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ドキュメント「日韓共催決定」<第1回>

川端康生フリーライター
(写真:ロイター/アフロ)

 国際サッカー連盟の本部はチューリヒ市街を見下ろす丘の上にある。

「FIFAハウス」と呼ばれるその建物は、世界ナンバー1の人気競技を統括する総本山とは思えないほど、こぢんまりとしていた。

 チューリヒに到着したのは5月28日だった。

「2002年ワールドカップ」の開催地は、4日後の6月1日、このFIFAハウスで行なわれる総会で、FIFA理事の投票によって決定されることになっていた。

 グローテン国際空港から車で15分ほど走り、市街地に入ると重厚で美しい建物が並んでいた。紀元前からローマ帝国の拠点として栄えた旧市街の街並みには、優雅で上品な風情さえ漂っていた。

 しかし――あのとき、この美しい古都を跋扈していたのは魑魅魍魎で、繰り広げられていたのは虚々実々の駆け引きだった。そこに優雅さなど微塵もなく、その末に導き出された結論もまた、醜く下品なものだった。

 いや、言葉が過ぎた。もう26年も前の話である。

 日本代表がまだワールドカップに出たことがなく、「ドーハ」から「ジョホールバル」へ向かっていた頃。

 やはりまだ世界の中で存在感がなく、実力も経験も乏しかった日本サッカー界が、FIFAによるルール無視の決定と国際スポーツの政治力学に翻弄され、不条理に震え、理不尽を噛みしめることになった1996年の初夏。

 チューリヒの太陽は、残酷なほどギラギラと照り付けていた。

情勢? 僕の顔を見ればわかるでしょう

 会見場のひな壇に並んだ顔ぶれが豪華だった。

 岡野俊一郎、川淵三郎、釜本邦茂、それにボビー・チャールトン。

 日本の招致アドバイザーを務めるサー・チャールトンは「長い年月この招致活動に協力してきた。あと72時間、私は自信を持っている」と世界サッカーの重鎮らしく落ち着いた口調で語った。

 会見が行なわれたのはカールトンエリートホテルだ。日本の招致委員会はここにプレスファンクションルームを設置して、毎日記者会見をセット。メディア対応を行なっていた。

「僕は日本では好きなことを言ってるが、ここまできたら慎重に言葉を選んでしゃべることにするよ」と記者を笑わせたのは川淵だ。

 日本がワールドカップ招致に乗り出した頃、川淵はまだ古河電工の社員で、サッカー界では日本リーグ総務主事という立場だった。

 当時の正直な心境を「(ワールドカップ招致を)初めて聞いたときは『えっ』という感じで、ワールドカップなんて夢物語だと思った。だって競技力ない、スタジアムない、人気ない、のないない尽くしだったんだから」と話したことがある。

 もっとも「ワールドカップは夢物語」だと感じていた川淵にも、低迷する日本サッカーを何とかしなければならないという強い思いがあった。だから小倉純二らとともに「プロ化」という、やはり当時では「夢物語」の実現に乗り出すのである。それが「Jリーグ」として結実したことは言うまでもない。

 そして、ワールドカップ招致とプロ化という、ともに1980年代末に動き出した二つの夢物語が、日本サッカーを前進させ、劇的に変える「両輪」となるのである。

「慎重に……」と前置きしただけあって、この日の会見で川淵にいつもの饒舌さはなかった。

 それでも「情勢? 僕の顔を見ればわかるでしょう」と話す表情には自信が漲っているように見えた。

 そんなわけで記者会見が終わった後、プレスルームにも安堵の空気が流れた。

「川淵さんの顔色見た? あれは勝てる見込みがついた顔だよ」

 そんな楽観的な観測も聞かれた。

死に物狂いで票読みしていた

 しかし、現場は楽観とは程遠い状況だった。

 メディアが集まるカールトンエリートホテルから徒歩で15分ほど、招致委員会の本部が置かれていたヴィダーホテルでは土壇場の票読みが懸命に行なわれていた。

 ワールドカップの開催地はFIFA理事の投票で決められる。投票権を持つ理事は20人。内訳はUEFA(ヨーロッパ連盟)8、CONMEBOL(南米連盟)3、AFC(アジア連盟)3、CONCACAF(北中米・カリブ海連盟)3、CAF(アフリカ連盟)3である。

 それにアベランジェ会長の1票を加えた21票が開催地の行方を決する。11票獲れれば勝ちである。

 だが、情勢は「微妙だった」と長沼健が言っていた。

「それこそ死に物狂いでカウントしていた。でも絶対いけるというところまではいかなかった。いつも際どいところまで。南米は日本で固まっていたし、ヨーロッパにも日本に理解を示してくれそうな人はいた。でもアジアや北中米はちょっとわからなかったし、アフリカも最後まで読めなかった」

 全体でも21票しかない。しかも接戦。1人が鞍替えしただけでも勝敗は裏返る可能性があった。

 そんな懸命な票読みの最中にも頭から消えることはなかったのは<第3の案>だ。直前になって突然浮上してきた「日韓共同開催案」である。

 日本の立場ははっきりしていた。

「共同開催はありえない」

 そもそもFIFAの規約に「ワールドカップは一国開催」と書かれている。日本はそれに則って長い間招致活動を行なってきたのだ。ここでルール変更するのは、タイムアップ直前になってゴールマウスが動かされるようなものである。

 そんなことが許されていいはずがない。

 もちろん水面下で不穏な動きがあることは察知していた。

「いろんな情報が交錯していることを頭の中に入れてはいた。でも、こちらに来てすぐにスイスの新聞を見たらアベランジェが『共催を画策している奴がいるらしいが、もし共催をやるなら俺の屍を越えてやれ』とすごいことを言っていた。彼の決心は固いと思った」

 アベランジェが猛反対している以上、共催案が受け入れられることはないはず……。

 長沼をはじめとした日本は、このときまだFIFA会長の豪腕を信じていた。

世界最大宗教の教祖

 ジョアン・アベランジェ。FIFAの第7代会長である。

 かつて彼はこんな発言をしたことがある。

「私は世界最大の宗教をこの手に握っている」

 決して大袈裟な話ではない。

 サッカーは地球でもっとも人気のあるスポーツである。世界中にサッカーを競技する人(プレイヤー)は2億5000万人、サッカーを観戦する人(ファン)は15億人。ワールドカップともなればTV視聴者数はのべ400億人。決勝戦1試合だけでも15億人がテレビを通じて観戦する。

 そんな世界中で行なわれているサッカーはすべてそれぞれの国のサッカー協会の管轄下で行なわれている。そして、その各国サッカー協会を傘下に収めるのがFIFAである。

 つまり、地球上で行なわれているサッカーはすべてFIFAを頂点にしたヒエラルキーの下で行なわれているということである。

 ちなみにその加盟国数は国連をもしのぐ200以上にのぼる。

 その長であるアベランジェの「世界最大の宗教をこの手に握っている」という発言は、だから決して誇張ではない。

 FIFA会長とは世界最多の信者をもつ「宗教」の教祖に等しい。

 しかも、アベランジェはその椅子に、このときすでに10年以上も座り続けていた。

 その間に年齢別世界選手権(現ワールドカップ)など新たな大会を創設。それまで決して裕福な団体ではなかったFIFAを潤沢な財源を持つ組織へと変貌させた(彼が就任したとき、FIFAの金庫には「2000ドルしか入ってなかった」という逸話が残っているほどだ)。

 さらにアベランジェはワールドカップの出場国数をそれまでの「16」から「24」、「36」と増やし、大会規模も拡大した。

 これによりフットボールビジネスのマーケットを広げると同時に、(出場枠を増やすことで)アジアやアフリカを自らの盤石の支持基盤にすることにも成功していた。

 絶対の最高権力者であり、しかも不可侵な存在。

 それがこのときのアベランジェだったのである。

21世紀最初のワールドカップはアジアで

 そもそも日本がワールドカップ招致に乗り出すことになったのも、アベランジェの「21世紀最初のワールドカップはアジアで」という発言がきっかけだった。

 1980年代半ば、ちょうどスポーツのビジネス化が急速に進み始めた時期のことである。

 それ以前はオリンピックでさえ、モントリオール五輪(10億ドルの負債を生み、その弁財を市民が税金で負った)のように、開催地に負担を強いるイベントだった。

 そのオリンピックを「儲かるイベント」に変えたのが1984年のロサンゼルス五輪である。

 バケツ一個にまでスポンサー名を入れる徹底したコマーシャリズムの導入で、税金を一切使うことなく運営することに成功。それどころか2億5000万ドルの黒字まで生み出したのだ。

 これが現在に至るスポーツビジネスの転換点となった(そういえば東京五輪に際して「商業化」を闇雲に批判する人たちがいたが、その場合開催費用を負担するのは「自分たち=税金」であることをわかっていたのだろうか)。

 もちろんサッカーも例外ではなかった。アベランジェの拡大路線もそうした時流に乗ったものだったのである。

「ワールドカップをアジアで」という発言にも、この路線をさらに進める意図が込められていた。

それまでヨーロッパと南米でしか開かれたことがないワールドカップをアジアで開催することで、マーケットのさらなる拡大を目論んだのである。

日本はアベランジェを信じていた

 しかもアベランジェの口にした「アジア」は「日本」を指しているのと同意だった。

 1都市での開催を原則とするオリンピックとは違い、ワールドカップは国内10都市あまりの開催地を必要とする巨大なイベントである。スタジアムをはじめ、交通機関、宿泊施設などワールドカップ開催の条件を整えることができる国はアジア広しといえども日本以外には見当たらない。

 加えて、このとき日本代表チームはワールドカップに出場したことがなかったが、キヤノン、富士フィルム、日本ビクターといった日本企業はメインスポンサーとして、すでにワールドカップの常連でもあった。

 つまり、「21世紀最初のワールドカップはアジアで」は「21世紀最初のワールドカップは日本で」。

 最高権力者のそんなお墨付きを自信に、日本はワールドカップ開催へ向けて動き出したのである。

 当然のことながら、この「アベランジェ路線」は招致活動を通して日本の基本戦略となる。

 そしてそれは開催地決定の瀬戸際でも変わらなかった。最後の最後まで、日本はアベランジェを信じていたのだ。

あと72時間

 しかし――サー・チャールトンが「あと72時間」と話し、日本が懸命に票読みをしていた5月29日の同じ頃、「共同開催になるかもしれない」という発言が飛び出していた。

 発言の主は韓国サッカー協会会長の鄭夢準。自国記者団との懇談でのコメントだった。

 鄭はつい数日前まで「投票に持ち込まれる公算が強い。これまで韓日共催に弾力的な姿勢をとってきたが、投票でも勝てる自信はある」と口にしていた。

 そのニュアンスが微妙に変わったのである。

 さらに、思いがけない情報も飛び込んでくる。

「昨晩、アベランジェはローザンヌに行き、誕生パーティをしたらしい。そこでサマランチと会ってワールドカップの開催地について何か話し合ったそうだ」

 サマランチとは国際オリンピック委員会(IOC)の会長である。FIFAのアベランジェと並ぶ、世界スポーツ界を動かす実力者だ。

 そんな大物2人が、アベランジェの誕生パーティという大義名分はあるにせよ、会談を行った。それが何を意味するのか……。

 開催地決定まであと3日。事態は風雲急を告げようとしていた。

 シナリオはハッピーエンドから大どんでん返しまで、何通りも考えられた。<第2回に続く>

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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