今こそ「励まし合う心」を 苦境に負けず舞台に挑む劇団座長2人の波瀾万丈伝

舞台の冒頭、岡部平太(中央上)と仲間が決意を語るシーン(撮影・岡部拓也)

 福岡市を拠点に活動する二つの人気劇団が、10月末に念願の合同地元公演を敢行する。コロナ禍で劇団の存続さえ危ぶまれるなか、ようやく実現にこぎ着けた舞台。そこには、波瀾万丈の人生をくぐり抜けてきた座長2人の演劇にかける熱い思いと、励まし合いがあった。

 劇団は、建物やバスを擬人化した独特のかぶり物で街の物語を演じる「ギンギラ太陽’s」と、地元の歴史や人物を題材にした時代劇を手掛ける「劇団ショーマンシップ」。両劇団とも20年以上活動している地元密着のプロ集団だ。

 演劇のタイトルは「Peace Hill 天狗(てんぐ)と呼ばれた男 岡部平太物語」。明治~昭和に活躍した日本スポーツの先駆者、岡部平太(1891~1966)=福岡県糸島市出身=を主人公に、その波瀾万丈な生涯を描く。

 合同公演は昨年5月、原作の小説(橘京平著、幻冬舎刊)を読んだ「ギンギラ太陽’s」主宰の大塚ムネトさん(55)が、「劇団ショーマンシップ」座長の仲谷一志さん(55)に呼び掛けて快諾を得た。当初、2人は東京オリンピックと戦後75年を迎える今夏に向けた上演を考えていた。

稽古初日の大塚ムネトさん(左)と仲谷一志さん(6月26日、筆者撮影)
稽古初日の大塚ムネトさん(左)と仲谷一志さん(6月26日、筆者撮影)

 柔道家だった岡部平太はスポーツコーチとして多くの選手を育成し、戦前は満州で日中融和に尽くした人物。一人息子を特攻隊で亡くして悲嘆にくれたが、戦後は息子の鎮魂と平和を願い、福岡市にスポーツの聖地「平和台」を創設した。1964年の東京オリンピックでは陸上強化コーチだったが、病に倒れて舞台に立てなかった。

岡部平太と特攻で散った長男平一についてはこちらの記事を参照

 今は地元でも知る人が少ない岡部の生き方に共鳴した2人は、記念すべき年に、スポーツや戦争について考えてもらう舞台にしたいと考えていた。大塚さんが脚本を書き、柔道経験者の仲谷さんが岡部を演じることも決めた。

 しかし、新型コロナの流行で7月に予定していた舞台は延期。劇団がそれぞれ予定していた舞台も延期や中止を余儀なくされてしまった。

岡部が米国留学し、アメフトで活躍するシーン。日本に初めてアメフトを紹介したのも岡部だ(撮影・岡部拓也)
岡部が米国留学し、アメフトで活躍するシーン。日本に初めてアメフトを紹介したのも岡部だ(撮影・岡部拓也)

演劇部室に寝泊まり、知人にだまされ

 2人とも演劇人として順風満帆に歩んできたわけではない。

 

 大塚さんは福岡県小郡市出身。福岡大付属大濠高校を卒業した後、ある大学の演劇部の部室に2年間寝泊まりしていた経験がある。

 「後輩がいたから面白そうだと思って。でも僕はもぐりですね。夜警が見回りに来ると息を潜めていました」

 その後、上京してアマチュアの劇団で活動して気付いた。

 「劇団の魅力がないと、東京でもお客さんは来ない。それより福岡でしかできないこと、自分にしかできないことを見つければ、生きていけるんじゃないか」

 帰郷した大塚さんが思いついたのは、福岡の街の物語。舞台の前座として、自作した建物やバスのかぶり物を着けてコントをやってみたら大受けした。それからは、西鉄バスのかぶり物を着けた軍団が会場を練り歩き、タクシーや地下鉄と戦う「交通戦争」など、福岡ならではのストーリーを生み出してきた。

 仲谷さんは北九州市若松区出身。小学校3年から中学3年まで柔道に打ち込み、中学時代は県で3位になった。八幡高校に入学すると「テレビっ子だったのでなんとなくタレントになりたかった」と、福岡市内のタレント養成スクールに通った。

 

 その後、舞台俳優を目指して劇団を結成。しかし、知人に金をだまし取られてしまう。居酒屋と共同で借りていたホールも、居酒屋が倒産してしまい、劇団経営は悪化の一途をたどった。

 そんな時、唐人町という商店街にできた多目的ホールの運営を任されることになり、全国でも珍しい商店街に拠点を持つ劇団として活動を続けてきた。

東京高等師範学校時代の岡部が相撲で活躍するシーン(撮影・岡部拓也)
東京高等師範学校時代の岡部が相撲で活躍するシーン(撮影・岡部拓也)

「ただただ、じっと耐えてきた」

 そんな苦労を知る2人にとっても、今回の苦境は味わったことのないものだった。

 「頭が真っ白になった。公演ができなくなるかもと思うと、脚本を書くのが怖くなった」

 脚本を担当する大塚さんは、ひたすら巣ごもり生活。そんな時、支えになったのが仲谷さんの言葉だった。

 「俺が何とかして公演を実現させるから大丈夫だ」

 自分は金策に走り回っていたが、メールや電話で励まし続けた。

 

 緊急事態宣言が解除され、ようやく光が見え始めた6月初旬、2人は入念に感染対策をした上で、上演に向けて動くことを決意した。

 すると、大塚さんは脚本を大幅に書き換えた。

 舞台の冒頭、岡部が戦後、郷里の福岡でスポーツの聖地「平和台」を創設するシーン。

 「戦争は終わった。だが苦しい時代は続く!」

 岡部が言葉を発すると、劇団員が続ける。

 「不安におびえながら息を潜め」

 「眠れぬ夜明けを迎え」

 「学校にも仕事にも行くことができず」

 「ただただ、じっと耐えてきた」

 岡部「ただただ、生きるために耐えてきた!」

 そして、こう続く。

 岡部「もう今までとは違うかもしれない。まだ苦しいことが続くかもしれない。それでも前を向いて!」

 全員「前を向いて!」

 岡部「お互い励まし合いながら」

 全員「お互い励まし合いながら」

 岡部「さあ、一緒に進もう!」

 全員「さあ、一緒に!」

 岡部「岡部平太物語」

 全員「開幕!」

 劇団は9月に福岡県直方市、糸島市での公演を無事に終え、いよいよ10月末には劇団の本拠地、福岡市での6公演に挑む。

 大塚さんは、こう語る。

 「戦争という苦難には及ばないが、今の僕らもやりたいことができないという点では同じ。でも、岡部は踏ん張った。そこに、今、岡部を演じる価値がある」

 その役を演じるのは、盟友の仲谷さんだ。舞台狭しと駆け回るその姿は、我々にコロナ禍で「生きる意味」を問い掛ける。

 演劇の公演日程はこちら

米国留学し、アメリカンフットボールで活躍した岡部平太(遺族提供)
米国留学し、アメリカンフットボールで活躍した岡部平太(遺族提供)

岡部平太(おかべ・へいた)

 1891(明治24)年9月10日、福岡県糸島郡芥屋村(現糸島市)で生まれる。柔道8段、剣道5段。スポーツ万能で、陸上、サッカー、野球、競泳、テニス、ボクシング、スケートなどを実践し「天狗」と呼ばれた。指導者として多くの一流選手を育てたが、生来の反骨精神から古い体質の日本スポーツ界と対立し、その生涯は波瀾万丈だった。

 福岡師範学校から、東京高等師範学校に進学。講道館柔道の創設者、嘉納治五郎の右腕となり、米国留学で科学トレーニング理論を習得した。その後、満州(現中国東北部)に渡り、スポーツを通じた日中融和に身を投じたが、戦争激化で願いはかなわなかった。

満州時代の岡部平太と家族。長男の平一(右)は特攻で戦死する(遺族提供)
満州時代の岡部平太と家族。長男の平一(右)は特攻で戦死する(遺族提供)

 特攻隊員だった一人息子を失った岡部は、1948(昭和23)年の福岡国体の開催に向け、連合国軍総司令部(GHQ)に接収されていた丘陵地を取り戻し、不戦の誓いと息子への鎮魂を込めて「平和台」と命名した。

 

 岡部はGHQに対して「もう戦争は終わった。ここをスポーツの『Peace Hill』にしたい」と折衝を重ねた。その地は西鉄ライオンズの本拠地・平和台野球場や、平和台陸上競技場という「スポーツの聖地」となる。

 

 その後、「いだてん」金栗四三とともにマラソン選手を育成。1951(昭和26)年のボストンマラソンで、監督として日本人選手を初優勝に導いた。64(昭和39)年の東京五輪では陸上強化コーチを委嘱されたが、病魔に侵され現場に立てなかった。66(昭和41)年11月6日、75歳の生涯を閉じた。

西日本新聞の連載「平和台を創った男 岡部平太伝」はこちら