トランプ勝利から2週間ー「米国が否定した米国」をどこまで追い続ける?

KCBalletMedia

大統領選をトランプが制してから、2週間が経つ。

選挙前まではトランプの言論を批判していた人たちが、トランプのいいところ探しをしている。

おまけに、

「世界の警察やめま~す」

「グローバル化やめま~す」

「TPPやめま~す」

とトランプ氏は選挙期間中ずっと言っていたのに、その言葉をあたかも聞いていなかったようにコメントする人たちがいる。

トランプの予想外(?)の勝利は、「自分たちの問題は、自分たちで考えなさい」ってことだと個人的には解釈してるのだが、「アメリカがTPP参加を見送ったら困る」という声ばかりだ。

今から5年前の2011年。「グローバル人材」という言葉が呪文のように飛び交い、新聞の紙面に大企業の経営者や人事部の人たちのコメントが、連日出ていた頃のことを覚えているだろうか?

そのとき私は「グローバルな人材」に関する見解を見聞きするたびに、やるせない気分になった。だって「デキる人“だけ”しか生き残れない時代なんですよ」と、暗に格差社会を助長しているようにしか聞こえなかったからだ。

当時、グローバリゼーションの旗手だった米国では、既に中流層の仕事が激減し、1700万人の大卒者が、受けた教育水準よりも低いレベルの仕事に甘んじていた。

この年は、環太平洋経済連携協定(TPP)への参加交渉を巡って、世論が真っ二つに割れた年。連日連夜テレビでは、賛成派と反対派が全く噛み合わない議論を展開し、国会では徹夜の攻防が繰り広げられた。

にもかかわらず、いとも簡単にTPP承認案と関連法案は強行採決され、それが大きく報道されることもないまま、あっという間に衆院本会議で可決。

「自分たちの問題は、自分たちで考える」こともせず、トランプの心変わりを待っているだなんて。申し訳ないけど私には理解できない。

「本当の意味での国民経済とは何であろうか。それは、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である」

これはTPPでもめていたとき話題になった、下村治さんの著書『日本は悪くない―悪いのはアメリカだ』(1987年刊)に書かれている一節である。下村さんは、大蔵官僚時代に「所得倍増計画」を立案し、高度成長の政策的基礎のプランナーとして活躍したことで知られ、石油ショック以降はゼロ成長論を唱えた経済学者だ。

著者の中で下村さんは、「アメリカのやり方」をことごとく否定し、リーマンショックのような金融危機が起こることを予想し、日本の行く末を案じていた。

そして、今。

下村さんが否定した「アメリカのやり方」に、アメリカの人たちが「ノー」を突きつけ、「この国で生活している私たちは、生きていけない!」という悲鳴が、元々は泡沫候補であった不動産王の一票になった。

それでも、まだ、私たちはアメリカを追い続けるのか?

そもそもアメリカ発のシステムは、アメリカの文化、歴史、国民性などから生まれたもので、そのアメリカ産を「世界のスタンダードだもん!日本も合わせなきゃ」と真似たところで、上手くいくはずがない。

もちろん見習っていい面はあるだろう。肌の色が違えと、言葉が違えど、人は人。痛いことは同じように痛いし、ウレシイことは同じようにウレシイ。

だが、日本には日本だからこそ生まれた良いものがある。中途半端に「アメリカン・なんちゃら」なるものを導入すれば、日本で生まれたものとの整合性はとれなくなって当たり前だ。

おまけに、その「アメリカン・なんちゃら」を、日本人はちょっとだけ勘違いしちゃっているので、余計にたちが悪い。

例えば、アメリカは競争社会だと日本人はいうけど、結果的に、競争社会になっているだけ。勝ち組だ~、負け組だ~、と日本人がイメージする競争ではなく、アメリカはただただ「自分MAX」を追求しているに過ぎない。

私はアラバマ州の片田舎で幼少期を過ごしたけど、競争社会と教えられたことも、競争を煽られたことも、競争社会だと感じたこともいっさいなかった。

いかに、Independentするかは何度も教えられたけど、これも単なる「自立」ではなく、独立した、自主的な、自由な、といったもっと多面的な意味合いが込められていて。一言でいえば、「自分の最高のパフォーマンスを発揮せよ」と教わった。

それはアメリカンアイドルや、ダンシングアイドルといった、日本でも人気になったテレビ番組を見てもわかる。

これらの番組には地方予選があるのだが、そこには「あらあら、ずいぶんと不思議なパフォーマンスだわ」と驚くような人たちが登場する。

アメリカンドリームを夢みてオーディションにきた参加者は、番組のウリでもある辛辣な審査員に、ことごとく否定され、「あんた、歌(ダンス)を舐めとんのか!」といわんばかりの酷評を受ける。

日本人だったら、立ち直ることなどできないだろう。

だが、アメリカ人が違う。

「審査員は私の良さをわかっていないのよ。おじいちゃんは私のダンス(あるいは歌)は、最高だって言ってくれるよ~」

と、明るく笑うのだ。

そういうマインドを持つ人々の国が、アメリカなのだ。

中学生のときに日本に戻ってきた私が、いちばん戸惑ったのがこのマインドの違いだった。

「日本って、人と違うことしちゃいけないんだ。目立っちゃいけないんだ」

日本の社会は、私には息苦しかった。

アラバマでは、自分をMAXにすることしか考えてなかったので、日本の「普通」を良しとする空気が苦しかった。だから「アメリカに帰りたい」が私の口癖だった。

でも、オトナになって、「アメリカに帰りたい」と言わなくなった。

今でも「普通」を良しとする空気は苦手だけど、日本にしかない寛容さというか、穏やかさが好きになった。だから余計に思うわけです。日本には日本らしいやり方があるはずだ、と。時代が変わり今までのやり方が限界にきたら、日本のやり方で、改善すればいい。

なのに、私たちはその上手くいっていない問題に正面から向き合うことなく、アメリカのやり方を追い続ければ「問題は解決する」と妄信している。アメリカ人が「ノー」を突きつけている今も、日本の未来ではなく、アメリカの未来を案じているだなんて。

いったいどこまで日本人は、呑気で、いい人たちなんだろう。

何よりも悲しいのは、日本企業がこぞって導入した、能力主義、成果主義のせいで、「働く」という行為が、しんどいことになってしまったことだ。

心理学者のアブラハム・マズローは、「すべての人間は無意味な仕事より有意義な仕事を好むものである」と説き、「ユーサイキアン・マネジメント(働く人々が精神的に健康であり得るためのマネジメント)」という造語を生んだ。マズローは、企業というものが、人間の欲求を満たすことを可能にする最高の場だと考えた。

マズローの考えに対しては、専門家の中でも意見が割れる。だが少なくとも、かつての日本企業には、安心・安定を通じて「人間の基本的欲求」を満たすシステム(長期雇用、年功序列、子弟制度など)が存在し、その効能を否定する人は世界中どこを探してもいない。

だからこそ欧米の研究者たちは、日本企業を研究したのだよ。「日本型経営」という言葉は、日本人が生み出したんじゃない。欧米の研究者が、「アメリカにないもの。それを見習おうよ!」と、アメリカ社会に問いかけるために生まれたのだ。

だというのに、“副作用”ばかりに注目し、その良さをことごとく否定し、壊し、未来にも必要ないとさえ断言する人たちがいる。

すぐには答えはでないかもしれない。でも、働き方、企業のあり方、TPP……etc, etc, 今回のトランプ勝利をきっかけに、足下をもう一度見つめ、今ある問題をあーでもない、こーでもないと考え、議論することを今さらながらやることが大事なのに。いったいどこまで、アメリカ追従を続けるのか。

もはや「アメリカ=正解!」という方程式は成立しない。というか、そもそもそう考えたこと自体が間違っていたのだと思う。