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カズが日本に帰ってきた!――1990年10月28日

川端康生フリーライター
(写真:岡沢克郎/アフロ)

<極私的スポーツダイアリー>

1990年10月28日、日本リーグデビュー

 カズが日本に帰ってきた。

 静岡学園を中退してサッカー王国へ渡り、ブラジルリーグでの日本人初ゴールを記録。名門サントスでレギュラーポジションをつかんでの凱旋だった。

 読売クラブと契約を結んだのが1990年7月。その3ヶ月後、日本リーグ開幕戦が国内でのリーグ戦デビューとなった(当時は秋春制)。

 舞台は三ツ沢球技場、と書けば“30年後”の現在との縁を感じる人もいるだろう。

 しかし、この日の三ッ沢はダブルヘッダー。<日産自動車対東芝>、<NKK(日本鋼管)対読売クラブ>の2試合を同会場で組んでの開幕だった。人気チーム(日産、読売)のカードを重ねることで集客増を目指したのである。

 そのかいあってスタンドはほぼ満員。1万人のファンで埋まっていた。

 午後2時から始まった第1試合は、3連覇を目指す日産が東芝と引き分け。第2試合がキックオフされたのは夕方4時だった。

 スコアが動いたのは開始6分。カズが蹴ったコーナーキックのこぼれ球を菊原志郎が蹴り込み、読売クラブが先制した。

 スタジアムの視線を一身に集めたのは22分だ。ペナルティボックスにカズ。PKだった。

 スポットにボールを置き、助走。そして――カズ、日本での初ゴール。

 まだダンスは踊っていない。背番号も「11」ではなかった。それでも、カズと日本サッカーの、あの奇跡のような物語が、ここから始まるのだ。

 1990年10月28日のことである。

あの頃

 世界が激動していた頃である。

 中国で天安門事件が起こり、東欧で民主化の波がうねり、ルーマニアでチャウシェスク政権が倒れ、ドイツではベルリンの壁が崩壊。そしてマルタ会談で米ソ首脳が「冷戦終結」を宣言した。

 同じ頃日本は、といえば「バブル」を謳歌していた。日経平均株価が史上最高値(3万8915円)をつけたのが1989年末の大納会。企業ランキング(時価総額)の世界トップ20社のうち14社を日本企業が占め、三菱地所がロックフェラーセンターを、ソニーがコロンビア映画を買収。(いさかかヒンシュクを買いながらではあったが)ジャパン・マネーはまさしく世界を席巻していた。

 実際にはカズが帰国した1990年には株価はすでに下落傾向で、バブル崩壊へと転がり始めていたのだが、日本人の多くはまだ気づいていない。

「オヤジギャル」が消費にまみれ、「アッシーくん」が高級車で若い女の子を送迎していた。

 スポーツ界では「F1ブーム」が巻き起こり、この秋の日本GPで鈴木亜久里が日本人初の表彰台に立つ(3位)。

 そして少年ジャンプで「スラムダンク」の連載が始まったのもこの1990年だった。

1990年の日本サッカー

 日本サッカーはどんな時代だったか。

 もちろん「Jリーグ」はまだ始まっていない。ちょうど川淵三郎らが中心となってプロ化へ動き始めた頃だ。

「日本リーグ」では集客のための施策が次々と打たれ、70年代から80年代にかけての“冬の時代”からは脱していた。しかし観客数はこの1990‐91年シーズンも5714人(1試合平均)。

 当時日本リーグの選手たちに行ったアンケートでも、8割がプロ化に賛成していたものの、「プロリーグができたらプロになりますか?」という質問に「YES」と回答したのは3割強だけ。

 プロスポーツ(ファンビジネス)として成り立つ状況ではない、そう捉える者の方が(選手だけでなく)圧倒的に多かったのである。

 もちろん日本代表はまだワールドカップに出場したことがない。

 この前年の1989年にイタリア・ワールドカップ予選を戦った“横山(謙三)ジャパン”はアジア1次予選で敗退。

 同じ組で戦った相手は香港、インドネシア、北朝鮮だったが、それでも勝ち上がることができなかった。

 ちなみにホームでの北朝鮮戦では国立競技場に3万5000人が訪れたが、その大半は日本代表ではなくアウェイチームの応援だった。

 この予選で唯一5対0と大勝したインドネシア戦にいたっては、試合が行われたのは西が丘サッカー場。ピッチに芝はなく、スタンドに観客は9000人しかいなかった。雨が降ったこともあり、重馬場と化したグランドで大敗したインドネシアの監督は「日本では競馬場でサッカーをやるのか」と怒った。

 もちろんこのワールドカップ予選がテレビで生中継されることはなく、敗退が新聞で大きく報じられることもなかった。

 人気も競技力も環境も、日本サッカーはまだアマチュアの時代の中にいた。

 日本人の多くがまだサッカーに関心がなく、「ミウラカズヨシ」と聞けば”ロス疑惑”を思い浮かべる人がほとんど――カズが日本に帰ってきた1990年とはそんなときだったのだ。

日本をワールドカップに連れていく

 だから、その言葉を聞いたサッカー通は耳を疑ったに違いない。

 そんな1990年に帰国したカズは、会見でこう口にしたのだ。

「日本代表をワールドカップに連れていく」

 夢のような話である。ワールドカップどころか、アジア最終予選にも進めず、1次予選で敗退したばかりなのだ。夢のまた夢のような話だった。

 ところが、日本サッカーは本当に変わり始めるのだ。

 カズがデビューした1990‐91年シーズン、開幕戦を4対0(カズの初ゴールの後も武田修宏のオーバーヘッド、日本に帰化したばかりのラモス瑠偉のゴールで加点)で快勝した読売は、そのままシーズンを独走して4年ぶりに優勝。

 そればかりかリーグ平均の倍以上となる1万3000人(1試合平均)を集める。その間には、国立競技場に4万人を集めた試合もあった(古河のホームゲーム)。

 ベスト11に堀池巧、加藤久、三浦泰年、ラモス、武田、そしてカズと6人が選出されたチャンピオンチームは、観客を呼べる「人気クラブ」となった。

 そして翌1991‐92シーズンの最終戦。読売対日産でついにチケットが売り切れる。国立競技場のスタンドが6万人の観客で埋まったのだ。

「いつかは国立を満員に」

 日本リーグ創設から28年、冬の時代も経験した先人たちが口にし続けた悲願が、最後のシーズンの最後の試合で実現したのだ。

 同じ頃、日本サッカーにプロリーグの足音が響き始める。

 1991年2月、参加10チーム(オリジナル10)発表。7月、新リーグの名称「Jリーグ」発表。

 そんな新時代のうねりは日本代表にも及んだ。

 1992年、日本代表監督にオフトが就任。

 それまで日本リーグ所属企業からの“出向”で賄われていた代表監督に、周囲の反対を押し切って「史上初めて外国人」を起用したのは、当時プロリーグ創設を主導していただけでなく、強化委員長も務めていた川淵だった。

 そして、川淵にそんな決断をさせたのは、日本代表入りしたばかりのカズであり、ラモスだった。彼らの強いプロ意識と自己主張を躊躇しない姿勢を目の当たりにし、“サラリーマン監督”の限界を悟ったのだ。

カズがもたらした変化

 それだけではない。カズは自らサッカー協会とも向き合った。

 日当や賞金の分配、勝利ボーナスの導入、移動の飛行機や宿泊するホテル、ホペイロ(用具係)の起用……。

 そんな待遇や環境の改善を先頭に立って要求し続けた。

(いまとなっては信じられないことだが)かつては日本代表を辞退する選手は珍しくなかったのだ。

 勝てるわけではない。もちろんワールドカップなど夢のまた夢。経済的メリットもなければ、社会的ステータスもない。そもそも注目されていない。だから日本代表に魅力を感じない。そんな時代もあったのだ。

 協会の代表チームの位置づけも高いとは言えなかった。カズが帰国する2年前、日本は初めて予選を突破してアジアカップ本大会に出場したが、このとき送り込んだ代表チームは“大学選抜”だったのだ。これでは「日本代表にプライドを持て」という方が難しい。

 そんな日本代表を変えようとカズは、ピッチの外でも戦ったのである。

 さらにメディアでも積極的にサッカーをアピールした。プロスポーツがエンターテイメントであることを皮膚感覚で知っていたからだ。

 いつだったか読売ランドのクラブハウスで声をかけられたことがある。

「その記事っていつ出るんですか」

 取材相手は他の選手だった。なのに尋ねられて少し首を傾げた。

「インタビューしてどれくらいで(雑誌が)出るのかな、と思って」

 そんなことを考えてるのか、と驚いた。読者にどう訴求するかを気にしていた。どうすればサッカーに関心を持ってもらえるかを意識していた。

 だから、これから始まる新時代を体現するアイコンとして率先して振る舞った。

 カズが一人で変えたとは言わない。しかし、カズがいなければ、あれほどの変貌を遂げることはできなかっただろう。輝きを増していく日本サッカーの先頭にはいつもカズがいたのだ。

 そして――。

初ゴールから3年後、1993年10月28日……

<アメリカへ行こう、みんなで行こう>

 カタールのドーハに歌声が響いていた。

「日本代表をワールドカップに連れていく」

 そう宣言してから3年。かつて“辞退者”もいた日本代表は、Jリーガーなら誰もが目指す“憧れのチーム”へと変わっていた。

 そんな“オフトジャパン”は1992年8月、ダイナスティカップで優勝した。日本代表にとって国際大会での初タイトルだった。

 さらに11月、アジアカップでも優勝。“大学選抜”で臨み、注目されることもなかった前回大会とは違い、広島のスタンドには大勢のファンが集い、そればかりか踊り始めていた。日本代表が「サポーター」とともに戦うようになったのはこのときからだ。

 決勝トーナメント進出をかけたイラン戦の終了間際、“魂を込めて”右足を振り抜いたカズは、そんなスタンドに向かってダンスを踊った。

 どちらの大会もMVPはカズだった。

 そして始まったワールドカップへの挑戦

 1993年4月、1次予選の初戦、4年前、9000人の西が丘で戦った日本代表の背中には4万人のサポーターがいた。ワールドカップ予選は、選ばれた選手たちが誇りと生活を賭けて戦える舞台になった。そんな満員の神戸ユニバで虎の子のゴールを決めてカズダンス……・。

 そして5月15日、Jリーグ開幕。空前のサッカーブームが巻き起こる。その真ん中には読売改めヴェルディのスター軍団と、カズ……。

 そして――。

<アメリカへ行こう、みんなで行こう>

 ワールドカップはもう目の前にあった。

 1993年10月28日。奇しくもカズが日本での初ゴールを決めてからちょうど3年後――しかし、ロスタイムに悲劇は起きた。(→「ドーハの悲劇」)

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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