ストの理由には反対、しかしストには賛成!?

 史上最長と言われるフランスの交通機関を中心とするストライキが2ヶ月以上を経てようやく終わりつつある。

パリにいる友人にストの様子、フランス人の反応などを聞くとそれがなかなか面白い。構想日本が行っている「自分ごと化会議」に通じるところがあるので、少し紹介したい。

 このストは、マクロン政権が発表した年金改革に反対して、フランス国鉄(SNCF)やパリ交通公団(RATP)を中心に、昨年12月5日から続いている。

 フランスの年金は職種ごとに40以上の制度があり、支給開始年齢にも10年以上の差がある。マクロンの改革はそれを一本化し、現代の働き方に合ったものにするとともに、年金財政を健全化しようというものだ。

 年金改革はフランス政府の長年の懸案で、過去にも長期にわたるストの結果、首相が辞任するなど何度も頓挫しているが、今回はマクロン大統領の選挙公約でもあり簡単には退けない。

(1)個人の生活は、

 まず、個人の生活への影響、それに対する反応はどうだろう。パリ市民に聞くとストのピーク時にはみんな文句が止まらなかったという。クリスマスから新年にかけて、パリの地下鉄はほぼ全面運休だったので道路は大渋滞。その間を自転車や電動キックボードが縫うように走り、交通量の多い所では市民どうしの小競り合いも見られたという。ルーブル美術館やオペラ座など観光客が多い所は一時閉館した時もあったし、移動がままならないので、商店などは相当打撃があったと言われる。

 こう言うと叱られるかもしれないが、フランス人、特にパリ市民は普段から文句が多い、何かに対する批判が多いという印象がある。不自由を強いられ、仕事もままならないのだからそれに輪をかけて文句タラタラなのは想像がつく。

(2)政府の政策に対しては、

 では、これだけの規模のストライキの原因となっている年金改革についてはどうなのだろう。7割以上が年金改革賛成というフランス国内での世論調査もある。私の友人が感じる範囲でも、改革に賛成という人は多いようだ。

 福祉国家としての歴史が日本より長いフランスでは年金の起源も古く、職種によってマチマチだ。昔は平均寿命が短かったことに加えて、肉体労働も多かった。例えば鉄道労働者は石炭を焚いて蒸気機関車を動かしていたため、キツい肉体労働が多かった。そこで退職も早く、年金支給が始まるのは今より10年早い50歳そこそこ。それが今でも続いている。これは一般のサラリーマンから見ると、現代の実情に合わない既得権益であり、マクロン改革賛成ということになる。それを守るためにストライキをして多くの市民に迷惑をかけている公共交通機関の労組や職員はケシカランということになる。

 余談がてらに付け加えると、パリのオペラ座所属のダンサーがオペラ座の前でスト支援のバレエを行ったという報道があった。オペラ座のダンサーの年金は17世紀末にルイ14世が導入し、その性格上、42歳での退職とその後の年金支給が認められているという。こちらは職業柄退職年齢が早いのは仕方ないのかもしれない。しかしそうなると、平均寿命が長くなった現代では勤務年数の倍近くの期間、年金をもらうことになるのだろうか。

(3)ストに対しては、

 年金改革に賛成する国民が多く、これだけ大規模かつ長期にわたって国民に不自由を強いているストライキならば、ストライキやデモ自体が多くの国民の反発を買いそうだが、そこがそうでもないらしい。フランス国内での調査でも、6割以上の国民がストを支持しているという。今回のストのように大規模、長期間になると、商店などには相当の打撃があったようだし、小規模事業主やパートタイム勤務者など組合に加入していない人たちの利害は誰も代弁してくれない。にもかかわらずなのだ。

 ストの理由に対する賛否と、スト自体への賛否が違うというところが面白い。というかフランス的と言うべきか。ストは、労働者に与えられた雇用主や国家権力に対する正当な対抗、主張の手段だということなのだ。年金以外のことでもいつか自分に不利益が及ぶ政策が行われようとした場合には、自分もストやデモをする。その点ではすべての労働者、従業員がお互い様ということなのだろうか。

いつ自分がストライキをする、あるいは闘う立場になるかもしれないから、目の前にある不便に文句を言いつつも、我慢もしている、とも言える。

 もっと立派な説明を加えるとすれば、国民が大きな犠牲を払って勝ち取った人権を守るためには、ストによる不便などは小さな犠牲に過ぎないということだろうか。

(4)個人の本音と社会の建前の併存

 私は、この個人の本音と社会の建前の併存、両立が民主主義にとっては重要だと思う。それは国民全体の中で公と私、パブリックとプライベートが併存しているからだ。そして、それが今の日本に極度に欠けていると思う。

自分の都合、損得が大事だからこそ、全体のことにも関心を持つ。社会のこと、パブリックなことを自分ごとに思うというのはこういうことだろう。

 単純な比較はできないが、日本では1970年代半ばをピークにストの回数、参加者数が激減している。また、今回のフランスのストのように、政府の政策に対して多数の組合がストで対抗するケースは、高度成長期以降はあまりなかったと思う。

日本の政策決定がストをするまでもなくスムーズに行われてきたとも言えるし、世の中全体のことについて国民の関心が薄れていったとも言える。

 仮に今回のフランスのストのようなことが行われたら、国民やマスメディアの反応はどうだろうか。生活面での不便、経済に対する影響は大きく報道されただろう。また、政策に対しては賛否様々な意見が出され、報道もされたと思う。しかし、ストを行うことそのものに対しては直接の当事者以外にあまり関心を示さないような気がする。

(5)自分ごとか他人事か

 どこの国でもそうだが、政府が大きい政策決定をする時は、直接の利害関係者を中心に折衝、調整をする。その際、メディアがどの程度正確に報道するか、国民が関心を示すかが、政治に対する自分ごとの度合いを表わしていると思う。日本では多くの国民はそれほど関心を示さないことが多い。他人事なわけだ。政治において政府と国民のせめぎ合いがないとも言える。

日本では、そこに参加するのは利害関係を持つか、さもなければその政策に対してイデオロギー的な関心を持つ人が多い。原発などはその最たるものだろう。

 そうなると、幅広い議論、冷静な議論がしにくくなる。

 今回のストを通して、フランス人は対象となっている政策や制度改革への賛否を別にして、この政府と国民のせめぎ合い自体を重視しているように見える。それは政治や世の中のこと全体を多くの国民が「自分ごと」として考えていると言えないだろうか。

(6)「自分ごと化会議」

 構想日本が行っている「自分ごと化会議」が140回を超えた。参加者は約1万人、参加者を募るために送った通知は23万通にのぼる。

参加者に聞くと、通知が来ると最初は参加をためらった人が多い。

 「そんな所で議論できそうにない」

 「どんな人が来ているか分からない」

 「出たがりに見られるのではないか」等々。

 ところが、参加して2回、3回と会議に出ているとみんなどんどん積極的にしゃべり始める。ほぼ全員が、他の人の話を聞いていると自分の考えが深まり、関心も強くなると言う。

 つまり、場所が用意されれば日本人も社会のこと、政治的なことに積極的に参加するのだ。ここには反権力とか政治に対する私的要求とかいったものは見当たらない。その意味で140回あまり行って一度も「失敗」はなかった。

社会全体が多大なコストを払ってストをしなくても、「自分ごと化会議」によって政府と国民の健全なコミュニケーションが定着することの可能性を示している。

 自己主張の強い国で近代民主主義は始まり、今混迷している。社会のことを自分ごとにする場さえあれば、和を重んじる日本人が、その混迷を突き破る大きな可能性を持っていると思う。