「再審開始」取り消しから1カ月 袴田巖さんを支援する日本・米国のボクサーたち

自宅の袴田巖さんとWBC名誉チャンピオンベルト(2018年7月4日筆者撮影)

 東京高裁が「袴田事件」の再審開始を取り消して1カ月。弁護団は特別抗告し、審理は最高裁へ移りました。袴田さんにチャンピオンベルトを渡したWBCと無罪を信じる日米のボクサー達。拳に秘められた友情の物語ー。

 静岡地裁が再審開始を決定し、袴田巖さんが釈放されたのは2014年3月のことでした。当時78歳。47年7カ月ぶりの釈放でした。一方、検察側はこの決定を不服として東京高裁に即時抗告。そして2018年6月11日、東京高裁は「再審開始決定を取り消す」という決定を下しました。

袴田さんの弁護団は、「争点となった『DNA鑑定の信用性』について、高裁は評価を誤っている」「まるで結論ありきの判断だ」と批判。東京高裁の決定を不服として最高裁に特別抗告しました。支援者からは「袴田さんの再収監は許さない」「今度こそ再審開始と無罪の確定を!」との声が上がり、その輪も広がっています。

 袴田巖さん(82)は元日本フェザー級6位のプロボクサー。そして、袴田さんが東京拘置所に収監されていたときから10年以上支援を続けるのが、日本プロボクシング協会「袴田巖支援委員会」の新田渉世さん(51)です。釈放前の袴田さんとは、数少ない面会者の一人として、一時期は毎月のように拘置所で面会しました。長年、死刑執行の恐怖に晒されてきた袴田さんの境遇を想いながらも、同じボクシングを志した“人として”向き合ってきました。また輪島功一さんら日本の元世界チャンピオンはもちろん、世界中のチャンピオンにも呼びかけ、再審開始に向け署名を集めました。

 そして袴田さんは2014年3月に釈放。翌4月にはWBC(世界ボクシング評議会)から名誉チャンピオンベルトも贈られました。新田さんと袴田さんの年齢は30歳以上も離れています。世代は違っても、リングの上では拳一つ。そんな同じ志を持つボクサー達に広がる、袴田さんへの想いー。

新田さん達の支援活動を追った動画をご覧ください。

■「再審開始」取り消し… その時、袴田さんはー 

 6月11日の高裁決定後も、それまでと変わらず、浜松の街を歩く袴田さん。「再審開始を認めない」と裁判所が判断したにもかかわらず、街の声は、以前にも増して温かくなりました。

「絶対、無実だと思ってますよ!」「頑張って!」

散歩に同行してみると、袴田さんが見知らぬ人から、そんなふうに声をかけられます。中には、わざわざ追いかけてきて、握手を求める人まで。

今回の高裁の決定は、再審開始を取り消しつつも、「死刑執行の停止」と「拘置の停止」は維持するという内容でした。死刑囚という身分のまま、袴田さんの釈放は継続されます。結果として「再収監」には至らず、その部分については「ひと安心」と話す姉の秀子さん(85)。決定の日は、裁判所の前でマイクを握りました。

「残念でございます。何をかいわんやです。まあ、次に向かって進みます」

雨の中、「不当決定」の垂れ幕が掲げられた東京高裁前。そこに、巖さん本人の姿はありませんでした。

東京高裁決定の直後 取材に応じる袴田秀子さん(2018年6月11日筆者撮影)
東京高裁決定の直後 取材に応じる袴田秀子さん(2018年6月11日筆者撮影)

 決定前日の朝。浜松の自宅にいた巖さんは、本当は秀子さんと一緒に出かけるつもりで支度をしていました。

「きょうは、ローマへ行くからね」

そう巖さんに言ったのは秀子さんでした。今年に入り、巖さんは妄想の中で、「ローマに行く」と口にすることが度々あったからです。長年の勾留で精神を病んだ巖さんは、「拘禁反応」と診断されています。強い妄想に囚われているため、「袴田巖は『御身(おんみ)の神』になり、最高裁や国家権力との闘いに勝った。そもそも袴田事件はないんだから、死刑判決なんか出しようがない」などと話します。それでも秀子さんは、東京高裁の決定に合わせ、巖さんを連れて上京するつもりでした。

ところが午前10時過ぎ、異変は起きました。

「嘘のローマなんか、行ったってしょうがないんだ!」

秀子さんが止めるのも聞かず、一人慌てて玄関を出て行く巖さん。突然、東京行きを拒否したのです。聞けば、その日は朝から、翌日に控えた高裁決定を見舞う電話がひっきりなし。そして東京に向かう巖さんの姿を撮ろうと、映画の撮影隊が自宅を訪ねて来ました。すると巖さんは、その場から逃げるように出て行ってしまったのです。“いつもと違う”物々しい雰囲気が、巖さんを不安にさせたのでしょうか。

仕方なく、秀子さんは一人東京へと向かいました。

 決定の翌日、自宅に戻った秀子さん。留守番していた巖さんに、「東京に行って、いま帰ったよ」と、いつものように声をかけました。秀子さんの留守中にも、巖さんのいる自宅周辺には沢山の取材がやって来ました。

以来しばらくの間、日課の散歩に出ると、近くの公園のベンチに腰掛けて、なかなか家に帰って来ようとしない巖さん。秀子さんに向かって、「(家に)誰か来てるのか?」と尋ねたといいます。秀子さんは、こう答えました。

「誰も来てへんよ。もう、ひと段落したでね。安心していいよ」

東京高裁の決定について、秀子さんから巖さんに話すつもりはないといいます。

■ボクシング界の支援復活 …そして面会実現へ

 東京高裁の決定を受け、翌日に東京高裁と検察庁を訪れたのは、日本プロボクシング協会「袴田巖支援委員会」のメンバーです。検察庁で対応に当たった職員を前に、一人が声を荒げました。

「あなた達は分かっているはずだ。本当は、袴田さんは無罪だと!勇気を出してください。再審開始にできない、いまの仕組みを変えていけるのは、あなた達しかいないんです!」

この「袴田巖支援委員会」の委員長を務めるのが、新田渉世さん(51)。元東洋太平洋バンタム級王者で、現在は川崎市でボクシングジムを経営しています。新田さんが「袴田事件」を知ったのは、2004年。第1次再審の東京高裁で、再審請求が棄却された時でした。支援の一環として、袴田さんが収監されていた東京拘置所に通い始めましたが、当初面会は叶いませんでした。なぜなら確定死刑囚は、家族と弁護士の他、「面会権」を特別に与えられた関係者としか、面会を許されていないからです。

新田渉世さん 釈放された袴田さんとボクシング談義(2014年4月筆者撮影)
新田渉世さん 釈放された袴田さんとボクシング談義(2014年4月筆者撮影)

 ところが、07年のある日。新田さんは突然、拘置所側から面会を許可されたのです。そして、袴田さんと初めての対面が実現しました。ボクシング関係者としては、27年ぶりの面会でした。

実はその年、死刑囚の獄中処遇を定めた「監獄法」が改正され、新たに施行された「被収容者処遇法」により面会制限が緩和されました。その結果、新田さんにも、新たに「面会権」が与えられたのです。毎月のように拘置所を訪れては、袴田さんとボクシングの話をしたといいます。長年の拘禁により、精神を病んでいるとされた袴田さんですが、新田さんとボクシングの話をする時だけは、会話が噛み合ったといいます。

■「支援活動」の紆余曲折を経てー

 ボクシング界の「袴田事件」支援の歴史。そもそもは、1992年にまでさかのぼります。当時、全日本ボクシング協会が、元プロボクサーの袴田さんを支援しようと「袴田巖再審支援委員会」を発足。袴田さんの死刑確定から12年が経ち、第1次再審請求の静岡地裁で、まもなく決定が出されるというタイミングでした。ところが94年に出た地裁の決定は「再審請求棄却」。その結果、支援活動は停滞し、ついには途絶えたといいます。

 それから12年経った2006年。東日本ボクシング協会の理事だった新田さんが、ボクシング界としての支援を復活させたのです。翌年には、日本プロボクシング協会が支援に乗り出し、現在の「袴田巖支援委員会」が発足します。しかし、活動の継続は簡単ではなかったと新田さんは振り返ります。

「2008年の最高裁棄却の後。あの時はちょっと、キツかったですね。」

当時、盛り上がりを見せる支援活動の一方で、最高裁が第1次再審請求を棄却したのです。目標を失い途方に暮れる中、新たに始めたのが、外国の大使館に支援を求めることでした。洞爺湖サミットに合わせ、海外にアピールしようと考えたのです。新たな目標を見つけることで、なんとか活動は継続。復活した支援活動を途絶えさせまいと尽力しました。

 そして今回の、「再審開始取消し」という東京高裁の決定。しかし以前と違い、活動が停滞する不安はないと新田さんは話します。

「まだ最高裁があるっていうのと、今回の決定は、メディアで大きく取り上げられていますよね。事件への疑問を広げていくには、逆にチャンスのような気もしています。」

■海を越えた ボクサー同士の絆

 ルビン・“ハリケーン”・カーター氏は、アメリカの元ボクサーで世界ミドル級1位だった人物です。袴田さんが強盗殺人などの罪に問われた事件と同じ年、1966年にアメリカのニュージャージー州で起きた殺人事件の犯人とされましたが、22年後に無罪を勝ち取り、釈放されました。その時、WBC(世界ボクシング評議会)はカーター氏に対し、長年のえん罪闘争を勝ち抜いたことを讃え、名誉チャンピオンベルトを授与したのです。WBCが、リング外で世界チャンピオンベルトを授与したのは、史上初のことだったと言います。

ルビン・“ハリケーン”・カーター氏(中央)/デンゼル・ワシントン(左)主演の映画「ザ・ハリケーン」のモデルとなった(1990年12月撮影)【写真:ロイター/アフロ】
ルビン・“ハリケーン”・カーター氏(中央)/デンゼル・ワシントン(左)主演の映画「ザ・ハリケーン」のモデルとなった(1990年12月撮影)【写真:ロイター/アフロ】

 そんなカーター氏の無罪を、当時、獄中で知った袴田さん。カーター氏に向けたメッセージを、家族への手紙の中に綴っていました。

<私は今、この日本の最大の監獄最深部の独房の窓から、…万歳!万歳!と心から叫びたい衝動にかられています。カーター氏よ!ともかく晴れて良かったね。おめでとう!(1989年 袴田さんの手紙より)>

この手紙の内容は、支援者の手を経て、15年後にようやくカーター氏の元に届きます。そして2008年に、カーター氏が、袴田さんへのビデオメッセージとして返した言葉があります。

「Free Hakamada Now! (今こそ、袴田さんに自由を!)」

それは、今ではボクシング界の「袴田事件」支援の合言葉にもなっています。

カナダのトロントで、このビデオメッセージを収録した時、カーター氏が熱く語っていたことがありました。

「日本のボクシング協会も、袴田さんにチャンピオンベルトを授与すべきだよ。僕が、WBCから貰ったようにね。」

 そして、2013年。新田さんたち日本のボクシング界の要請に応え、WBCが「袴田事件」の支援を表明。その翌年、WBCは釈放された袴田さんに、カーター氏と同じ「名誉チャンピオンベルト」を授与したのです。

WBC名誉チャンピオンベルト授与式にて 入院中の巖さんに代わり参加した姉・秀子さん(左から2番目)とマウリシオ・スライマンWBC会長(中央)新田渉世さん(右)(2014年4月撮影)【アフロスポーツ】
WBC名誉チャンピオンベルト授与式にて 入院中の巖さんに代わり参加した姉・秀子さん(左から2番目)とマウリシオ・スライマンWBC会長(中央)新田渉世さん(右)(2014年4月撮影)【アフロスポーツ】

 袴田さんの釈放から約3週間後。カーター氏は、帰らぬ人となりました。享年76。末期の前立腺がんを患い、痛みに苦しむ病床で、袴田さん釈放の知らせを聞きました。カーター氏を看取った、親友のジョン・アーティス氏によると、その瞬間、カーター氏はこう言って微笑んだといいます。

「Fabulous! Fantastic!(信じられない!最高だよ!)」

釈放後の人生を、えん罪被害者の支援活動に捧げたというカーター氏。その遺志は、遠く離れた日本で、袴田さんを支援するボクシング界に受け継がれているのです。

■袴田事件とは

1966年6月30日午前1時50分ごろ、旧清水市(静岡県清水区)のみそ製造会社の専務(当時41)宅から出火。焼け跡から、刃物で多数回刺された一家4人の遺体が見つかった。県警は8月、同社従業員で元プロボクサーの袴田巌さん(当時30歳)を強盗殺人や放火などの疑いで逮捕した。袴田さんは否認を続けたが、勾留期限間際に「自白」。1審では一貫して無実を訴えたものの、死刑判決が出された。1980年最高裁が上告を棄却し、死刑が確定。

■元プロボクサー・袴田巖さん

元日本フェザー級6位

戦績:29戦16勝(1KO)10敗3分

年間最多試合数の日本記録を持つ(年間19試合/1960年)

■事件経過とボクシング協会支援の歴史

1966年6月 事件発生

1966年8月 静岡県警が袴田さんを強盗殺人や放火などの容疑で逮捕

1980年 最高裁が上告棄却し、死刑が確定

1981年 弁護団が静岡地裁に第1次再審請求

1992年 全日本ボクシング協会「袴田巖再審支援委員会」発足

1994年 第一次再審請求を静岡地裁が棄却

     ボクシング界としての支援活動が消滅

2004年 東京高裁が再審請求棄却

2006年 ボクシング界が支援を再開

     東日本ボクシング協会「袴田巖再審支援委員会」発足

2007年 日本プロボクシング協会「袴田巖支援委員会」発足

     新田渉世氏が、獄中の袴田さんと初めて面会

2008年 ルビン・“ハリケーン”・カーター氏が「Free Hakamada!」の

     ビデオメッセージを贈る

     最高裁が再審請求棄却

     弁護側が静岡地裁に第2次再審請求

2014年 静岡地裁が「再審開始」と「死刑執行・拘置の停止」を決定

     袴田さんを即日釈放

     静岡地検が東京高裁に即時抗告

2018年6月11日 東京高裁が再審開始の取消しを決定

    6月18日 弁護団が最高裁に特別抗告

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の動画企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】