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ローマ教皇が表敬訪問したイラクのシーア派権威シスターニ師の実力(前編)/ 会談で教皇が得たものは?

川上泰徳中東ジャーナリスト
イラク中部のナジャフで会談するシスターニ師(左)とフランシスコ教皇(提供:Vatican Media/­ロイター/アフロ)

  ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇(84)が歴代教皇で初めてイラクを訪問が世界的なニュースとなった。コロナ禍になって初めての国外の訪問で、それもテロの脅威を超えてのイラク訪問。中でも注目を集めたには、中部ナジャフでシーア派最高権威、シスターニ師(90)の自宅を表敬訪問して行われた〝私的な〟会談だった。そこまでして教皇がシスタニ師に会ったのはなぜだったのか。

 

 フランシスコ教皇がシスターニ師を訪れたのは、イラク訪問2日目の3月6日で、教皇庁が公表した映像を見ると、教皇は車を降りた後、いきなり下町風の狭い路地を側近たちと歩いて、開かれたドアに入った。ナジャフにあるシスターニ師の自宅兼事務所である。

提供:Vatican Media/­ロイター/アフロ

 中は飾りは何もない殺風景な部屋で、日本の病院の待合室にあるような2つの長椅子が壁にそって直角におかれ、椅子の端と端に座った教皇とシスターニ師が隣り合って並んで座っている。映像では会談の場面はカットされ、すぐに会談を終えた教皇一行が通りに出てくる場面になっている。

 シーア派は世界のイスラム教徒の約10%の人口とされる。アラブメディアによると、会談には政府関係者やメディアを入れないことをシスターニ師が求めたという。ナジャフにはシーア派の初代イマーム(宗教指導者)のアリの廟があるアリ・モスクがある。シーア派の聖地であり、アリ・モスクはイラク戦争後に大幅に整備されて、賓客を受け入れる施設もある。アリ・モスクではなく、ローマ教皇がイスラム教の少数派の宗教指導者の家をわざわざ詣でる形となっている。

■シスターニ師事務所が出したレア動画

 さらに、ローマ教皇庁が公表した映像にはない短い11秒の動画が、シスターニ師の事務所から発表された。会談の後で、事務所が出した声明のアラビア語版についていたものだ。英語版の声明には付いていない。動画は無音だが、教皇とシスターニ師が立って向き合って、両手を握り合っている構図。シスターニ師が盛んに口を動かして語り、背の高い教皇が腰を折って黙って聞いている。無音であっても、シスターニ師の動く姿が流れること自体極めて異例なことである。

 ※シスターニ師の事務所がアラビア語の声明とともに公表した動画。英語版にはない。

 映像は、シスターニ師がローマ教皇に教えを授けているような印象を与える。国際的にはローマ教皇が全く格上と思うかもしれないが、シーア派世界でのシスターニ師の権威は、この短い動画が与える印象のように圧倒的である。シスターニ師の事務所は、そのことをイスラム世界に向けて発信したことになる。

 シスターニ師との会談について、フランシスコ教皇はイラク訪問を終えた専用機の中で行われた同行記者との記者会見のやりとりを、教皇庁の広報機関であるバチカン・ニュースが伝えた。その中で教皇はシスターニ師が「私は10年間、政治的な理由や文化的な理由で訪ねてくる人々と会ってはいない。会ったのは宗教的な来た人々だけだ」と語ったことを明らかにし、「師は会談の中で非常に礼儀正しく、普段は決して立ち上がらないが、(私の会談では)2度立ち上がった。彼は賢く謙虚な人物であり、この会合は私の魂に益をなした」と語った。

 教皇の言葉を読むと、シスターニ師事務所が公表した映像で、師が立ち上がっていること自体が、極めてまれということが分かり、興味深い。このような形であっても、フランシスコ教皇がシスターニ師と会談した理由は何であり、教皇はシスターニ師に何を期待し、会談にはどのような意味があったのだろうか。

■シスターニ師が教皇に示したキリスト教徒の保護

 その理由は、シスターニ師の事務所が出した声明の中にあった。印刷すればA4紙1枚程度の文章は「全能の神とその言葉に対する信仰の役割や、難題を克服するための崇高な道徳的な価値への関与……」など抽象的な言葉が並ぶ文書の中で、具体的に問題を特定した下りがあった。

 「シスターニ師はイラクのキリスト教徒が、憲法で定められたすべての権利を保持しつつ、他のイラク人と同様に平和で安全に暮らすことに関心を持っていることを確認し、彼らを守ることは宗教的権威の役割である」という一文である。

 バチカン・ニュースによると、イラク戦争前に150万人いたイラクのキリスト教徒は現在30万人にまで減少しているという。フランシスコ教皇はイラク訪問3日目に、北部のアルビルでミサを行い、ISに占領されたモスルを訪れ、さらに多くのキリスト教徒が住み、一時はISに占領されたカラコシュでキリスト教徒と交流した。

イラク北部カラコシュの教会を訪れ、キリスト教徒と交流するフランシスコ教皇
イラク北部カラコシュの教会を訪れ、キリスト教徒と交流するフランシスコ教皇写真:ロイター/アフロ

 フランシスコ教皇の目的が、イラク戦争と宗派間の抗争、ISの拡大という今世紀に入って辛酸をなめてきた国を訪問し、そこに住むキリスト教徒を励ますことでもあった。今後、イラクのキリスト教徒がどれほど帰国するか分からないが、イラクのキリスト教徒の安全を確保するためには、多数派で政府を主導するシーア派の姿勢によるところが大きい。

 さらにイラクでキリスト教徒を排除するのはISだけでなく、イラクのキリスト教徒が居場所を追われたのは、ISが登場する以前からの現象であり、イラク戦争で強権体制が倒れた後の無秩序の中で、スンニ派部族も、シーア派民兵も、やはりキリスト教徒への圧力を強めた。後編で詳述するように、シスターニ師はイラクのシーア派民兵には強い影響力を持っている。さらに、イラクだけでなく、中東全域で宗教・宗派間の対立が強まり、特に少数派のキリスト教徒の排除が起きている。

 イラクの政府だけでなく、国境を越えて広がるシーア派社会に強い影響力を持つ最高権威のシスターニ師がローマ教皇に対して、このように明確にキリスト教徒の権利を守り、保護することを文書で明示したことは、シスターニ師に従う多くのシーア派教徒に対する言葉でもあり、フランシス教皇にとっては、重要な収穫である。

■シスターニ師はパレスチナ人に言及

 シスターニ師が教皇との会談の後に出した声明で、キリスト教の保護について明言したと書いたが、もう一か所、具体的な問題に言及した下りがある。「シスターニ師は戦争と、暴力行為と、経済封鎖と排除などについて話し、特に占領地のパレスチナ人について述べた」という下りである。ここで突然「パレスチナ人」という言葉が出てくる。

 ナジャフの宗教界のニュースを報じるハウザ通信は、シスターニ師とフランシス教皇の会談について、「パレスチナ人に対するイスラエルのアパルトヘイト」という見出しで報じている。

 このようにシスターニ師が教皇に対してパレスチナ人の苦境を強調した背景を探ると、イラク紙の報道で、シスターニ師とローマ教皇の会談が、イスラエルとの国交正常化の流れの中で行われるのではないかという見方がアラブ世界で出たとあった。米国の前トランプ大統領が仲介して、2020年後半にアラブ首長国連邦(UAE)、バーレーン、スーダン、モロッコが相次いでイスラエルと国交正常化したことである。

 イラクはイランと同じく、イスラエルとの国交正常化はパレスチナに対する裏切りとして批判している。その流れの中で、シスターニ師はあえて、パレスチナ人の問題を持ち出したと考えるべきだろう。声明から、フランシス教皇とシスターニ師が会談に込めた狙いや思いを読み取ることができる。

 後編では、フランシスコ教皇との会合によって脚光を浴びたシスターニ師について、その影響力がどこからくるのか、どのような性格のものか、特に同じシーア派のイランとの関係を扱う。教皇がシスターニ師と会談した理由だけでなく、今後のイラクと中東について理解する役にたつだろう。(つづく)

 

中東ジャーナリスト

元朝日新聞記者。カイロ、エルサレム、バグダッドなどに駐在し、パレスチナ紛争、イラク戦争、「アラブの春」などを現地取材。中東報道で2002年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。2015年からフリーランス。フリーになってベイルートのパレスチナ難民キャンプに通って取材したパレスチナ人のヒューマンストーリーを「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」(岩波書店)として刊行。他に「中東の現場を歩く」(合同出版)、「『イスラム国』はテロの元凶ではない」(集英社新書)、「戦争・革命・テロの連鎖 中東危機を読む」(彩流社)など。◇連絡先:kawakami.yasunori2016@gmail.com

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