KNNポール神田です!

2020年の佐野氏の申し出によるオリンピックエンブレムの取り下げは、一部のネット民の勝利のように報道されることが多いが、それは違うと考えている。むしろ、それは、「ネット上での衆人監視社会のはじまり」のように感じる。

■日本人はイジメることが大好き

日本人のイジメが陰湿化する一番の大きな理由は「集団心理」にあると思う。「みんながしていることは正しく、みんながしていることを自分もしなくてはいけない。みんなと違う人は正しくなく、みんなが直してあげなくなてならない」的な力学が働いている。これって、長い長い間の日本の村社会の独自のカルチャーではないだろうか?「後ろ指をさされないように生きる」「波風たてないように…」という本質ではないところに気を使う。「五人組」や「隣組」の悪癖が21世紀にもはびこっている。これは管理者側からすると最小ユニットで監視しあい、自治が保てる。密告を恐れ、疑心暗鬼の中で法令を遵守させるのに都合のよかった仕組みだ。これはまた、日本人特有の「空気」なのかもしれない。吸うための空気を読み込まなくては日本では生きていけない。しかし、これは「差異」を認めない、「異端」を認めないという一種の鎖国に近い感情でもある。異端を諭す側に回りさえすれば日本では常に安全なポジションを得ることができる。

それが、現在、ネットの力でさらに増幅され加速化されている。いわば、ネットでさらに隣組が強固となり、ソーシャルやSNSのプラットフォームではフォロワーも含めて互いに「衆人環視」しあっている状況だ。

■「衆人環視」はマスメディアの「特権」であった

かつて、一般国民はメディアというパワーがなく、安保法案で国会の前でただ集まることしか出来なかった。しかしそれが、今は国会の前で集まることもできれば意見をフォロワーに向かって飛ばし、共鳴されるとそれが自然に拡散される「しくみ」を手に入れた。すでにそれが、社会現象としての母集団を形成してしまうとマスメディアはその動きをいち早く報道することによって、「ネットで話題」「ソーシャルで話題」と、かつての「アメリカで大流行!」の同じ文脈で取り上げるようになった。一部のリアルを代表する、暇な声なき声が、突然、最大化されて増幅し暴れ始める。

■ニュースにならない些細な事がニュースになる時代

かつてバッシングは、マスメディアにしかできなかったスキルであり芸当だった。「一杯のかけそば」の作者はスキャンダルと共にこの美談のエピソードもふくめてまるごとマスメディアによって拡散され、一気に消し去られてしまった。

2006年、朝青龍の休場しながらモンゴルで中田英寿とサッカーをした話もマスメディアがバッシングし、ワイドショーの視聴率に貢献してきた。そこにはソーシャルは介在できなかった。それは日本のtwitterのブレイクが2010年だったからだ。

そして、それ移行大きく変革する。ブログや2ちゃんねるの一部のネット民だけではなく、ネット上のソーシャルメディアが威力を持ち始めてきてから、イジメの構図が大きく変化する。市井の普通の人たちが、twitterやfacebookで、冷蔵庫に入るアルバイト学生を「バカッター」としてバッシングを始めたのだ。かつての大人社会であれば、学生バイトのいたずらにそんなに目くじらを立てることがなかった。また、そんな些細なことがニュースになることもなかった。そんな些細な事がネットで大騒ぎになるからニュースになってしまうのだ。誰もが、見に覚えのあるような些細なイタズラが大騒ぎになる時代だ。スマホを片手に誰もがスクープを狙うパパラッチ化してきた。報酬ではなく、ネタにいいね!やRTされることを期待しつつ。誰かが血祭りにあげられるのを待ち望むようになった。2ちゃんねるの掲示板で炎上情報をみて書き込みでイジめる時代から、自分のソーシャルでイジメを拡散できるようになったものだからタチが悪い。さらにスマホで決定的ない異物混入の写真は一気に拡散される。2014年のペヤングやマクドナルドのプラ片混入は記憶にも新しい。昭和の時代、虫の混入やビニールやプラスチック、髪の毛の混入は当たり前で大騒ぎすることではない。しかし、今やその場のいやなイメージがソーシャルで拡散され、企業にとっては致命的な損害となった。

■2014年からソーシャルで抹殺された佐村河内守、小保方晴子、佐野研二郎

ゴーストライター問題で、佐村河内守はメディアならず、ソーシャルからもバッシングされた。障害者であるかないかは音楽とは関係がないにもかかわらず。しかしNHKをはじめとするメディアは「現代のベートーベン」と持ち上げながら蹴落とした。ゴーストライターは話がこじれなければ、発覚しなかっただけの話だ。小保方晴子も当初「リケジョブーム」を牽引した。STAP細胞も小保方女子でなければここまで話題にならなかった。しかし、それが一気に魔女裁判化していった。同時に「理研」という組織の飯櫃な組織構造も明るみとなる。結果としては小保方氏のトカゲのしっぽ切りで理研は存続し、予算を得ている。そして、佐野研二郎氏だ。筆者も画像検索の記事や、コスタリカ博物館の記事でバッシングに結果として本意ではなく加担することになってはしまったが、佐野氏は、ソーシャルの被害者だと思う。しかし、佐野氏の場合は、ソーシャルのルサンチマンを多いに刺激してしまったことが問題だ。五輪エンブレムに対するゆるぎない否定とは裏腹に、スタッフサイドのトレース発覚から、展開例のパクリに至るまで、クリエイティブのプロセスそのものが、素人衆も含めてソーシャルからメディアにまで大否定されてしまった。しかし、その背後にあるのは、誰も自分の責任としてバッシングしない、組織委員会も「東大話法」で誰も責任をとらないで、佐野氏だけを悪者にして、そしらぬ顔で一から出直すとお茶を濁している。佐野氏は、例え出来レースであったとしても、コンテンストで選ばれたのだ。選んだ側にも当然責任があるはずだ。佐野氏は1人でその責任を負う必要はない。しかし、そこには誰もバッシングがない。なぜだろう?

冒頭に書いたように、「みんなの意見は、案外正しい」からだ。「集合知」という知恵は、烏合の衆のスキマ時間にものすごい探索能力を与えた。カオス理論で武装化されたアルカイダ同様にイジメのテロリストと化していく。異端はコテンパにバッシングされる。いやバッシングされるべきだと思われている。我々はガス抜きとしても、常に誰かに石をなげつけたいのかもしれない。そして、これはまた、知らず知らず、自分もゾンビ化して噛み付き、噛み付かれた人間も噛み付き始めていく。こうやって、イジメのゾンビ構造はソーシャルだけではなく、ついにオリンピックそのものの商品価値をなくしはじめた。

■「ネット衆人環視社会」

エンブレムからサントリーのトートバッグに至るまで、佐野研二郎氏を取り巻くデザイン疑惑が絶えない。

しかし、それを追求しているのが、マスメディアではなく、ネット上における無数の無名の人々だ。

そして、今回の東京オリンピックが呪われている原因は、それらが決定されるプロセスが社会に可視化されておらず、密室でおこなわれてきた経緯がある。今までは密室で一部の人だけに利益が供与されるのが当たり前であった。しかし、ソーシャルは唸りを上げて、公平公正でないものに噛み付きはじめているのだ。このソーシャルメディア時代は、社会から承認を得るためには、すべてのプロセスを公開していかなければ納得されないという大衆側による、いわば逆規制監視型の「ネット衆人環視社会」となっているのだ。今までのマスメディア主導の世論形成とは全く事情が異なった。日常のやりとりでは、絶対に主従の関係があり行動すら管理されている。しかし、匿名性の高いネットの世界では思いきり誰もがむとんちゃくに強くなれる。 そして残忍にもなれる。 法律に触れない限り基本的に言論は自由だ。 それは、「デスノートを持った夜神月(やがみ・ライト)」でもある。

誰が「佐野研二郎」を殺すのか? 捜査の手緩めぬネットの人々

http://www.sankei.com/premium/news/150830/prm1508300028-n3.html

■ソーシャルメディアは自分の「徳」を高めるメディア

このままソーシャルにおける「隣組」と「ソーシャルにおける公開処刑」が続くとどうなるのだろうか?互いに厳しく監視しつづけ、他人のツケこめるところがあれば、一気にハイエナやウジ虫のように群がる民ばかりになるのだ。それは、自分の自信のなさの裏返しだ。体制に寄り添い、自分の身を安全な場所へ確保し、世知辛い世界を生き残る。そのストレスや怒りを、叩いても文句を言わないメディア弱者へ向ける。みんなでやることはすべて正しいからだ。しかし、この思想こそ、最も危険な思想だ。ソーシャルメディアは人を律するためのメディアではない。ソーシャルメディアは自分の「徳」を高めるためのメディアなのだ。他人を律するのではなく、自分の為に自分を律するのだ。自分の「徳」を高めようとすると、他者の為になり。他者の「徳」を高める行動となる。セキュリティレイヤーは上げれば上げるほど、利用者にも苦労が伴う。むしろ、ごく一部の悪意のある人たちの行為を否定するのではなく、認めて上げることのほうが無駄は減るのかもしれない。100%完全なセキュリティを目指すのではなく、多少問題があっても、なんとかなる社会のほうが強いと思う。互いが互いが監視しあうソーシャルな社会ほどつまらないものはない。もっとルーズで、もっと怠惰でありながらも、昭和のあの頃の爆発的なおおらかさが今の日本には一番必要だと思う。