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「スポンサー的にまずいんで」(久保)――スポーツの商業化を巡って

川端康生フリーライター
(写真:ロイター/アフロ)

 試合直後のフラッシュインタビューでの「スポンサー的にまずいんで」という久保建英の言葉が話題になっている。

久保「上半身だけでいいですか、すいません、これ、スポンサー的にまずいんで」

吉田「絶対映らないだろう」

久保「スタイルいいんで」

 そんな吉田麻也とのやりとりをマイクが拾ったことで、あっという間にTwitterのトレンドワードにもなった。

 何を指していたのかは不明だが、カメラの前に向かいながら「これ」と言ったところで、久保は足元を指しているように見えたから、スパイクのことなのかなと僕は思った。

 日本代表のユニホームは、日本サッカー協会がアディダスと契約しているが、スパイクはそれぞれの選手が個人で契約している。

 久保はアディダスだが、今回のチームにはナイキ、プーマ、ミズノ、アシックスがいる。

 試合途中で交代し、すでにスパイクを脱いでいた久保は、あのとき誰かのサンダルでも借りて履いていたのだろう……そんなふうに想像しながらインタビューを見ていた。

 気になったのでTwitterの反応を追っていたが、「さすが久保」、「スポンサーへの配慮もできるなんて20歳とは思えない」など概ね好意的で安堵した。

 もちろん中には五輪開催を巡る騒動と絡めて、「スポンサーのためのオリンピック」といった批判的な書き込みもないわけではなかったが、自然な受け止めがほとんどだった。

星条旗で隠したドリームチーム

 思い出していたのはバルセロナ五輪バスケットボールでの「ドリームチーム」だ。

 NBAのスーパースターが集結したアメリカチームは、当然のように優勝。表彰台ではジャージの上に星条旗を纏(まと)って金メダルを胸にかけた。

 母国愛溢れる名シーンの“真相”が明らかになったのは少し経ってからだ。

 あのときのアメリカ代表チームはリーボックと契約していて、ユニホームにもそのロゴが入っていた。

 しかし、マイケル・ジョーダンやチャールズ・バークレーはナイキと、マジック・ジョンソンはコンバースと……とにかくスーパースターたちにはそれぞれが個人契約しているスポンサーがあった。

 だから、リーボックのジャージで表彰台に立つわけにはいかなかったのだ。

 バルセロナ五輪は1992年だから約30年前。その頃には「スポンサー的にまずいんで」という状況はすでにあった。

いまごろその話?

「久保」の舞台裏でのやりとりをわざわざ取り上げたのは、東京五輪を巡る喧喧囂囂を眺めていてずっと気になっていたことがあったからだ(タイトルに使って当人には申し訳ないが、多くの人に読んでもらえるいい機会なので)。

「ドリームチーム」で述べた通り、現在のような状況は少なくとも30年くらい前にはすでにあった。何も新しく起きた問題ではない。

 そして「商業化」はその間ずっと取り沙汰され、繰り返し議論の対象となってきたテーマでもあった。

 だから、まるで今回の東京五輪で初めて問題化したかのように、批判や失望を口にする報道やSNSには「えっ、いまごろになってその話?」。そんな違和感があった。

大会のプロ化

 スポーツのプロ化をどこを起点とするかは色んな切り口があるが、オリンピックで言えば1984年のロサンゼルス五輪を機に「大会の商業化」は始まった。いまから40年近く前のことである。

 その前の大会がボイコットのモスクワ五輪(については「モスクワ五輪ボイコットが決まった」に)で、その前の前の大会が巨額赤字で開催都市に財政危機をもたらしたモントリオール五輪だった。

 そう、あの頃「儲からないイベント」だったオリンピックは、引き受け手(開催地)がなくなる危険性さえあったのだ。そんなピンチを救ったのが、ロサンゼルス五輪での商業化だったのである。

 もちろん、その副作用として商業化の行き過ぎや肥大化を生むことにもなるのだが、商業化に成功したからこそ大会は存続することができた。それもまた一面の事実である。

 オリンピックだけではない。この時期、他のスポーツイベントもほぼ同時に商業化した(実はスポーツだけではないのだが、あまり話を広げ過ぎるとナンなので)。

 たとえばサッカーのワールドカップは、ロサンゼルス五輪の2年前、1982年スペイン大会から商業化された。

 そして、それぞれの大会が「儲かるイベント」になり、隆盛し、人気を高め、肥大化し……現在に至るのである。

選手のプロ化

「選手のプロ化」はもっと前だ。

 始まりはIMGのマーク・マコーミックがアーノルド・パーマーやジャック・ニクラウスのマネジメントを手掛けるようになった1960年頃。同じ頃、マルチナ・ナブラチロワとも契約していることからもわかる通り、そのフロントランナーはゴルフやテニスの選手だった。

 もちろんボクシングや野球、サッカーなどには、それ以前からプロ選手がいたから、実際にはプロ化はもっと早くから始まっていたことになる。

 念のために言えば、1993年のJリーグ創設を機にプロ化した(とされる)日本サッカーにしても、1980年代半ばからすでにプロ選手はいた。

 Jリーグは「リーグのプロ化」であって、「選手のプロ化」はその前に起きていたのだ。

 余談交じりに続ければ、当時は「プロ」という呼称を使わず、「スペシャルライセンスプレーヤー」と表していた。

 世界ではすでに当たり前になっていたプロも、日本人の道徳観やスポーツ(体育)観では「スポーツでお金をもらうなんて」、「スポーツマンは清くあるべき」……と反発を浴びる危険性があったからだ。

「プロ」に対するアレルギー反応を懸念して曖昧な呼称をつけた。

ぼったくり男爵?

 いずれにしてもスポーツの商業化(≒プロ化・ビジネス化)は、その出発点からすでに随分時間を経ていることであって、新しい話ではない。

 日本人が大好きな高校野球や箱根駅伝も、選手はもちろんアマチュアだが、大会自体は商業化されていると言っていい。

 選手には出場フィーを払わず(つまり無料の選手を使って)ビジネスを行っていることへの疑義も、近年多くの人が指摘している通りである。

 ここでは詳しく触れないが、この議論に関しては「もっとしっかりビジネス化して選手やチームや競技団体に還元すべきである」という意見が強い。

 つまり、むしろ「ちゃんと商業化しよう」という考え方だ。

 とにかく、スポーツの商業化は、リーグであれ、選手であれ、学生スポーツであれ、多層的で入り組んだ問題ということ。

 だからこそ、熟考と熟議が必要なテーマであることも言うまでもない。

 にもかかわらず、一連の騒動ではそんな歴史や構造を理解しないまま、感情的な批判や失望を口にする人が多かった。

 オリンピックに関して言えば、「行き過ぎた商業化」に問題があることは(この40年くらい世界中で指摘され続けている通り)確かだろう。

 実際、IOCも競技や種目の削減などスリム化を図ろうとしている(野球やソフトボールは開催国である日本が猛烈なロビー活動で加えてもらった競技である)。

 バッハ会長にしても「ぼったくり男爵」のワンフレーズでブーイングを浴びせることには強い違和感があった。少なくとも彼は日本からは1円もぼったくっていないからだ。それを言うなら(コロナ患者を受け入れる前提で補助金を得ているにもかかわらず)稼働させていない空きベッドを抱える病院こそ、血税のぼったくりだろう。

商業化から半世紀

 日本人のスポーツ観はいまどのあたりだろう。

 スポーツで生計を立てることを「不純」とする声はさすがに減った気がするが、一方で選手や大会のビジネス化に対しては、いまも拒絶反応を示す人が少なくない。

 しかし、ロサンゼルス大会の成功がそうであったように、オリンピックやワールドカップをはじめとしたメガイベントを、商業化せずに存続させるのは難しい。

 また、商業化せずに開催するということは、その費用を公金、つまり税金で賄うということだが、商業化を闇雲に批判する人たちは、それを理解しているのだろうか。

 そして、その負担を受け入れる覚悟が、国民や市民の側にあるだろうか。

 それにしても、今回の五輪開催を巡る騒動には本当に首を傾げるものが多かった。

 とりわけ、商業化やテレビ放映権の問題を、まるで「いま起きたこと」のように指摘し、糾弾するワイドショーのリテラシーの低さには驚くばかりだった。もしかして、いままで知らなかったのだろうか?

 それどころか、「巨額放映権料を払っているアメリカTVが……」と口角泡を飛ばすコメンテーターたちには失笑さえ覚えた。

 だって、日本のテレビ局も十分、巨額放映権料を払っている。もしかしてアメリカほど払えないことに嫉妬しているのか?

 しかも、そんなやりとりを失笑しながら見ていたチャンネルは、モスクワ五輪の放映権獲得とともに開局し、つい最近までサッカーの日本代表戦を……。

 いや、テレビを批判したいわけではない。

 スポーツはテレビによって発展した。特に日本ではスポーツはテレビによって育てられた、と言っても過言ではない。

 マラソンだって、バレーボールだって……と続けると長くなるので、この辺で。

 久保は3戦連発。頼もしいばかりだ。

 日本サッカーは準々決勝に進んだ。あと1つ勝てば昭和の東京五輪と並び、あと2つ勝てば金字塔のメキシコ五輪を越える。

 約半世紀ぶりの快挙、と言われても昔過ぎてほとんどの日本人はピンと来ないだろう(僕も生まれたばかり)。

 スポーツの商業化が始まったのも、ちょうどその頃である。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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