野茂がメジャー初マウンドに立ち、中田がJリーグ初ゴールを決めた――1995年5月3日

(写真:ロイター/アフロ)

<極私的スポーツダイアリー>

午前4時半、野茂、メジャー初登板

 振りかぶって胸を張り、上体をねじり込むように投球動作に入った。

 背中の「16」が打者に正対する。

 真上から投げ込んだ初球は低目のストレート。

 1995年5月2日、サンフランシスコ・キャンドルスティックパーク。日本時間では日付が変わった5月3日の午前4時半。

 野茂英雄、メジャー、第一球。

 日本でルーキーイヤーから4年連続最多勝、最多奪三振を獲った“トルネード”のアメリカデビューだった。当時26歳。

 先頭打者をフォーク(スプリット)で三振。2番をファーストのポップフライと順調に立ち上がったかに見えた野茂だったが、その後制球が乱れた。

 3番ボンズをフルカウントから歩かせたのに始まり、ジャイアンツの中軸を3連続四球。いきなり2死満塁のピンチを迎えたのだ。

 しかも続くバッターにもまたフルカウント。ストレートは高めに浮き、フォークも抜け気味。これは押し出しか……。テレビの前でそう思ったのを覚えている。

 しかし凌いだ。やはりフォークで三振。高めに抜けたボールだったが、打者は見逃し。最初のピンチを脱した。

 球数はこの初回だけで30球を超えていた。

 日本でもそうだったように、コントロールには難があり、それでもそれを上回るほど魅力的な力感漲るピッチングを、アメリカ初登板でも披露した。

 結局、このデビュー戦、野茂は5回91球を投げて交代する。4つの四球を与えたが、打たれたヒットは1本だけ(3回レフトオーバー)。毎回の7三振を奪い、失点ゼロ。

 白星こそつかめなかったが、三振以外はすべてフライアウト(ゴロなし)という野茂らしいマウンドだった。

「今日は投げられただけでうれしい。全力投球できた。ファンがまた球場に来たくなるような魅力ある投球をしたい」

 容易に辿り着けたわけではなかった。

 だからマウンドで胸を張る背番号「16」と、その頭上に広がっていたカリフォルニアの抜けるような青空が印象的なデビューだった。

午後5時、中田、Jリーグ初ゴール

 野茂のメジャー初登板からおよそ12時間後、平塚競技場で最初のゴールが生まれた。

 前半35分、左サイドで受けたボールをドリブルで持ち込み、中央に切れ込みながら右足を一閃。DF2人の間を抜いたシュートはゴール左隅に転がり込んだ。

 決めたのはこの年入団したルーキー、中田英寿。

 これがプロ初ゴールだった。当時18歳。

 野茂が8球団に1位指名されたドラフトを経て近鉄バファローズに入団したのと同じように、中田も11チーム(当時12チーム中)の争奪戦の末にベルマーレ平塚入りした。

 このときすでに“飛び級”で20歳以下の日本代表にも選出。U‐20ワールドカップ(ワールドユース)も経験していた。

 初ゴールの相手は、レオナルドとジョルジーニョの現役ブラジル代表を筆頭に、日本代表経験者がずらりと並ぶ鹿島アントラーズ。

 この試合時点でも首位。それもチーム新記録の8連勝中だった。

 ところが、ルーキーの先制弾の後、試合は予想外の展開へと転がっていく。

 野口幸司の5得点(Jリーグ記録)をはじめ、平塚がゴールラッシュで大量7得点。7対0で王者を圧倒したのだ。

 スタジアムの雰囲気はアウェイ側スタンドの反応を紹介するのがわかりやすい。まだ追撃態勢だったときにはFWの名前を叫んでいた鹿島サポーターは、やがて「ジーコ」(もちろん、このときジーコはもういない)と連呼するようになり、最後には相手の「ベルマーレ」コールを始めてしまったのだ。

 たぶん、怒りを通り越して呆れてしまったのである(首位だった鹿島はこれを境に失速。8位でシーズンを終えることになる)。

 そんな試合の中で、中田は初ゴールだけでなく、2アシストも記録。左MFという限定されたポジションをこなすだけでなく、ピッチのあちこちに顔を出してチャンスメークする積極的なプレーで、新人ながらチームの大勝を牽引した。

 この頃はまだメディアとの関係も良好だったから、試合後には「特に何点とりたいという目標はありませんが、ゴールは素直に嬉しいです」と、笑顔でインタビューに答えた(マイクを向けていたのはフジテレビの青島達也アナだったと思う)。

 1995年5月3日。いまから26年前のゴールデンウィークのことである。

写真:アフロ

衛星放送とインターネット

 あの日は多くのスポーツファンが寝不足の目をこすりながら一日を過ごしていたかもしれない。

 野茂の初登板がプレイボールされたのが朝(というより未明の)4時半。当時はJリーグブームだったから、それを見た後、サッカーのスタジアムへ出かけた人が少なくないはずだからだ。

 僕もそうだった。当時の日記によれば、テレビで野茂を見た後、<仮眠しようとするが眠れず、そのまま>平塚へ向かっている。そして<東海道線の車中では眠かったが、試合が始まったら眠気は吹っ飛び……>。何とも幸せな一日を過ごしたいる。

 そんな寝不足で幸福なスポーツ観戦が可能になったのは、実はこの頃からである。

 NHK衛星放送の本放送が始まったのは1989年。しかし当初はコンテンツも乏しく、契約率も3%台に留まっていた。それがこの頃飛躍的に伸びた。

 押し上げたのは(この前年のアメリカ・ワールドカップと)野茂のメジャー挑戦だった。

 テクノロジーの進化が海外で行われているゲームをリアルタイムで見ることを可能にし、そこで活躍する日本人選手の登場が契約者数を増やしたのである。

 僕が加入したのも1994年。そしてそれ以降、BS、CSと多チャンネル化していくテレビを通じて、MLBや欧州サッカーのみならず、多くの競技を楽しむことができるようになり、寝不足の日は増えていくことになる(つい最近も「松山英樹」で眠い目をこすることになったばかり)。

 とにかく、現在のようなスポーツ視聴環境が整い始めた時代、それが野茂がアメリカに渡った頃だった。

 さらに言えば、この年の12月、Windows95が日本でも発売される。そう、1995年はインターネット時代の幕開けでもあった。

 その後、通信環境が整い、デバイスがノート、タブレット、スマホとモバイル化され……という変化はここで改めて詳述するまでもないだろう。

 ちなみに野茂の3年後、イタリア・セリエAへ移籍した中田は、その移籍発表を(マスメディアではなく)自身の個人ホームページで行った。

 そんなネット時代の端緒も、やはりこの1995年だったのである。

(このあたりのことは「中田英寿、セリエA鮮烈デビュー」でもう少しだけ詳しく触れています)。

道を切り開いたパイオニア

 時代の転換点という意味では、二人はまさにその体現者であり、パイオニアだった。

 野茂は、当時まだ一般的ではなかった長期(複数年)契約と代理人交渉を要求し、近鉄と交渉決裂。トレードや自由契約ではなく、国内の他球団でプレーができない「任意引退」を受け入れ、アメリカへ渡った。

 以前から、「投手の方は消耗品」という現在では当たり前の考えが受け入れられず、“昭和の大エース”だった監督と衝突していたこともあり、球界の常識に異を唱える問題児として扱われることもあった。

 だから日本球界を去る野茂には「裏切り者」、「代理人にだまされている」、「メジャーで通用するわけがない」とバッシングが浴びせられることになった。

 アメリカでもはじめから認められていたわけではない。ドジャースとは当初、マイナー契約。日本での実績が評価されることはなかった。

 年俸は近鉄最終年の1億4000万円から980万円に減った。

 それでもデビューイヤーに13勝6敗で新人王と最多奪三振のタイトルを獲得。その右腕で実力を証明した。

 翌年には16勝を挙げ、ノーヒットノーランも達成。それどころか「ノモマニア」と呼ばれるファンが現れ、「SANSHIN」とアナウンサーが叫ぶほどの現象を巻き起こした。

 中田もまた、入団当時から監督に対しても敢然と異を唱える選手だった。そんな振る舞いは異端児と捉えられることもあったし、メディアだけでなく、周囲との軋轢にいつも晒された。

 脅迫を受け、ボディガードをつけざるを得ない時期さえあった。

 ペルージャに移籍する際には、野茂のようにバッシングを受けることこそなかったが、日本からの海外移籍がまだ整備されていなかったあの頃、その実現までの道程は平坦なものではなかった。

 7月に入団会見こそ開いたものの、セリエAに出場するための資格が得られたのは、実は開幕直前の9月に入ってからだったのだ。

 もちろんイタリアでの評判も高いとは言えなかった。限られた外国人(EU外)枠を「日本人なんかに」使うことへの批判も少なからずあった。

 それでも開幕戦でユベントス相手に2ゴール。評価を覆し、一躍セリエAの注目選手になった。

 そして翌年には加入時の4倍の移籍金でローマへ移籍。スクデット(優勝)も勝ち取るのである。

 こうして並べるまでもなく、二人がよく似ている。

 野茂も中田も固定観念や旧習に流されることがない。だから周囲とぶつかったし、アレルギー反応も起きた。

 それでも迎合することも、同調圧力に屈することもなかった。そして日本を飛び出し、アメリカとヨーロッパで存在感を示し、NOMOとNAKATAになった。

 もちろん彼らの活躍が日本人プレーヤーの価値を高めたことは言うまでもない。

 だからこそ、太平洋を渡り、ユーラシア大陸を越え、多くの選手たちがアメリカやヨーロッパに挑めるようになった。

 孤立を恐れず、先行者のいない原野を進んだ二人のパイオニアが切り拓いた道である。

1995年

 26年前のデビュー以降、野茂は12年間メジャーでマウンドに立ち続け、7球団に在籍。123勝を挙げ、2度のノーヒッターと、2度の最多奪三振のタイトルを獲って、2008年にユニホームを脱いだ。

 初ゴールのときルーキーだった中田は、Jリーグで3年半プレーした後、ペルージャへ移籍。イタリア、イングランドの6チームに所属し、日本代表としても3度のワールドカップに出場。2006年、その最後の大会が終わった直後に、やっぱり自身のホームページで引退を発表した。

 二人とも記者会見も引退試合もしなかった。彼らは去り際までもどこか似ていた。

 そういえば、日本にいた頃二人が所属していた近鉄バファローズもベルマーレ平塚も、ともに現在はチームの成り立ちを変えている。

 代わりにプロ野球でもJリーグでもIT系のチームが増えた。

 時代は確かに変わったのである。

 最後に、改めて時代と社会を俯瞰すれば、あの1995年は1月に阪神大震災が、3月に地下鉄サリン事件が起きた。その首謀者として麻原彰晃が逮捕されたのは、野茂が投げ、中田が決めた2週間後のことだった。

 その後も日本では大規模自然災害が続発。無差別テロへの警戒心も相まって、不安と疑心が人々の心に影を落とすことになる。

 いまでは当たり前になった監視カメラが、街のいたるところに設置されるようになったのもこの頃からだった。

 その一方で、震災を契機にボランティア活動が一般化し、被災地や弱者へのエール(オリックスでスタメンに名を連ね始めたイチローのユニホームに「がんばろう神戸」とあったのもこの年)も顕在化するようになった。

 現在目にする風景やフレーズが現れ始めたのもこの1995年だったのだ。

 二人のパイオニアは第一歩を踏み出したのは、そんな日本の分水嶺の年でもあった。

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』(光文社)にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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