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明治、魂の雪辱成る。伝説の早明戦――1991年1月6日

川端康生フリーライター
写真:日刊スポーツ/アフロ

1991年1月6日、明治、"再戦"制して大学日本一

 吉田義人が両手を突き上げていた。

 左タッチラインぎりぎりを駆け抜け、コーナーフラッグぎりぎりに飛び込んだ明治のキャプテンは両手を突き上げ、叫んでいた。

 1ヶ月前の対抗戦。残り4分から2トライを奪われた。それもラストプレーでノーホイッスルトライを許し、早稲田に追いつかれて引き分けた。ドローではあったが、「僕のせいで負けた」と吉田は悔し涙を流した(この試合についてはこちらに→「ラストプレーで奇跡は起きた。伝説の早明戦――1990年12月2日))。

 それから1ヶ月後、同じ超満員の国立競技場で、吉田は胸を張って言った。

「グランドに明治の魂がいっぱいありました。明治のラグビーができた」

 雪辱。それも今度は(引き分けではなく)きっちり決着をつけ、大学日本一に輝いた。

 いまから30年前の1991年1月6日、ラグビーの醍醐味と両校フィフティーンが繰り広げた濃密なドラマに、6万人の観客が酔いしれた名勝負だった。

神懸かりの逆転トライ

 やはり紙一重の勝負になった。

 明治が2PGで先行すれば、早稲田も1年生・増保輝則のトライで追いかける。再び明治がリードを広げれば、早稲田もPGで追いすがる。

 対抗戦でドラマチックな同点劇を繰り広げたばかりの両雄の“再戦”。

 国立競技場に詰めかけたファンが予感し、期待していた通りの決勝戦となった。

 それでも後半も半ばを過ぎ、早稲田がトライを決め、ついに逆転したときには、さすが早稲田、やっぱり早稲田か……。そんな空気が濃くなりかけたような気がする。1ヶ月前に目撃したばかりのミラクルの記憶があまりに鮮明だったからだ。

 吉田がタッチ沿いを疾走したのは、そんなときだった。

 ラインアウトから。吉田にボールが渡るまでの明治のアタックがまず素晴らしかった。

 マイボールを保持すると、FWが左、右、左と3度続けて縦に突進。早稲田のディフェンスを近場に集めた。

 そして3度目のクラッシュから素早い球出しで、永友洋司、鈴木博久、一人飛ばして元木由記雄と左オープンに展開。

 元木がクイックでつないだボールが吉田に渡ったときには、彼の前に大きなスペースが開いていた。

 そこから吉田が爆走する。だが、早稲田のバックアップも速かった。

 まず今泉清が来た。長い両腕を伸ばして襲い掛かる。その瞬間、吉田の右手が伸びた。ハンドオフ。1ヶ月前、指先の差で逃したリベンジの相手を今度は振り切った。

 そこから先はもう執念というしかない。一人、二人、三人……。追いついてきた早稲田もすごかったが、飛びかかってくる臙脂のジャージを回転しながらかわし、それでも前へ進み続けた吉田は神懸かってさえ見えた。

 最後はローリングしながらコーナーポストぎりぎりにトライ。逆転だった。16対13。

 そして両腕を天に向かって突き上げた。

 そのとき――。

「目の前に部員全員が喜んでいる顔があったんです。比喩でも、脳裏に浮かんだとかでもなく、本当に目の前に円になって僕を囲んでいる全員の顔があった。こんなこと言うと、頭がおかしくなったんじゃないかと思われそうだけど、本当に」

 目の前に見える96人のチームメイトに向かって拳を突き上げ、吉田は叫んでいたのだ。

ラグビー部の1年と「僕のせいで負けた」からの1ヶ月

 この年の明治は“吉田のチーム”だったと言っていい。

 北島忠治監督からキャプテンに指名されるや、「俺は日本一になりたい。みんなも日本一になりたいと思って(明治に)入ってきたんだよな」。そう確認して厳しく律した。

「チームワークなんて言ったって、目的意識の低い人間が集まってもたかがしれてる」

 練習は設定したテーマをクリアできるまで終わることはなく、前年まで1時間で切り上げることもあった練習時間は4時間に伸びることもあった。

 しかも、その厳しさに容赦はなかった。

「たった一人でも、グランドの隅っこでも、手を抜くことは許さない。全力でやると約束したのに、それを実行できないのは本人の弱さでしかない。まして自分の弱さを正当化したり、周りの選手を巻き込むのは、4年生だろうが、1年生だろうが許されない」

 時には声を荒げて激怒することさえあった。当然、八幡山のグランドにはいつも緊張感が張りつめ、気がつけばそれまでの豪快さと裏腹に淡白な印象もあったチームカラーが塗り替わり、そしてラグビー部そのものが変わっていった。

「僕は全身全霊をかけて1年間取り組み、そんな僕に部員96人全員が、誰一人辞めずに最後までついてきてくれた。それなのに……」

 だから泣いたのだ。対抗戦で早稲田に追いつかれたとき「僕のせいで負けた」と吉田が流したのはそんな涙だったのである。

 そして、そんな吉田を今度は部員たちが鼓舞した。

「『おまえが悪いんじゃない。みんなでもう一度やろう』と同期たちが言ってくれて……。ありがたかった、本当にありがたかったです。それからの1ヶ月間の練習はすごかった。試合に出ないメンバーも、部員全員があのラスト2分を取り戻すことに集中して。もう僕が何か言う必要なんてまったくなくて……」

 その末に突き上げた拳でもあったのだ。

黄金時代のクライマックス

 それにしても、改めて劇的なシーズンだったと思う。

 この大学選手権決勝の2日後、社会人選手権の決勝でもロスタイムでの逆転トライ(イアン・ウイリアムス!)で勝者と敗者が入れ替わった。

 最後のチャンス、乱れたパスを拾ってウイリアムスにつないだのは平尾誠二だった。王者をあと一歩まで追いつめながら敗れ去った三洋電機の宮地克実監督の呆然とした表情と、3連覇を達成した神戸製鋼フィフティーンの喜びぶり。

 紙一重の勝負が続き、天国と地獄がピッチに現出する極上のドラマが次々と起きた。

 秋にはワールドカップもあった。堀越がパスを投げ、吉田がトライを挙げてジャパンが初勝利を挙げた(この試合はこちら→「日本ラグビー、W杯初勝利――1991年10月14日」)。

 80年代から続いたラグビー黄金時代のクライマックス、それがこのシーズンだったかもしれない。

 そして、この2年後、Jリーグが開幕する。

 “ウインタースポーツ”という呼び方自体がなくなり、その王様も国立競技場の主役も、もう一つのフットボールに移っていくことになる。

 そればかりか、気がつけば「早明戦」でさえ空席が目立つようになり……。

 日本ラグビーは長き雌伏のときを過ごすことになるのである。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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