matterへの連帯を示す投稿や、海洋汚染とかかわるマイクロファイバー、国連の難民支援機関UNHCR協会に関するツイートを、マーケティングの合間に投稿・拡散している。

 また一方で、同時期にInstagram上でエントリーもしていない「最も美しい顔ランキング2020(The 100 Most Beautiful Face of Japan)」に勝手にノミネートされたことへの批判をInstagramで行ったことも話題となった。不本意なかたちで「外見至上主義」的なランキング上にて、一方的に客体としてまなざされることへの批判がなされている(6月13日)。

 さて、匿名のユーザーによる「日本人感」ツイートには直接的な言及がないため判断が難しいが、おそらく、上記の投稿および出来事が、中傷ツイートの直接的なトリガーとなっているのだと思われる。アメリカ人と在日韓国人の両親をもつ水原さんには、これまでにも心ないツイートが向けられてきており(たとえば「水原希子『日本人感出すのやめて』に反論。『水原希子』名乗ることへの中傷続く」https://wezz-y.com/archives/78064などを参照)、こうした状況に続くように、先の匿名ユーザーは中傷ツイートを行ったのだろう。

 そこには、在日韓国人への差別と社会問題にコミットする女性への差別、さらには芸能人が政治的な発言をすることへの忌避感といった社会的文脈をも見受けられる。こうした点もふまえつつ、引き続き、先のツイートおよびそれに誘発されたツイート群について考えてみたい。

改めて、本件の元となる匿名投稿は以下のような内容である。

 「水原希子、て日本国籍じゃないんだよね? これ以上何かやるなら日本人感を出すのをやめてほしいと思う。毎度、私が日本の女性の代表感出すのが言ってることの是非でなく国籍的に引っかかることしかない」(参考記事https://news.yahoo.co.jp/articles/643ca8e7f687887095bc900a03c08ddf960c6e07

 文意をつかむことが難しいツイートだが、いくつかポイントがあるように思われる。たとえば、「言ってることの是非でなく国籍的に引っかかることしかしない」という表現である。

 「国籍的に引っかかる」という言い回しを率直に解釈するならば、何かしらの「国籍的に引っかかる」ような問題に対して、発言や表現を控えることを促すような言い回しである。だが、そうだとするならば、水原さんが言及したアメリカ発のBlack Lives Matterはすでにグローバルな社会運動として日本でも活動がされており、そもそも、人種差別を批判することに必要な「資格」などないので、いずれにせよ、国籍を理由に発言を控えるよう促すことは不当である。

 海洋汚染とマイクロファイバー、難民支援、サステイナブル(持続可能)なファッション産業の行方も、日本社会とは無縁どころか密接にかかわる問題であるため、こちらもまた「引っかかる」ものではなく、むしろ積極的にコミットするべきものである。「最も美しい顔ランキング2020」については、水原さんではなく、主催への批判ならばまだ理解可能であるが、いずれにせよ、国籍が問われているものではない。

 一方で、このツイート自体は「日本人の代表として適切でない」というラベルを貼り彼女を何かしらの「代表」なるものから「国籍」を根拠に周縁化しようとするものだ。日本社会における人種差別・国籍差別の1つの事例であり、「黒人」を標的にはしていないもののBlack Lives Matterのように問われるべきレイシズムが日本社会にあることを指し示している。

2.標的としての名前

 おそらく、注目すべきは、水原さんに寄せられた中傷ツイート群がしばしば「水原希子」という氏名の表記をやり玉に挙げていることなのだろう。つまり、「最も美しい顔ランキング2020」への不本意なノミネート、Black Lives Matter、マイクロファイバー、難民支援、サステイナブル・アンバサダーのいずれにおいても、「水原希子」という「日本人感」のある名前をもって発言や表現がなされること自体への中傷として、先の匿名のツイートは解釈すべきなのだ。何しろ、「言ってることの是非でなく」というように、個々の話題へと立ち入らずに投稿がなされているからである。

 その意味でも、水原さんの「私がいつ日本人感を出しましたか」というツイートははなはだ真っ当な疑問である。個々の話題において、彼女は「日本人感」なるものを自ら明示的に前景化させて発言や表現をしているわけではないからだ。他方、おそらく――これまでも彼女の身に浴びせかけられてきたように――自身の名前と国籍にかかわる中傷であることを予期していたため「日本国籍じゃなかったら何か問題ありますか?」と続けたのだと思われる。当然である。上記の社会問題へのコミットに日本国籍である否かは問われるものでは全くない。そして、もう一方で、彼女は「29年間、日本で育って、日本で教育を受けてきました。何が問題なのか全く分かりません」と続けることにより、「日本人感」なるものが仮に名前と国籍への中傷なのだとしても、日本で29年間にわたって育ち、教育を受けてきた――そして、労働し、生活している――ことをもって、むしろ「日本人感」が「出る」のは当然であるし、そこに何の問題もないではないか、と問い返しているのだ。

 元となる匿名ツイートは、「日本人感」なるものを定義づけるわけでもなく、削除されてしまった。だが、「これ以上何かするなら」という威圧的な表現を用いてまで、個々人にとって極めて個人的な事柄である「名乗り」を中傷したのは、なぜだったのだろうか。

3.アイデンティティは生得的なものではない

 「自分は一体何者なのか」というアイデンティティをめぐる問いは、時に人の命を奪うものだ。アミン・マアルーフは『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳,2019,ちくま学芸文庫)のなかで、アイデンティティを動物の豹(ヒョウ)にたとえた。人が「飼いならせる」可能性と人を死に至らしめる殺傷性を合わせ持つ動物であるためだ。

 「フランス人なのか、それともレバノン人なのか」という他者からの問いかけに幾度となくつきまとわれてきたアミンが本の終盤で指摘するように、アイデンティティはその「機能」と「欲望」について分析すべきである。すなわち、文化や集団や国家といった帰属先に人々を統合し、時に境界線上に立たせ、あるいは排除してしまうアイデンティティの「機能」とそれを突き動かす「欲望」だ。

 

 なぜか。それは、アイデンティティが生得的なものではないからだ。「個人のアイデンティティは生まれた瞬間に確定する」という信念は、1つの信念でしかなく、それすら後天的に選び取られたものでしかない。そして、個人のアイデンティティは移り変わる。アミンはそう指摘する。

 続けて、アミンは個人が自らのアイデンティティにおいてどのような要素を重視するのは人それぞれだと指摘する。たしかに、「ハーフ」などの複数のルーツをもつ人々に限らず、個々人のアイデンティティの「配分」はすっきり分けれるものではないし、人それぞれのはずである。出生地、生育地、言語、国籍、ジェンダー、セクシュアリティ、宗教、職業……こうした「選び取れる」ものや「選び取ること」が難しいものを含めて、アイデンティティの構成要素の「配分」は多様でありうる。一度決めた「配分」も、自分の移動や社会の変動などによって変転する可能性をもつ。それこそ、名前の表記は複雑な「配分」のあらわれであろう。だからこそ、名前はアイデンティティと密接にかかわるし、その選択(と選択できなさ)に個々人の置かれた社会的文脈が現れる。

4.二重のジャッジメント

 個々人の複雑なアイデンティティは、集合的アイデンティティによって闘争を仕掛けられることがある。どういうことか。

 集合的アイデンティティとは、たとえば、「全員と会ったわけでも語り合ってきたわけでもないのに、なぜかは知らないがその人たちと同じメンバーであるように思わされている感覚」としてのナショナル・アイデンティティが挙げられるだろう。ナショナル・アイデンティティとは、いわゆる「国民意識」のことで、ある国民国家に所属しているという感覚が自らのアイデンティティにおいて中核をしめたり、ほかのアイデンティティの構成要素よりも上昇するときの意識を指す。

 今回の中傷ツイート群は、水原さんへの中傷を介して、自らのナショナル・アイデンティティを確認する集合的行為として「機能」していたのではないだろうか。あるいは「自分たちの集合性を確認したい」という「欲望」をかなえる行為として、水原さんへの中傷が行われてしまったのではないか。集合的アイデンティティをめぐる「欲望」をかなえるための標的として選び出されたのが、最も個人的なものの1つであるはずの名前だったと考えられる。

 複数のルーツをもつ個々人のアイデンティティに介入しようとする集合的実践は、日本社会において見慣れた光景である。それは、今回のような中傷などのネガティブな反応とは異なるかたちでも現れる。カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞(2017)、大坂なおみ選手のグランドスラム2大会優勝(2018)の時には、両者の「日本人らしさ」が次々に「発見」され、取りざたされたことは記憶に新しい。

 これは単純に複数のルーツをもつ人々に対して「ポジティブな反応も、ネガティブな反応もある」ということではない。「日本人らしさを見いだそうとする」とする実践であれ、「日本人らしさを否定しようとする」実践であれ、それらは共に、「日本人」という集合的アイデンティティの境界づけを引き直す実践として、複数のルーツをもつ人々に向けられているということだ。2つの実践は表裏の関係にある二重のジャッジメント(判定)であり、どちらも「他者」を道具のように扱うことで「わたしたち日本人」という境界線を構築し、維持しようとする実践なのである。

 複数のルーツをもつ個々人を標的にしてアイデンティティを問う作業は――アミンのいう両義的な豹のように――二重化されたジャッジメントを介して、集合的アイデンティティを体験させる出来事として消費されているのではないだろうか。その新たな事例こそ、水原希子さんに向けられた中傷ツイートなのだ。

 こうした集合的実践は、それに参加するなかにおいて、「わたしたち」という集合的アイデンティティを一時的・仮設的にでも生み出すものでもある。メンバーから排除されるべき標的を選び出し、暴力を加えなければ確立させることもできないような、漠然とした集合性への帰属を求める「欲望」がそこにはある。裏返していえば、集合的アイデンティティは、その他者や外部がなければ、そもそも姿を現すこともない。その他者として、水原希子さんが標的とされてしまったのだ。

 水原さんに向けられた「日本人感を出すのをやめてほしい」という数々の中傷は、「日本人感」なるものを含めた水原さんの複雑なアイデンティティの「配分」への威圧・牽制・暴力だったと同時に、排除される他者を想定しなければ確認することのできないナショナル・アイデンティティや集合性を感受したいがために投げ入れられた言葉だったのである。

 彼女を中傷する人々もまた、それぞれの「選び取れないもの」と「選び取れるもの」とのなかで、それぞれにアイデンティティの「配分」を抱えているにもかかわらず、それはなされた。そうまでして集合的アイデンティティなるものを追い求める動機はわからない。寄る辺の無さからせりあがった承認への「欲望」なのかもしれないし、集合的アイデンティティへの「欲望」を喚起し続けることで何らかの利益を得ている人々がいるのかもしれないし、はたまた、集合的アイデンティティがもたらす帰属感そのものの快楽ゆえにかもしれない。

 だが、そうした動機を推し量り続けるよりも、確認すべきことがある。それは、集合的アイデンティティとしての「日本人」なるものが歴史的にどのように「機能」し、「欲望」されてきたのか、ということだ。

5.「日本人感」の歴史的刻印

 集合的アイデンティティとしての「日本人」なるものは、排斥対象として標的にする他者を生み出すのみならず、その「わたしたち」の内部にすら犠牲を強いる「機能」をもっていたことを確認しておきたい。たとえば、1万円札に顔が印刷されている福沢諭吉は「日本人感」とは書いていないが、「真の日本人」なるものについて1881年に「時事小言」のなかで以下のように書いている。

「……一旦事あるに臨ては、財産も生命も又栄誉をも挙て之に奉ずるこそ真の日本人なれ」

 福沢諭吉が「時事小言」で書き連ねたのは、国家の命運にかかわる出来事が起これば、財産も生命も栄誉も投げ捨てる者こそが「真の日本人」であるべきだ、という主張だった(福澤諭吉,1981「時事小言」『福沢諭吉選集』第5巻,岩波書店)。「アイデンティティが人を殺す」とは、まさにこのことである。「人を殺す」ような国家の危機を招来させてしまう失策を「お前は真の日本人か否か」という言説によって責任をごまかしかねない主張だが、先にみたように、命をも投げ出すような存在を立ち現わせるべく、「真の日本人」なるものを「欲望」してみせる主張が近代国民国家としての日本の成立期に知識人によってすでになされていた。

 「誰が真の日本人なのか」という問いは、他者を排斥するのみならず、その問いを発する自分たちの「財産も生命も又栄誉」をも投げ捨てさせる道具としての「機能」をもつ。そうした歴史的刻印があることを「昔のことだから」と他人事のように軽んじてはならない。たとえば、コロナ禍で現れた「自粛警察」のような人々は戦時下にもおり、「日本人ならばこのようであるべき」と主張しながら人々の息苦しさを押しつけるべく「機能」していた歴史的経緯があるからだ(たとえば、神立尚紀,2020「コロナ禍と戦時下の日本――非常時にあらわれる『正義を振りかざす人々』」『現代ビジネス』https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73203を参照)。「昔の話」は意外と「身近な話」なのだ。

 続けて確認すべきことは、集合的アイデンティティとしての「日本人」なるものが、他者への排斥と「わたしたち」の内部の者にすら苦境を強いる「機能」をもち、そのさなかで、「わたしたち」の問題として戦争へと人々は突き進み、次々と他者に辛酸を舐めさせるだけではなく、「わたしたち」の内部にいたはずの前線の兵士たちは食料不足による栄養失調、私的制裁という暴力、自殺、戦争神経症などの苦しみを強いていた、ということだ(吉田裕,2017『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』中公新書)。「昔の話」は意外と「身近な話」であるからこそ、(歴史改竄モノのメディア・コンテンツで溜飲を下げるのではなく)学術的な知見に基づいて、何度でも歴史を振り返る必要がある。

 「日本人感」という見慣れない言葉は、過去形で語られるべきだ。「忘れてしまいたい中傷の言葉だから」という理由ではない。「真の日本人なるもの」を見いだそうとする言葉のなかに、自他問わず苦境を強いてきた歴史的刻印を見出す必要があるからである。そうすることで、また新たな装いで「日本人感」に類似した言葉が現れたときに、それが誰の犠牲を正当化し、社会の何を毀損するのかを考えることができるからだ。